第二部 其の二

 サカミ姫と、能命あたうのみことと、ガガイモなる小精霊――三者の間に長い沈黙が流れた。

 やがて、ガガイモが目をしばたたかせ、首を捻って云った

「はて……。何がどうなったのだ? 下郎ども。麿まろにも解るように説明せよ」

「そ、それはこちらが尋ねたき事じゃ……」

 と、サカミ姫が能命あたうのみことの懐から首だけ出して云った。

「何の為に団栗どんぐりなぞ出した?」

 と、能命あたうのみことが重ねて訊いた。

団栗どんぐりじゃと?」

 ガガイモは鼻頭にしわを寄せ、

麿まろ団栗どんぐりなど出さぬぞ。何を寝惚けを抜かしておる」

 サカミ姫は足下に転がる焦茶の木の実を差して、

「し、しかし、そなたが何やらやった後ではないか。風が震え、凄まじい音が鳴り、ころん、とこれが落ちてきたのじゃ」

抑々そもそも、貴殿は何をしようとしたのだ? 神隠しだか何だかと申しておったが」

 と、能命あたうのみことが云った。

「おお、それよ」

 ガガイモは腕組みして、

麿まろに非礼を働いた己らを消してやろうと思ってな。天雷を呼びよせんとしたのだったわ。して、如何なる首尾となったか、麿まろにも解るように説明せよ」

 土の上に踏ん反り返り、鼻息を荒げるガガイモに、二人は困惑するばかりだった。やがて、サカミ姫は爪先立って背伸びをし、能命あたうのみことの耳元へささやいた。

「これは相当、低級の地祇ちのかみやも知れぬのう。日用の道具や草木そうもくが年をり、初めて九十九つくもの神と成りし時には、知に劣る者もあると云うが……」

 能命あたうのみことは頷いて、

「つまり、莫迦ばかと云う事か」

あたう殿、ちと云い過ぎじゃぞ。わらわただ、その辺の小童こわっぱより話が通じぬ相手と申したのじゃ」

「姫御。それを莫迦ばかと云うのだ」


 二人が再び目を向けると、ガガイモが顔を真っ赤にして睨んでいた。どうも、話が聞こえていたらしい。ぎちぎちと歯軋はぎしりを響かせて、

「ゆ、ゆ、許さぬぞ。ぜ、ぜ、絶対に。一切合切、金輪際、神たる麿まろの神名に掛けて神罰を下してやる。今度こそ神隠しにて消し去ってくれるわ」

「また天雷を呼ぼうと云うのか? 先刻は団栗どんぐりが来たではないか」

 と、能命あたうのみことが云った。

「や、や、やり方を間違えただけだ。天より落ちて頭を打ったゆえ、何時もの調子が出なかったのだ」

しばらく休んでいた方が良いのではないか? 無理はからだに悪いぞ」

「黙れ、下種げすが。後悔してももう遅かったと、あの世で後悔するが良い」

 ガガイモが云った瞬間、辺りの空気がまた激しく震え始めた。

 サカミ姫は怯え、側近の懐深く潜り込みながら、

「あ、あたう殿、もう挑発は止めぬか。このびりびり来る感じ、まるで外連けれん(はったり)を申しておるとも思えぬ。つむりは芳しからずとてとて地祇ちのかみの力を侮りたもうな」

 直後、ガガイモがサカミ姫を指で示して、

「また、罵りを抜かしおって。そこな女子おなごは最も許せぬ」

「……姫御こそ、挑発しているではないか」

 と、能命あたうのみことは嘆息してから、

「ガガイモ殿。われらも云い過ぎた。これ、この通り、頭を下げる故、この場は矛を収められよ。このような場所でやり合っても、互いに無益であろう」

「益はある。害虫どもの姿が消えれば、麿まろの胸がすくからな」

「是非にも、我らを攻めると?」

「問答無用だ」

「左様か……されば、仕方あるまい」

 能命あたうのみことは姫を離し、くうへ跳んでくるりと回転した。

 刹那せつなの後、彼の体は数倍にも膨れ上がり、着地する頃には化生けしょうの姿に変容していた。身の丈は平屋の建物に匹敵しようかと云うこの大狐が、能命あたうのみことの真の姿である。世にも稀な白黒の縞模様が全身に入っており、それこそ、彼らの一族が縞狐こうこと呼ばれる由縁だった。


「ガガイモ殿、これだけは申しておこう」

 本性を現した能命あたうのみことは、今や自分の足の爪程の大きさになった相手を見下ろして、

「サカミの姫御は、われにとって、掛け換え無き命の恩人。姫御を脅かさんとする者は、何人たりとも容赦せぬ。真、貴殿が危害を加えんとするつもりなら、われも全力で手向かいいたすぞ」

