2 小宇宙と妖怪

「で、結局何者なのよ? その女って」

 夏越なごしつかさはいかにも面倒臭そうに言い、手のひらで顔全体を包み込むようにして頬杖をつく。

「それが、俺にもよく分からないところが多くてね、とにかく情報がない」

 一井はハイボールを喉に流し込む。

 ショットバー「小宇宙」は、京都大学に近いだけあって学生たちで賑わっているが、それはテーブル席の話で、カウンターに座っているのは一井と夏越の2人だけだ。気味悪がられて避けられているようでもある。

「元々はうちのビルを管理する会社のスタッフとして出入りしてたのが、ある時突然会長の秘書に抜擢されたということは会長の口から聞いた。最初は非正規雇用だったけど、今は正社員になってる」

 一井が嘆息交じりに言うと、夏越は「さすがにひいちゃってんのよ、晴明ちゃんに」と応え、その骨張った細い手でグラスを持って日本酒のスパークリングに唇を浸した。


 夏越は一井にとって東京大学の後輩であるにもかかわらず、一井のことを「晴明ちゃん」と呼ぶ。こういう呼び方をするのはこの世の中で夏越だけだが、一井は特に何も思わない。馴れというものは恐ろしい。

「いくらなんでも、現職の防衛大臣の御子息で、おじいちゃまは昔の宮内庁長官。当の御本人は日本を代表する老舗大企業で将来を嘱望されるキャリア。そんな超大物と恋に落ちるっていうのは、どう考えてもおそれ多いに決まってんじゃないの」

「少なくとも、親父とか、じいちゃんのことは関係ないだろ」

 もしそれが紫倉の障壁になっているのなら、今すぐにでも彼女の前に駆け寄り、たのむから気にしないでくれ、と心の底から絶叫したいくらいだ。


 夏越は取りたてほやほやの鼻くそを指で払い落とす。

 この男は、元々は東京の出身だが、現在は京都市内にある小さな博物館の学芸員として働いている。しかも非常勤の嘱託職員だ。

 艶のある髪を肩まで伸ばし、それを耳の後ろに掻き上げる。その仕草は学生時代から何ら変わっていない。

 当時は何かを研究させたらヤマタノオロチのようにしつこく追求し、誰にもたどり着けない境地に達して周囲を驚愕させたものだ。

 超人的な記憶力も持ちあわせていて、どの言葉がどの文献の何ページに記載されているということまで完璧にインプットしていた。

 当然、大手総合商社やデータ管理会社をはじめ、いくつかの有力な就職口から指名を受けたが、それらには全く目もくれず、ただ自分がやりたい研究が自分のペースでできるアルバイト同然の今の仕事を選んだわけだ。

「晴明ちゃんも、カナダから帰ってきて、あっという間に京都ワールドにはまっちゃったのね。恋をする人にとっては、京都って、ものすごぉーく怖いとこなのよ。ちゃんと心得てといた方が身のためよ」

「たのむからさ、不気味なこと言わないでくれよな」

 一井は自分のハイボールを飲みきった後、シャツの襟のボタンを外してネクタイを緩め、次のハイボールを注文した。

 冷房が効いているはずなのに、店内は妙に蒸し暑い。

 外では雨音が他人事のようにざわめいている。 


「その女って、人妻なの?」

「そうだ」

「つまり晴明ちゃんは、これまでとは違う恋に墜ちてんのね」

 たしかにそう言われてみれば、紫倉は過去に好きになってきた女性とはタイプが違う。過去の女性たちのことは今でもひとりひとりはっきりと思い出すことができるのに、紫倉ときたら、現在進行形であるにもかかわらず顔を思い浮かべることすら難しい。

「今をときめく防衛大臣の御子息が、あろうことか一般人の人妻にマジで恋しちゃった、それも、相手は根暗のおばさん。話のネタとしては最高に面白いわね」

 夏越は妖怪のようにケラケラと笑い声を立てる。

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