9 ブラック ファイア

 目が覚めたとき、コニファーの彼方に広がる湖畔の空は、うっすらと白みがかっていた。どうやら夜明けが近づいているようだ。

 紫倉は白いノースリーブを着て、背を向けたまま横たわっている。

 一井はベッドから起き上がり、開け放った窓を少しだけ閉めた。その時、遠くで水鳥の鳴き声が幾重にも響き渡った。

 紫倉を見るにつけ、もう1度彼女を抱きたいという衝動に駆られたが、今それをするのははばかられた。1階のダイニングでは別荘の管理人がごそごそと動き始めているようだ。今はできるだけ静かにしておくのが得策だ。

「パーティーはとても楽しかったよ。できれば、また会いたいですね」

 一井はささやきかけるが、紫倉は微動だにしない。

 彼女の傍らに腰を下ろし、その髪にそっと手を置く。群青色の風景に包まれた紫倉は、体をこわばらせている。

「どうしましたか? 具合でも悪いのですか?」


 しばらく沈黙が続いた後で、もう1度水鳥の声が響いた。1階の人が立てる音も徐々に大きくなってきている。そろそろ自分の部屋に戻らなければならないようだ。

 紫倉の顔を覗き込むようにして、「次も会えますよね?」と小声でたしかめてみる。紫倉は、プラスティックのような瞳を虚空に向けるだけで、何の反応もない。

 部屋に差し込む月の光にぼんやりと照らされる紫倉は、実にいとおしい。

 仕方なく立ち上がり、最後にもう1度、彼女の姿を瞳に焼き付ける。

「一緒に朝食を食べましょう。先に下りて待っていますよ。僕は、もう君のことが頭から離れないんだ」

 そう言い残して、音を立てないように、部屋のドアをゆっくりと閉めた。


 ところが、身支度を調えてダイニングに下りたとき、紫倉がこの別荘を出て行ったことが話題になっていた。

「ついさっき、帰られましたよ。急用ができたからって。少し取り乱した様子でしたけど」

 管理人の関屋せきやという初老の男性は、一井のカップにコーヒーを注ぎながら説明した。

「無理に泊まらせてしまって、悪かったかしらね?」

 会長夫人はコーヒーをすすりながら首をひねった。

「彼女は何か言っとったかね?」

 会長は後頭部に寝ぐせを付けたまま関屋に問いかける。

「いえ、特に、何もおっしゃいませんでした。『どうか皆様によろしくお伝えください』とだけ言って、急いで出て行かれました。ひどくお疲れのようで、ほとんど寝てらっしゃらないようにも見えました」

「一井君、何か聞いとらんかね?」

「私もよく分かりませんね。昨夜は、あれから彼女はすぐに部屋に戻っていきましたから。本当に急用ができたんでしょう」

 炭のように乾ききった喉の奥から、辛うじて言葉を出した。

「あの年代の女の人はねえ、何かと忙しいものなのよ。うちもそうだったでしょう?」

 夫人は穏やかな表情で言う。会長は首をかしげながら、フォークに刺したパイナップルを口に入れた。


 窓の外に広がる早朝の風景に目を遣ると、別荘を囲むコニファーの木々は黒い炎のように見える。そこに霧雨が煙っている。どうやら、月は消滅したらしい。

 紫倉の部屋から見えた美しく幻想的な景色は、何だったのだろう? 自分は何者かに騙されているのではないかと疑った。

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