 しかし、ガガイモは返事もせず、睨み返して来るだけだった。

精霊ちひの端くれなれば、貴殿にも解ろう。われの力が」

 と、能命あたうのみことは駄目押しの如く云い連ね、

「狐狸変化などは云うに及ばず。並みの精霊・神霊なれば、この縞狐こうこ、互角以上に戦う自信がある。雌雄を決せんと望むなら、いずれか落命するまでやり合う覚悟だぞ」

「…………」

「黙っていては解からぬ。やるのか、やらぬのか」

 能命あたうのみことの一喝がむじなが丘に鳴り渡った。

 間もなく、サカミ姫が彼の尻毛を引っ張って、

「……能殿あたうどの。もう、その辺りで良かろう」

「何故だ? 姫御。まだ、ガガイモ殿の――」

「ガガイモ殿は気を失うておる」

「なに?」

「姿を戻して、確かめてみよ。相手が小さ過ぎて、そのままでは見え難かろう」


 能命あたうのみことが瞬時に人に戻り、顔を覗き込むと、ガガイモは立ったまま白目を剝いていた。サカミ姫の説明では、縞狐こうこの姿を見た瞬間、直ぐに失神してしまったと云う。

「随分、威勢の良い事を申したが、非力が上に酷く小心の神のようじゃのう。能殿あたうどのと相対しただけで、この体たらく。まるで黒彦兄のようじゃわえ」

「しかし、こうなって尚、尻尾を出さぬからには、むじなや狐狸の変化ではないようだ。精霊か魍魎かは判らぬが、地祇ちのかみの一類であるのは真らしい。尤も、九十九つくもの神王と云うのは出鱈目でたらめだろうが」

 能命あたうのみことの言葉に、サカミ姫は相槌を打ち、

「そうじゃのう。神王どころか一番下っぱの神に相違ない。何ぞ、頼み事をしようにも、叶える力はなさそうじゃの」

「これから如何するのだ? 姫御。再び、祇喚かみよびをやり直すのか?」

「いや、今宵は終いとしよう。ガガイモ殿の事はどうするかの?」 

「このまま放っておけば良い。気が戻れば、勝手に元の場所へ還ろう。たとえ、それまでに狐狸などに喰らわれたとて、吾らの与り知らぬ事」

 サカミ姫は同意し、襤褸ぼろ屋の中へ戻っていった。

 密儀の片付けが終わると、二人は連れだってむじなが丘を下った。


                  ◇


 サカミ姫の父・墨江中津すみえのなかつ王には数多あまたの妻子があり、三野国の各地に立てた離宮に、それぞれを分けて住まわせていた。

 この頃、サカミ姫が住居としていた場所は、むじなが丘の南、伊備川いびがわ(揖斐川)の東の畔に立つ伊備の離宮であった。一年前までは、姫の姉・橘大郎女たちばなのおおいらつめも同居していたが、先の雄朝津間稚子宿禰大王おあさづま わくごのすくねのおおきみの子で、従兄弟に当たる八釣白彦やつりのしろひこ王子へ嫁ぐ為に出て行った。既に母は亡く、父王の訪問も稀である故、実質、姫を監督する立場の者は誰もいなかった。


 祇喚かみよびの密儀の翌日。

 ひるになってようやく寝室を離れたサカミ姫は、居宮の庭に面した軒に出て、まじないに関する書などを読み始めた。

 すると、直ぐに能命あたうのみことが現れ、

「やっとお目覚めか、姫御ひめご。うら若き娘がそう自堕落では、父君に叱られようぞ。われを見習い、早起きしてはどうだ?」

「そなたと比べんで貰いたいのう」

 サカミ姫は口を尖らせて、

「人の身は化生けしょうとは違うのじゃ。夜を徹した後は深く眠らねばならぬ。能殿あたうどのが如く、日に半刻の眠りで平然としておれるものか」

「なれば、夜更かしは止めるべきでは?」

「そなた、姉君のような事を云うのう。それとこれとは話が別じゃ。ともあれ、昨夜の諸々で疲れた故、中々、床を出られなかったのじゃ」

「確かに。色々とややこしい成り行きであったからな」

 と、能命あたうのみことは同調し、

「が、まあ、そう落胆するな、姫御。次はもっと良い地祇ちのかみを呼べばよい」

「こりゃ能殿あたうどの。密儀が失敗であったような言い草は控えよ。此度の事は、偶々たまたま、無能な神に当たっただけ。こちらの失敗ではないのじゃ。何であれ、地祇ちのかみが降りたもうた事は、寧ろ、わらわの正しさの証じゃと思わぬのか?」

