30 スパークリングワインの涙
「それって、けっこう厄介な話じゃない?」
江里は彼女が作ったベトナム風春巻きをかじりながらそう言った。
「かなりね。しかも相手は中国企業だ。目的を達成するためなら手段なんて選ばない」
「で、どうするの?」
「役員会の中でも意見が割れててね。現時点の結論としては、うちは昭和テクノロジーとは長いつきあいがあるから、水面下でやりとりをしながら、とりあえず今はもう少しだけ様子を見ようということになっている。ただ、半導体プロジェクトの事実上の権限は俺にある。最終的には、俺の判断にゆだねるということになるだろうね」
先月江里と2人で駿河台のレストランに行った画像がツイッターにアップされてしまい、気軽に外に出られなくなってしまった。それほど彼女は有名人になっているのだ。
その分、この恵比寿のマンションは十分にくつろげる。江里がここに引っ越してからまだ半年も経っていないし、今はちょうど政治がらみのスキャンダルが世の中を大いに賑わせているからパパラッチたちにもつかまれてはいない。
「責任重大ね。1兆とか1.5兆とか、私には及びもつかない」
「大したことはない。会社のカネだ」
江里はまぶしい光でも見るようにして一井に目を向けた。
「何よりもヒヤヒヤさせられるのは、この話がどのタイミングでマスコミに流れるかっていうことだ。早い段階で取り上げられたら、ウチもスピード感を持って対応しなけりゃならなくなる。このへんは長江技術の戦略にもよるんだけどね。奴等が何を考えているか全くつかめないから、とにかく気を揉むんだよ」
「実際、お金は出せるの?」
「出そうと思えば出せるよ。ただ、どこから引っ張ってくるかということについては作戦がいるね。内部留保をどこまで切り崩すか、当然、融資上の戦略もいる。政府関係筋にも頭出しをしておく必要がある。そのためにも、今後半導体事業をどう成長させるかというストーリーを、今まで以上に、社の内外に向けて、きっちり説明しなければならない。まさに御手洗の出番だよ」
一井は「限定醸造」のシールが貼られたヱビスビールに口を付ける。
「でもね、俺個人の意見としては、マネーゲームには乗りたくないんだよ。そもそもこのプロジェクトの立ち上げに関しても全面的に推進したいというわけでもなかったんだ。たしかに半導体は今後も成長が見込める分野でもあるし、今のところ液晶パネルみたいに新興国に簡単に真似されるようなことにはならないだろう。でもね、たとえば100年後にまだ最先端をいってるかというと、そうじゃない。単にカネで手に入れたものは、用がなくなると捨てられる。いちばん大事なことは、この事業をどうやって会社に根付かせて、世の中の人々に必要とされながら、次の世代につなげていくかという持続的視点なんだ」
「100年かあ。その頃には私たちは誰もいなくなっちゃうね」
「そうだよ。でもね、それくらいのスパンで考えとかないと、逆にこの10年間にすべきことが正しく見えてこないんだ」
「それって、会社内ではスタンダードな考えなの?」
「残念ながらそういうことを言う人は少なくなってしまったね。会長が他界してからは、いろんな奴が台頭してきて、会社の理念が求心力を失っているね。俺が心配するのはそこなんだ。このタイミングでマネーゲームに挑むっていうのは、安全性を確認しないままに大型船を進水させるのと同じことだ。タイタニック号にならなければいいけど」
江里はリモコンでテレビの電源を落とし、インターネットラジオを流した。軽快なコンテンポラリー・ジャズがまだ新築の匂いのする部屋に潤いを与え始めた。
「日本企業も、今は大変なのね」
一井は再びヱビスビールに口を付けた。ラベルには「スムース&フルーティー」と
「絶え間ないイノベーションってことを、誰もが口を揃えて言ってるだろ。でも、多くの場合、持続的な視点ではなくて、単なる競争なんだ。短距離走のペースでマラソンを走れっていう競争だよ。しかも、ゴールの見えないないマラソンだ」
「でも、1人で走るわけでもないでしょ」
「その通りだ。ただね、実際にはチームを作ってマラソンを走るっていうのも大変なことなんだ。1人の方が楽に感じられることもある」
江里はスパークリングワインを飲みながら、何も言わずに一井を見ている。
「グローバル競争を生き残るために絶え間ないイノベーションが必要だという論説を疑うつもりなんてないよ。でもね、俺はこのグローバル社会というものについて、そもそも懐疑的なんだよ。今のシステムを分かりやすく言うと、『誰にでもチャンスがある』っていうことなんだ。そこに必要なのはカネとスピードだ。でもね、世の中を動かすというのは、そういう勢い任せじゃだめだよ。やっぱり軸となるのは人間性であり、理念だと思う。『専務、それはただの理想論ですよ、経済的豊かさが心の豊かさをもたらすんです』って御手洗は反論してくるけど、俺はそういうもんじゃないと信じたいね。ここからは論理の問題じゃなくて、個人的な価値観の話になるけどね」
「難しいわね」
江里はつぶやいた。
そういえば、このたびの買収劇に関して、こんなにも誰かに対して熱く語ったことはなかったと、一井は自らを
普段は、100%仕事に集中できていないのだ。
一井君、会社のことはもちろんだが、紫倉君もよろしく頼むよ。彼女を可愛がってやれるのは君しかいないんだ。ワシが別荘でパーティーを開いていたのも、すべては君たちの出会いのためなんだからな。
幻聴が耳元で聞こえた瞬間、江里がワイングラスを倒した。
葡萄の香りのするスパークリングワインが、雨のような音を立ててテーブルの上に流れ出した。
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