第一部 其の六
木梨軽王子の一件から半月後——。
学寮の友・
「これは、
途端に、相手の顔が綻んで、
「おお。武彦殿ではありませぬか。よもや、このような場所でお目にかかるとは」
「私とて同じ思いですよ。その
「先ず先ずと云うところです。武彦殿も御変わり無いようで……。して、そちらのお供の方は
武彦は主君の方を振り返りつつ、
「こちらは、私が仕える吉備国の王子、ハツセの
すると、男は胸に両手を当て、慌てたように、
「これはまた……お供の方、などとご無礼申し上げました。私、武彦殿の甥の
「こちらこそ、御名は聞き及んでおります」
と、ハツセは云った。
「
「まったくの買い被りでございます。大王のご厚意で大役を
——随分、腰の低い人物だな。『
変わり種だが、有力豪族の出にしては、
その葛城氏と同格である物部や大伴の者たちの——主として、宮中における——尊大な振る舞いを考えると、
その折、襲津彦は長男の
「……して、
と、歳上の甥に向かって、武彦が云った。
異母兄弟の玉田宿禰と武彦の年齢差が三十近い関係で、甥の円の方が叔父の武彦より八つ上であった。
「黒彦王子に呼ばれましてね。助手を務めるべく参ったのです」
「助手とは、何の助手です?」
と、ハツセが訊いた。
「本日は、新奇の武具を用いた、特別の
「それは初耳ですな」
と、武彦は云った。
ハツセは妙に感心して、
「黒彦殿もなかなかの遣り手であったのだな。
「あ、いや。
「
「となると、今日も、新しき道具の物験しが?」
「ええ。お二人も、それで参られたのでは無いのですか?」
「実際のところ、よく解らぬのです」
ハツセは苦笑して、
「見せたい物がある故、来られたし——とだけ。兎に角、本人に会ってみましょう」
◆
館の中へ入っていくと、黒彦王子がじりじりした様子で、
「遅かったではないか、そなたたち。何時まで我らを待たせるのじゃ」
その背後には、もう一人の学友・
「いやはや、職務が溜まっておりましたもので。何卒、ご容赦下され、黒彦王子」
と、先頭に立つ
刻限も知らされていないのに、遅かったも無いものだ、とハツセは思いつつ、
「そも、本日は何の集いなのだ? 黒彦殿。先刻、何やらの物験しをすると
「説明しても始まるまい。後ろの庭に仕掛けの用意をしてある故、皆様方、私について参られよ。……おっと、助手の円殿は、物験しに用いる道具の箱を——それ、そこの壁に、大箱が立てかけてあるじゃろう? あれを、持って来て下され」
居丈高な調子で、黒彦は云った。
早足で庭へ向かう彼の後を追いつつ、ハツセは小声で眉輪王子に問うた。
「黒彦殿の様子、
「物造りが絡むと人が変わる、と聞いたぞ。実際、私も見るのは初めてだが」
と、眉輪は応えた。
館の後庭の真ん中には、四角く切り出された大きな木の板が置かれていた。
それを囲む形で客人たちを集結させると、黒彦は
「ご一同。これが本日の主役じゃ」
そこで、
黒彦の手にある球体の形状が、姫神衆の矢に付属していた奇妙な玉そっくりだったからだ。ハツセから先の
器用なものだ、と感心しつつ、いまだ物問いたげな他の者たちに、ハツセは玉の事を説明した。それから、黒彦の方へ向かって、
「自作の玉が姫神衆のものと
「少し違うが——先ずは、己で試すが良い。一見に如かず、というやつじゃ」
にんまりとして黒彦は云い、
「これを如何せよと云うのだ?」
「そのまま、木板の上に放ってみよ」
さっぱり意味が解らぬまま、ハツセは云われた通りにした。
落下した玉は板に当たって砕け、中から金属の細刃がこぼれて周囲に散らばった。
「ほらな。こうなってしまうのじゃ」
黒彦は大仰に首を
「玉に封じた刃は、
