10 オレンジ色の憂鬱

 6月最後の木曜日、直属の部下である林田康平はやしだこうへいと2人で上京した。

 関ヶ原を過ぎてからというもの、雲は見る見る分厚くなり、窓をかすめる涙のような雨粒も大きくなってきた。時折稲光がして、新幹線は減速を交えながらのしゃきっとしない運行となっている。

「いつもこの辺りから、天気が急変しますね」

 林田は外を眺めながら言った。慶応大学ラグビー部の主将で、大学選手権にも出場しているこの男は、仕事も切れる。


 一井がカナダから帰ってきたばかりの頃は、ほしい情報をすぐに提供してくれた。会社の現状、取引先のキーパーソン、職場の人間関係、社員の特徴、それから京都について。まさにラグビーのパスのようだった。

 食事の場所として選ぶのも「陰の名店」とでも言うべき風情ある店で、どこもクオリティが高い。いい店での食事をセッティングできる者は仕事もできる。今は総務部の主任だが、いずれ上がってゆくだろうと一井は思っている。来年あたり、新しく立ち上げるホーチミンの事業所を任せてもいいとさえ考えている。

 その林田はさっきから外ばかり見ている。いつもは仕事の話をどんどんぶつけてくるのに、今日ばかりは一井の様子をうかがっている。

 それもそのはず、一井の頭の内側には、秘書室での紫倉のつれない態度が浜辺に打ち上げられた海藻のようにべったりと貼り付いている。

 

 今回、一井と林田は、経団連の委員会に出席することになっている。

 会議は木曜日から土曜日にかけて行われ、それが終わった後、林田だけが先に京都に帰るというプランを立てている。一井には会わなければならない女性がいるのだ。


 会議が幕を閉じた土曜の夕方、南青山のカフェには野際のぎわ江里えりが待っていた。

「つくづく面倒臭くってね、無駄に疲れちゃうのよ」

 江里は、ラグビーボールのような形をした白い陶器に盛られたサラダを、フォークで口に入れながら愚痴を吐いた。

一昨年おととしから職場内の雲行きが急激にあやしくなってきたの。管理職が現場に全く興味を持たなくなって、社員たちはやりたい放題」

「つまり、それまでは現場主義のきちんとした管理職だったわけだ」

「特に室次長が最高だったわ。私たちにすごく興味を持ってくれてたの。飲み会にも連れて行ってもらったし」

「前任者とのギャップが大きいんだね」

 一井は平皿の陶器に盛り付けられたグリルチキンをナイフとフォークで取り分けた。

「新しい室次長ときたら、無能なくせに威張りまくってるの。デスクから離れずにずっとパソコンばっかり打ってるし。きわめて険しい顔でね。だから現場の雰囲気がどんどん悪くなるのよ。ねたみがすごくて人の揚げ足ばかりとる人が次々に増殖してきたわね」

「特に君たちの業界じゃ、そういうのはあるだろうね。ちょっと、想像できないけど」

「最悪よね。嫉む人って、要するにヒマなのよ。被害者は気にしないようにしてるけど、確実にメンタルをやられてるわ」

「で、君もターゲットになってるのかい?」

 江里はため息を吐いた後で、目を閉じて言う。

「どうやらメインターゲットになってるみたい。先週の社内アンケートでも、私に対する度を超した誹謗中傷が平気で書き込まれていた」

「管理職はそういうことを書く奴等に何も言わないのかい?」

「見て見ぬふりをしてるのよ。ドロドロした社員の人間関係に首を突っ込みたくないのよ。自分が巻き込まれると面倒臭いと思ってるの」

「ずいぶんとレベルの低い話だな」

 一井はグリルチキンを食べながら言う。

「今の室次長は、上役うわやくしか見ていないわ。人によって明らかに態度が変わるもの。情けないわ」

「いっそのことフリーになってしまえばいいじゃないか? 君ならできるさ」

 江里は斜めにサラダを見下ろしながら答える。

「今の会社自体は嫌いじゃないし、もっと高い職位の中には志をもった方もいるから、そういう人を励みにして、どうにか凌いでるの。でも、やっぱり、人の揚げ足をとって喜んでいる雑魚ざこには腹が立つのよ」


 今いる2階の窓からは、向かいにある家具のコンセプトショップのショールームが見え、その前の通りをたくさんの人々が色とりどりの傘を差して通り過ぎている。

 江里は、襟のついた黒いシャツにスキニーな白パンツをはいている。話をするたびに金色のピアスと長く垂れ下がったネックレスが店内の照明に当たってチカチカ反射する。胸元はしっかりと盛り上がっている。

 彼女はテレビ局のアナウンサーで、平日の朝の番組にレギュラー出演している。早稲田大学の教授であり著名な国際政治学者でもある彼女の父親は、テレビのコメンテーターとしてたびたび登場する。

 そんな、親子2代にわたる有名人であるにもかかわらず、一井と外に出る時にはほとんど変装しない。もっとも、ぱりっとしたスーツを着ている一井は、どうせ仕事上の関係者にしか見えないのかもしれない。

 一井とつきあう前、江里は映画俳優と交際していて、夜に外で抱き合う写真が週刊誌にすっぱ抜かれたことがあったが、そういう過去を全く感じさせないほど、堂々としている。


 カフェを出た時、本降りだった雨は、すっかり粒を細かくしていた。

 久しぶりに繰り出した表参道の土曜の夕刻は、ひときわ多くの人々で賑わっていて、否応なしに体感湿度を跳ね上げている。

 江里はディオールでアクセサリーを品定めした後、横断歩道を渡り、マリメッコに入った。ウインドウショッピングはこの子の数少ないストレス発散法だということは、一井もよく心得ている。それで、江里が気に入ったユニークな形のサングラスをプレゼントした。

 マリメッコを出た2人は、明治神宮方面に歩を進め、江里はナイキショップに一井を連れ込んで、時間をかけてランニングシューズの試し履きをした。

 シューズもプレゼントすると申し出たが、江里は、これくらい私が買うよ、と言って自分のカードをさっと取り出した。


「シューズを新しくすると、タイムが上がりそうね」

 外へ出た江里は、ナイキのロゴがプリントされた大きなオレンジの紙袋を提げて、得意げに胸を張った。

「フルマラソンに挑戦しようかなって、密かに企んでるの。とりあえず、今年は東京マラソンにエントリーするつもりなの。完走したら、祝賀会開いてね」

「もちろんだ。楽しみにしとくよ」

 一井はそう答えた。

 表参道を往復したときには、そろそろ陽が傾きかけていた。厚く覆い被さった雲の亀裂からは、オレンジの空が傷口のように広がっている。

 一井はトロントの空を思い出した。仕事が終わった後、現地の友人と一緒に、セントローレンスマーケットに買い物に行ったものだ。あそこも表参道に負けないほどの活気があり、空がじつにきれいだった。トロントの夕焼けは、どこか日本の夕焼けに似ていて、旅愁を感じさせてくれた。

 それが、今東京にいるのに、江里と歩きながら見上げる空に違和感を覚えている。とてつもなく遠い場所に来てしまったかのような錯覚に陥っている。

 今紫倉は何をしているのかということが、常に頭をもたげているからだ。

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