31 ダークサイド ラブ

「ごめんなさい、大丈夫だった? 濡れてない?」

 江里はカウンタークロスを握ったまま、一井を気遣った。

「大丈夫だよ、たいして濡れちゃいない」

 一井のシャツについたワインを拭きながら、江里はちょっとした感慨に耽っていた。この人と出会ってもう7年。自分は今年で34歳になる。そろそろ一緒に生活したい。

 だが、今の様子を見ていると、とてもそれどころではない。彼に与えられた新しい仕事が落ち着くのを待つしかないが、それはいったいいつのことだろうと思うと、宇宙を見上げるような気分になる。

 

 幼い頃は、ずっとの声を聞きながら生きてきた。どうやら自分の中には2人の男女がいるらしかった。彼らはいつも激しい口論をしていた。

「どうして私を騙したの?」と女はいつも男に激しく噛みついていた。「あなたに裏切られたせいで、私の人生はめちゃくちゃになってしまったじゃない。この復讐は絶対に果たしてやるからね」 

 男の方は何も言わない。だが、男の抱えるあきらめだけは伝わってくる。男は女のことなどこれっぽっちも思っていない。女にリベンジされるのは怖いと思っている。

 そんな自分の心の中でのやりとりを、何年もの間、傍観していた。2人はいったい誰だろうと。

 だが、中学2年生の時だった、男が急に自分の方を向いた。

「……オレと一緒に地獄に堕ちようぜ」

 ピストルで撃ち抜かれたような恐怖に襲われ、耳をふさいだ。

「お前はずっと俺たちのことを見てきたよな。だから同罪なんだよ。俺はもうすぐあの女に殺される。その時はお前も一緒だよ」

「そんなの絶対にイヤよ、頼むから私の中から出ていってちょうだい!」

 江里は髪を掻きむしりながら叫んだ。命がけの抵抗だった。

「ハハハハハハハ、お前の苦しむ顔を見ると、たまらなく愉快になるんだよ。さあ来い、俺が連れて行ってやるからさ」

「やめて! そんなことするなら、私がお前を殺す」

 目を開けたとき、学校の教員たちの冷淡な視線があった。気が付けば、そのまま精神科に運び込まれていた。


 両親は小学校の時に離婚していて、母親は家を出て行ったきり1度も会いに来なかった。写真を見ても、ピンとこない。自分に似ているとも思わない。

 それゆえ、精神科に駆け寄ってくれたのは、祖母だった。医師からは思春期特有のパニック障害だと診断されたが、それ以降、格好のいじめのターゲットとなった。

 まわりの人たちがすべて悪魔に見えた。高校入試にも全く手が着かずに、鎌倉の学校に転校した。日本でも有数のカウンセリング機能を備えた学校だった。そこを見つけ出してくれたのは国際政治学者の父だった。

 父だけは東京に残り、祖母と2人だけで鎌倉に転住した。海岸通りから1本入ったこぎれいなマンションだった。


 ところが、は鎌倉にまでついてきた。

 地元で有名だという霊媒師によると、鎌倉の海で太宰治と海に入水し、1人だけ自殺を遂げた女の霊らしかった。新しく引っ越した家が、事件直後に太宰が収容されていた精神科病院(現在は胃腸科になっている)の近くにあるために、霊がさまよっているらしかった。


 半年も経たないうちに、祖母の故郷である南房総に移り、高校も通信制に変えた。

 相模湾を望む部屋でレポートを書き、読書をし、好きな音楽を聴いたり映画を観たりする。晴れた日にはのどかな海岸沿いの道を散歩する。

 高校2年生になってから近所の学習塾に通いはじめ、話ができる友達もできたし、勉強のおもしろさも感じるようになっていた。

 慕っていた塾の三谷みたに先生から、海外の大学に出た方が良いというアドバイスをもらった。君の場合は、広い世界を知ることで能力がさらに伸ばせるはずだ、と。

 それからというもの、心の中には三谷先生の存在が深く入り込んだ。いつしか先生に認めてもらえることをモチベーションに勉強するようになった。できれば、先生と2人きりになりたいと密かに願った。これがたぶん、初めての恋だ。


 ある夜、タイル張りの風呂に浸かりながら三谷先生のことを思い浮かべていると、長いこと自分を苦しめていたのは、自分自身が無意識のうちに創り上げた心の闇だったことにふと気づいた。その瞬間、身体からがすっと抜けていった。

 その自覚を得てからというもの、勉強に拍車がかかった。上智大学に進学し、4年後には米デューク大学で国際コミュニケーションを専修した。

 このままどこまでも行けると思った。世界を渡り歩くたびに成長が実感できた。三谷先生のおかげだった。

 

 アメリカで学位を取って日本のテレビ局に入社した後、人生が音を立てて動き出した。 

 局の番組ディレクターと恋仲になった。ほんの遊びのつもりで会っているうちに発展した恋だったが、ある日突然、彼の存在が面倒臭くなった。

 だが彼の方は執拗に求めてくるようになり、あと少しで警察に相談しようと考えるほどになった。ストーカーによる事件のニュースを読むたびに、人ごとではないと震えた。

 結局、彼の転職により事態は収束した。彼は彼で苦しんでいたのだ。自分が彼を退社させたのだと思うと、良心の呵責かしゃくさいなまれもした。


 もう2度と軽はずみな行動に出るのはやめようと肝に銘じたはずだったのに、3か月もたたないうちに、営業課長と恋に堕ちた。ディレクターとゴタゴタしていたときに相談に乗ってくれていた人だった。

 初めのうちは、パパのようなやすらぎを感じるだけの存在だったが、職場の上司として尊敬するようになると同時に、本気の恋にハマっていた。

 その人には家庭があった。それゆえ、深みにはまっていくうちに2人ともボロボロになっていった。もはやどうしようもなくなった恋の噂は社内に広がり、マスコミに波及するのを恐れた人事部の部長が2人を呼び出し、訓告をする始末になった。

 本気で退社を考えた。

 しかし人事部は引き留めた。

 局アナとしての人気は上昇し続けていて、視聴率を稼げるのだから社にとどまっていてほしい。「雨降って地固まる」だよ、と背中を叩かれた。

 だが実際は、雨が降ったところで固まるような足元ではなかった。あっけなく次の恋に落ちてしまった。


 相手は映画俳優の野田英二のだえいじだった。新作映画の取材で出会い、その日からちょくちょくメールが入るようになっていた。

 2回ほど食事をして盛り上がった後、速攻で男女の関係となった。

 野田はこれまで理想として描き続けてきた男性だった。何より優しく、心が広かった。演じる役と普段の彼の間には何らギャップはなく、日常生活でもスクリーンの中でも、野田への恋を深めていった。

 その時まだ25歳。

 彼にも妻があった。本格派女優の古澤慶子《《ふるさわけいこ》だ。

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