「落下の高さが足りぬのではないか? 姫神衆の矢は、一度、天に飛んでから落下した故、地に衝突した反動も大きく、中の刃が勢い良く跳ね飛んだのやも……」
「なかなか良いところに気が付くのう」
と、黒彦は、その道の大家のような口振りで、
「ならば、一つ試してみよう。助手殿、大箱より弓矢を取り出すのじゃ」
「承知しました」
と、
「助手殿。今度は矢の先に玉を取り付けよ。終わったら、それをハツセの君に」
「承知しました」
日頃、小心な性質の黒彦が——地位の上で遥かに
矢は天高く駆け上がり、
「我らが放てば、あの半分も飛ばせまい。いや、流石はハツセ殿だ」
眉輪が感心したように
「先の戦果が散々だったと聞き、武勇の噂を疑ったが、満更、嘘でもないようじゃ」
と、黒彦が要らぬ口を叩いた。
やがて、落ちてきた矢は木板に当たり、先端の玉が割れて中身が飛び出した。落下の反動で細刃の跳ね上がった高さは、先刻の倍以上で、勢いも強かったが、人間の
「これを皆様方に見せたかったのじゃ」
と、黒彦は云った。
「色々と試してみたが、このような玉の細工では、細刃の飛散を上手く操れず、効率良く敵を殺める事はできんのじゃ。熱した
「つまり、如何なる結論になりましょうか?」
と、
「ハツセの君の戦話を信ずるなら、姫神衆の矢は自然のものではなかろう。何かずるをしておるな」
「ずる?」
「恐らく、鏃の玉に、特別の力が込めてあるのだろう。人でない
黒彦の言葉を聞いた瞬間、ハツセの脳裏に半月前の事が蘇った。
◆
大前宿禰の館で木梨軽王子の死を看取ったハツセは、穴穂大王に事の経緯を報告すべく、その日のうちに皇宮へ昇った。
王子を死なせてしまった旨、ハツセは平伏して詫びたが、大王は彼を責めなかった。
「今一度、顔を見て、話をしたかったが……。
しかし、王子を
「最初から、王子を殺すつもりであったのか……。それ故、
更に、ハツセが、木梨軽王子の最期の言葉を伝えると、穴穂大王は肩を震わせて、
「
「はい……」
「姫を魑魅魍魎の巣窟から救いたい。そう云って、王子は死んでいった、と……」
ハツセは下唇をきつく噛み締めて、
「何ひとつ
しかし、穴穂大王は首を横に振った。
「そなたは何もしなくて良い。神の宮へは私自ら
「はっ」
「私が宮へ参り、媛帝の君の真意を伺った上で……万一、王子の一件が、先方の過ちであった時は——」
「その時は?」
「いや……何でもない。大儀であった。己が館に戻り、体を休めるが良い」
云い終えるや、大王は玉座を立ち、謁見の間を後にした。
◆
「では、姫神衆の矢は、妖術を用いたものだと云うのか?」
黒彦に尋ねる一方で、ハツセの脳裏には、あの謁見の折のやりとりが浮かんでいた。ひょっとすると、穴穂大王は、媛帝の兵がまともな人間で無い事を知っていたのではないか。
「妖術か知らぬが、人外の力としか考えられん。伝え聞く姫神衆の矢の威力は、明らかに自然の摂理に反している」
黒彦はきっぱりと云った。
隣にいた眉輪は額に皺を寄せ、
「媛帝の君は『
「何とか、それを確かめる道はないものかな」
と、ハツセは腕組みして云った。
「確かめて何とするつもりじゃ?」
「やりたい事があるのだ」
仮に、姫神衆が人外の力に通じているなら、木梨軽王子の云う悪鬼とは彼らの事かも知れない。その悪鬼どもに衣通姫が囚われているとすれば、見殺し同然に死なせた王子に代わって救い出したい。それが、せめてもの罪滅ぼしのように、ハツセには思えたのである。
「是非にも……との仰せなら、道が無い事もありませぬ」
武彦が思い詰めた表情で云った。
主君の顔をまじまじと見詰めた後、彼は年上の甥の方を振り返った。
【続】
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