37 藪の中の真実

 林田が自殺をしたという突然の知らせを受けたのは、それから4日後のことだった。琵琶湖の湖畔公園にあるパーキングエリアの車の中から、彼の遺体が見つかった。ガス自殺のようだった。


「林田康平の人生は、常に全力疾走でした。それゆえ、生前、康平がみなさまに多大なご迷惑をおかけしたことを、この場で深く深くお詫び申し上げます。ただ1つ、最後にわがままなお願いがございます。康平が安らかに眠ることができますよう、生前おかけしたご迷惑のことは、どうか心の中でお許しいただけたら幸いでございます」

 遺族を代表して立派な挨拶を述べたのは林田の兄だった。ヘアスタイル以外は故人の面影を色濃く残している。

 慶応大学時代の同級生である彼の妻は、終始無言で、うなだれていた。隣には2人の子どもが座っている。まだ小学生だ。あれほどの実績を残した男にもかかわらず、参列者は少なく、祭壇も寂しげだった。

 死に至った真相が明らかになっていない状況ゆえ、会社の関係者は参列を控えている。たぶん、自殺の葬儀とはこんな雰囲気になるのだ。

 その中において、どこか得意げな笑みを浮かべた林田の遺影だけが皮肉に輝いている。

 この写真は一緒に京都本社で勤務していたときのものだ。いつも慕ってくれた優秀な部下の姿を思い起こすと、パワフルな声が今にも聞こえてきそうで、胸がふさがる。

「私は、自由を手にしたいのです。一井部長が言われたように、いつかはある程度の職位に就いて、自分のビジョンを実行したいと思っています!」

 なあ、林田。

 いったいお前に何があったんだ? そんなに悩んでいたのであれば、どうして俺に相談してくれなかったんだよ。


「ひょっとして、われわれの会社がご迷惑をおかけしたのかもしれません」

 葬儀が終わった後、初めて会う彼の妻にそう言った。妻は内蔵を完全に抜き取られた魚のような目をして口だけ動かした。

「いえ、私にも責任がありますから。こうなってしまった以上、残された者で、前を向いて生きていくしかありません」

 妻は一井に頭を下げ、2人の子どもと一緒に火葬場へと向かう霊柩車に乗り込んだ。


 京都本社で調査をさせたところ、過度の長時間労働も、上司からのパワハラも報告されなかった。自殺した当日も19時まで仕事をし、いつもと何ら変わりなく退社していったようだ。

「会社の保身のために、事を丸く収めようとしているわけじゃないんだろうな?」

 一井は電話で念を押した。

「もちろんです。労働時間についてはデータも残っております。この半年は平均で残業は約50時間ですから、過労死ラインには達しておりません」

 京都本社の人事部長である中角なかすみは声を震わせた。

「じゃあ、なんであいつは死んだんだ? あんなに優秀で、快活な男が、家族を残して死ななければならなかったんだ?」

 受話器を握る手にぎゅっと力が入る。

「仕事上のストレスを抱えていたのは確かなようです。ASEAN諸国の案件はほとんど林田さん1人で対応していましたから」

「つまり、あいつは管理職として仕事をさばけなかったということか?」

「いえ、だからといって仕事を腐らせていたわけではないのです。同僚たちに聞いても、仕事上の問題はどこにも見当たりません。林田さんは仕事が切れる方でしたから」

「ということは、あいつなりにを抱え込んでいたということか。きつい時こそ明るく振る舞おうとするからな、林田は」

 一井は言った。だが心は収まらない。だとすれば、なぜ俺に相談してくれなかったんだ!

「ただ」

 中角は慎重な口調で言う。

「これは、あくまで私どもの憶測でしかないのですが、どうも仕事以外にも事情があったようなのです」

「事情?」

「はい。と申しますのも、奥さんに話を伺ったところ、どうもそういうニュアンスのことをおっしゃるのです。主人は自分で自分を苦しめていただけだから、亡くなったのは致し方がないのだとおっしゃるのです」

「どういうことだ?」

「私どもにも分かりません。でも奥さんは確かにそうおっしゃいました。会話は録音してあります。事実、過労死の労災手続きもされないというご意向です」

「ちょっと待ってくれよ、全然意味が分からない。いったい林田に何があったって言うんだ?」

 一井は電話を持ったまま、窓際に立ち、師走の都心の風景を見下ろした。いつもよりもさらに高いところに立っているような錯覚を感じた。

「事実は藪の中なのです。労災も認定されないということになれば、今後我々にできることも限られてくると思うのですが。あとは、月並みですが、林田さんのご冥福を祈ることしかできないというのが、我々の調査結果です」

「信じられない」

 電話を切った後、一井は窓ガラスに左手をついてうなだれた。

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