第一部 其の五
——完全に判断を誤った。早々に、
ハツセは退却しながら後悔したが、最早、後の祭りである。
既に大勢は決している。
武彦ら数名の家臣とともに、
——せめて、あの豪傑と一戦交えて果てよう。それが武人の誇りと云うものだ。
腹を決めたハツセが逃げ足を止め、背後を振り返った時だった。
大前宿禰の館の後方で、盛大に土煙が上がった。
間もなく、地を揺るがすような轟音が走り、甲冑を着た騎馬の軍団が姿を現した。三百を優に越えるであろう彼らは、館の周囲を縦横無尽に駆け巡り、瞬く間に、物部の軍を蹴散らしていった。
ハツセの元まで、数歩の間合いへ迫っていた大前宿禰だが、直ぐに、この異変に気付いたようだ。騎馬軍の
「まったく、危ういところでしたな」
と、武彦は地面に腰を落として云った。
「もう少しで、我々も命を落とすところでしたが……。王子、あの騎馬軍は何者ですかね。大王の遣わされた援軍でしょうか?」
ハツセは安堵の為、深く嘆息しつつ、
「そう云う話は聞いていない。これ程、強力な騎馬軍を寄越す宛てがあれば、
「ふうむ。敵の敵は味方と申しますが……あれが、皇宮側の軍で無いとすると厄介ですな。万一、あれが敵に回った場合、如何いたしましょう」
「今度こそ、覚悟を決めねばならんな」
と、ハツセは苦笑して云った。
「ならば、両軍が争っている今のうちに、兵を
「逃げても
「では、如何されるつもりです?」
「暫し、様子を伺おう。木梨軽王子にお会いする事無く逃げ帰っては、王命を受けて参った
一先ず、状況を見極める為、ハツセと武彦は近くの丘に上がり、館周りで展開している戦いを眺めた。
趨勢は一方的である。逃げ惑う蟻を押し潰すが如く、騎馬軍が物部の兵を殺して回っている。その蟻たちも残り僅かで、館の正門前に固まっている十余名が最後の生存者らしかった。
一瞬で蹴りがつくかに思えたが、ここに及んで、騎馬軍たちは苦戦しているようだった。剛力で知られる物部の統領を仕留めるのは、さすがの彼らでも容易でないらしい。
散々、切り結んだ挙句、騎馬の兵が
仰々しい
やや離れた場所にいるハツセたちの耳にも、主の死に驚愕する物部の残党の
すると、武彦は驚嘆ともつかぬ唸りを漏らし、
「何と云う
「正体不明の騎馬軍と思っていたが……ひょっとすると、あれも物部の者かも知れぬ」
と、ハツセが呟いた。
武彦は
「騎馬軍も、館側の兵だと云うのですか? それでは、何故、同士討ちを?」
「いや、あの館とは関係無い。
尚解らぬ、と云う顔で武彦は隣を見たが、彼の主君は何も答えなかった。
その後、時を置かずして、ハツセの考えは証明されることになった。
大前宿禰配下の兵を制圧し終えるや、騎馬軍の大将は赤毛馬を駆り、あろうことか、単身、ハツセたちのいる丘へやって来たからである。
身構える二人を尻目に、大将は悠然と馬を降り、獣角をあしらった
「そこで何をしている。戦は終わったぞ」
呆然としているハツセたちの前へ立って、
ハツセは半ば混乱しつつ、
「まさか、貴殿の加勢を受けるとはな……」
「加勢ではない。謀叛の噂を聞き、成すべきを為しに参ったまで」
「大前宿禰殿は貴殿の従兄弟だろう。何も殺さずとも良かったのではないか?」
「正義を行うのに血縁もない」
物部目は太い首を左右に回した。
どうにも納得出来ないものを感じ、危機を救われた事も忘れてハツセは突っかかった。話せば、分かり合えぬ相手では無かった筈——その想いが、慙愧の念とともに彼を突き動かしていた。
「正義とは、何を以って正義とするのだ? 大前宿禰殿には大前宿禰殿の正義があったかも知れぬのに。話も聞かぬうちに
「吉備の王子は
物部目は聞こえよがしに鼻を鳴らして、
「余人の正義は正義にあらず。私情に過ぎぬ。正義とは、唯一、大王の為の正義のみ。我らはそれに従うまでだ」
云い終えるや、くるりと踵を返し、山のような巨体を馬上に復した。
「どこへ行くのだ? 物部殿」
「……帰る。後は、貴殿の好きにやれ。我はあくまで、同じ一門としての責を感じ、大前宿禰の暴挙を止めに参ったまで」
「それが貴殿の云う正義か? 相手の言い分も聞かず、武を持って制するのが」
「稚気じみた議論を吹っ掛ける間があるなら、己の姿を省みるが良い。いまの貴殿は、まるきり、敗残の将ではないか」
「くっ……」
「正義を説くなら、もっと己を磨け。その為に、学寮へ入ったのだろう。万一、貴殿が大王になった暁には、いくらでもその正義を聞いてやる。死ねと云われれば死んでもやろう。それまでは、貴殿の云う正義など
◆
