13 矜恃【プライド】
東京から帰った週の木曜、夏越と2人で、ショットバー「小宇宙」に足を運んだ。
「ますます関係がこじれたような気がするね、ついに電話にも出てもらえなくなったよ」
一井は投げやり気味にビールを飲んだ。
「電話をスルーされるって、相当ね。その女にしてみりゃ、晴明ちゃんは上司なんだからさ。つくづく、生意気な女ねぇ」
夏越は首をくるくると回した。栄養失調でやせ細った猫のようにも見える。
「どうせ俺は上司として見てもらえてないんだろう」
「そうじゃないわよ、晴明ちゃんに甘えてるのよ」
「分からんね、女性の心理というものが全くつかめない」
「心配しなくてもいいわよ。どうせその女の心には、常に晴明ちゃんのことがあるんだから。だって、契っちゃったのよ」
学生たちのグループが店内に入ってきた。入口のドアから拍手のような雨音も一緒に飛び込んでくる。彼らは窓際のテーブル席に陣取って酒をオーダーした後、哲学だの自然科学だのを口々に議論し始めた。
一井はシャツのボタンを2つ外し、新しいビールを注文した。
「その女は、
「空蝉?」
「そう、『源氏物語』で最初に登場する中の品の女」
夏越は得体のしれない緑色のカクテルに視線を落とす。
「どういうところが?」
「根暗のおばさんってところがそっくり」
「だからそんな言い方はないだろうって」
「大事なのは、なんで空蝉が根暗になったかってことよ」
「なぜだ? なぜなんだ?」
「空蝉って、元々は上流貴族の娘だったの。正確に言うと、パパは中納言で、十分な上級官僚だったのよ。でもね、頼みのパパは死んじゃうの。それからというもの、人生が急落するの。まあ、よくある話じゃない」
夏越は唇をとがらせて緑のカクテルに口を付けた。花の蜜を吸う不気味な模様をした蝶を連想させた。
「後ろ盾がなくなっちゃったから、上流貴族との結婚のチャンスもついえたわけよ。結局、
「でもそれは『源氏物語』の話であって、田中紫倉の話じゃないだろう」
一井は口を挟む。
「晴明ちゃんの話を聞いてるとね、空蝉とその女の魂は、どうも一致してるのよ」
「魂が一致? どういうことだ?」
「2人には
「矜持って、プライドのことか?」
夏越はふっと笑みを浮かべた。それから、腹が減ったからと、ウインナーとフライドポテトをオーダーした。
「この先本気の恋をしたところで、どう考えても身分の違いすぎる光源氏にどうせ遊ばれて捨てられるだけ、そのことが何よりつらかったの。つまり、矜持が彼女を苦しめたわけ」
「じゃあ、田中紫倉も矜持によって苦しんでいる、と?」
「大事なのは、彼女たちは、誰とでも一緒に寝るような女じゃないってこと」
「でも、今のはあくまで推論だ。彼女はただの庶民女性かもしれない」
「まあ、そうね。でもね、晴明ちゃん、仮にそうだとしてもね、庶民を侮っちゃいけないわよ。人には誰でも語るべき過去のドラマがあるんだから。それが社会的に見て大きいか小さいかって言うのは、本人には全く関係ないのよ。だからその女も、その女なりの重大な過去を引きずって生きてるのよ」
その声は、安っぽい合板でできたカウンターを震わせた。
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