 と、サカミ姫は凄まじい剣幕でまくし立てた。

「解った。解った。われの失言だ」

 と、能命あたうのみことは嘆息して云った。

「ま、それは善いとして……能殿あたうどの。帰ってから考えたのじゃが、あの時、変化へんげする必要があったのか? 縞狐こうこの姿に成らずとも、多少の力は使えように」 

「姫御が案じるのも解るが、相手は妖火狐ようひこの手の者やもと思ったのでな」

「近隣の者に見られたら何とする? この宮に化け物がおるなどと噂が立てば、

そなたはここを去る事になろう。そうなればわらわを守る者はいなくなり、途方に暮れてしまうぞ」

 そう云ってサカミ姫は肩を落とした。


 二人の付き合いの源を辿ると、五年前、まだ幼かった姫が瀕死の子狐を森で発見し、離宮に連れ帰ったのが事の始まりである。姫は姉の橘大郎女たちばなのおおいらつめとともに手厚く世話を焼き、そのおかげで子狐の傷は無事に癒えた。後に能命あたうのみことと名付けられるその子狐は、以来、離宮内で飼われるようになり、姫の親しい友となった。


 能命あたうのみことただの狐でないと判ったのは、離宮へ来て半年後の事である。夜道で物のに狙われたサカミ姫の母子を、能命あたうのみことが本来の力を発揮して撃退してみせたのだ。元来、姫の母方の祖先は神仕かみつこの関係者であり、母、姉、そして、姫自身も神懸りの素養を持っている。それ故、人ならぬ世界に理解があり、突然、変化した能命あたうのみことを見ても遠ざけようとはしなかった。そればかりか、である事を認めた上で、姿を偽っていた事情を聞きたがった。


 能命あたうのみことの側からすれば、決して、したつもりはなかった。母狐を追って大陸から渡って来たのだが、倭国に一大勢力を築く大老狐・妖火狐ようひこの眷属どもに襲われ、深手を負って森へ逃げ込んだのである。体内の力を失い、身が縮んで倒れたところへ、サカミ姫が現れて救ってくれた、と云うのが真相だった(尚、能命あたうのみことの年齢は百余歳で、千年の寿命を生きる縞狐こうこの中では、実際、子狐の扱いらしい)。


 程無く、能命あたうのみことの正体は、父王や離宮の近侍衆にも知られる事になった。しかし、姫母子の熱心な後押しに加え、彼自身の素朴さ・実直さが皆に伝わった事もあり、人間の姿でサカミ姫の側近となる話が通った。

 自ら怪異を招きがちなサカミ姫を守るのに、化生けしょうの者を宛てるのはむしろ適任ではないか、と云う声もあったようだ。父王はそれを尤もとした上で、離宮内では公然の秘密である能命あたうのみことの素性につき、無用な混乱を招かぬよう、近隣の民には内密とすべしと厳命した。この禁が破られた場合には、能命あたうのみことは処払いとする――と。

 只今ただいまの姫の心配も、原因はそこにあった。


「姫御、そう悩むこともなかろう。昨夜は、変化したのも一瞬の事。そも、あのような夜深き刻限に、見ておった者があるとも思えぬ」

 と、能命あたうのみことは努めて明るく云った。

「ま、そうであろうとは思うがのう……」

「どうせ悩んでも始まらぬ。次の祇喚かみよびの事でも考えたが良い」

「うん、そうじゃの。それが良い。あたう殿を見て気を失うような、甲斐性かいしょう無しの神を呼ばぬ工夫を考えねばの」

 そう云って、サカミ姫はようやくく笑った。

 能命あたうのみことはほっとして頷いた。

 丁度、その時……。


「その事につき、頼みがあって参ったのだが」

 と、どちらのものでもない声が間近で云った。


 慌ててサカミ姫が足下に目をやると、見覚えのある小さな生き物が立っていた。

「そ、そなたは、ガガイモ殿……。な、何故、ここにいるのじゃ」

 復讐に来たのかと身構えたが、ガガイモの態度に昨日の威勢の良さはなかった。

 がっくりと項垂れ、何度も溜息をつきながら、

「昨夜の事……どうか、他言無用に願えぬか? 狐に吃驚して気絶したとあっては、九十九つくもの神王として笑いものにされる故……。それと、もうひとつ頼みがあるのだ……」

「何だと? 勝手に参って、矢次ぎ早に二つも頼み事か。なんと図々しい神じゃ」

 呆れるサカミ姫を遮り、能命あたうのみことが云った。

「まあ良い。先ずは申してみよ、ガガイモ殿」

 ガガイモは地面に視線を落としたまま、

「実は……。麿が何処の誰であるのか、一緒に探って欲しいのだ……」

「はっ?」

「色々考えてみたのだが……麿まろの名は、ガガイモではないと思うのだ。ガガイモばかり頭に浮かぶ故、ガガイモと名乗ったが……何処から来たのか思い出さんとすると、やはり、ガガイモが浮かぶ。何の神であったか思い出さんとすると、やはり、ガガイモが浮かぶ。親子兄弟、親類縁者、好みの食べ物、好みの女子――何を考えてもガガイモが浮かぶ。一体、如何すれば良いのだ?」

「…………」

 しなびた蘿蔔すずしろ(大根)の如く身をよじるガガイモを、姫と能命あたうのみことは困惑顔で眺め続けた。




【続】

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大和起つ ~五王の憂悶~ 朱里井音多 @Shurii_Onta

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