物部目の率いる騎馬軍が、館の周りから姿を消した後、ハツセは自軍の兵を呼び集めて数を数えた。
生き延びた者は四十名余り。うち自力で動けそうなのは三十名程度。深手を負った者たちを丘の上に待機させ、ハツセは残りの兵を連れて大前宿禰の館に向かった。
「屋内には、まだ、兵が残っているだろうか」
と、歩を進めながら、ハツセは武彦に訊いた。
「木梨軽王子の近侍の兵が潜んでいるやも。館の外で何が起きたか知らないとすれば、警戒して打ち掛かって来ぬとも限りませぬ。数は少なかろうが、矛を交えたくない故、物見の者二名を先に門の内に入らせ、敵意が無い旨、呼び掛けさせましょう」
「いや、
「しかし、それでは、万一の事が……」
ハツセは激しく
「最初からそうしていれば、大前宿禰殿とも戦わずに済んだやも知れぬ。同じ
「是非にも——と云われるなら止むを得ますまい。私も同道しますが宜しいですな」
「そなたの勝手にするが良い。王子の近侍に斬られて死んでも、
その時……。
今度こそは、と意気込むハツセの行く手に、想像外の異変が起こった。
遥か後方にいた
彼らが構えた丸木弓には、
——何の真似だ、あれは。
急ぎ、走り寄って行ったハツセを振り向き、漁火が呆れたように云った。
「物部如きを退けるのに、随分、時間がかかりましたな。長い事、待たされましたぞ。
「こちらも色々あったのです」
と、相手の非礼を飲み込んでハツセは云った。
「ふっ。まあ、良いでしょう」
漁火は小さく舌打ちを鳴らし、
「我らも仕事に取り掛かります故、暫し、下がってお待ちを」
館の方へ向き直ろうとした黒装束の肩を、ハツセは慌てて
「待て、漁火殿。如何されるつもりだ」
「火を放ち、中の鼠を一網打尽にいたそうか、と」
「館ごと王子を
「勝手ではありませぬ。上意(君主の命令)でございます故」
「上意だと? 偽りを申せ。
「大王の事ではありませぬ」
感情の見えない声で漁火が云った。
「何だと——」
ハツセは少し思案してから、
「まさか……そなたの主の
「我が主……? 心得違いをなさいますな。媛帝の君は、生きとし生けるものすべての主。我らは皆、媛帝の君を天と戴くこの世の隅で、大河に浮かぶ気泡の如く、浮き沈みする存在に過ぎませぬ。私も、貴殿も、大王とて、その例外ではない。そのこと、
「し、しかし……」
「物解りの悪い方だ。媛帝の君が殺せと命じられた以上、ほかに道はありませぬ」
漁火が右腕を宙に掲げるのを合図に、姫神衆が次々と火矢を放った。大前宿禰の館は不自然な程の速さで燃え上がり、高く伸びた紅蓮の炎は、黒々とした煙を天に撒き散らしていった。
続いて、二の矢、三の矢が放たれた。火矢ではなく、鏃に奇妙な玉の付いた奇妙なそれを、姫神衆は
配下の者が矢を悉く撃ち尽くした頃、漁火は燃え盛る炎を
「
憎々しげに吐き捨てると、踵を返して、姫神衆とともに立ち去った。
尚、唖然としていたハツセだったが、己の使命を思い出して門の内へ駆け込んだ。
この世の果ての如き業火の世界にあって、母屋の西側だけは、火の手がまだ弱いように見えた。
直ぐに、その軒下へ回ってみると、見覚えのある人物が血を流して倒れていた。全身にできた
「木梨軽王子、お気を確かに」
膝の上に抱き起しながら、ハツセは名前を呼んだ。
ややあって、相手の唇が微かに上下し、
「そ……そなたは……ハツセの命か……」
「大王の命で参上いたしました。王子の御心を確かめて参れ、と」
「私に……謀叛の意志などない……、衣通姫を犯してもいない……。大王も……、きっと、解っておられるはずだ……」
木梨軽王子が言葉を発する度に、ひゅうひゅうと
「ならば、何故、大王の遣いを斬ったのです? 無実なら、そう答えれば宜しかったのに」
「そなたは、まだ、知らぬのだ……。私は……ただ、姫を助けたかった……、魑魅魍魎の巣窟から、救いたかった……。出来ることなら、大王に伝えて欲しい……、我らの可愛い妹を……見す見す、悪鬼の
「悪鬼? それは何の事です? 魑魅魍魎の巣窟とは、如何なる意味なのです?」
ハツセの問いに答えること無く、王子は
「
「無論、今日のことは、生涯、忘れませぬ」
胸を詰まらせながらハツセは云った。
「違う……、我が最期の事ではない……。もっと、広い目で世を眺められよ……。この国は、正しく無限の地獄……。いずれ……そなたにも、解る時が来よう……」
王子の首が人形のように崩れ落ち、
ハツセは亡骸を抱いたまま、長い間、その場を動けずにいた。
【続】
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