第一部 其の七
「
と、武彦は云った。
「その、
「
ハツセは得心したように頷いた。
「な、何を申されます、武彦殿。いくら、私でも、神の宮には手を出せませんよ」
「
「では、姫神衆についても判らぬ、と?」
「媛帝に仕える兵と云う以外は知りません。如何なる出自の者たちで、どのような体系で動いているのか……すべて謎と云うほかありません」
「——とは申せ」
ハツセは食い下がり、
「さすがに、荷運びする遣いの者らは、内部の事に通じているのでは?
「それも、あくまで、山道の入口に立つ
「では、もし、見回りの隙をつき、縄の内側に潜入せんと思えば、出来ると思われますか?」
「姫神の者らの警護は厳重です。見付かれば命はないでしょう。過去、不可侵の掟を破りし者は、例外なく、首を落とされています」
「左様でしたか……」
ハツセが肩を落としていると、
「そこまでして、姫神の矢の秘密を知りたいのですか?」
「まあ、その事もあるのですが——」
ハツセの答えは歯切れの悪いものになった。木梨軽王子の最期について大王に口止めされている為、あわよくば
「それでも、
◆
その数日後、所管内で発生したいくつかの問題について、お伺いを立てる為、ハツセは皇宮に参内した。
穴穂大王に会うのは、先の戦の当日以来だったが、謁見の間に現れた大王を見てハツセは驚愕した。
肥え気味の
「お上、お加減が優れぬご様子ですが……」
と、ハツセは案じた。
「ふむ。近頃、眠れぬ事が多くてな。少々参っておるのだ。この通り、我が自慢の太鼓腹も引っ込んでしまったよ」
大王は腹を叩いて笑ってみせたが、空元気としか映らなかった。木梨軽王子を失った事による心労の
「何卒、ご自愛下さりませ。お上に万一の事あらば、国の行く末に関わりましょう」
「解っている。病ではない故、そう心配するな」
もともとの用件について報告した後、ハツセは、ふと気になって聞いてみた。
「……ときに、お上。媛帝の君とは、お会いになられたのですか?」
大王は頷き、
「そなたと話した翌々日にな。照り日の神の宮へ昇り、お目通りの機会を戴いた」
「それで、媛帝の君は何と仰せに?」
「うむ。過日の騒動については、格別の——」
大王は口にしかけた言葉を飲み込んで、
「まあ……色々とあったようでな。この場で語るには長過ぎる故、また、機を改めて話そう。本日はまことに大儀であった」
何処となく不穏な気配を感じたハツセだが、大王がそそくさと席を立った為、それ以上、訊く事は出来なかった。
◆
それに拠ると、月に一度、
それとは別に、小心の黒彦王子も、
「夜にそんな恐ろしげな場所に行ったら、心の臓が止まってしまう」
と、云って参画しなかった。
実際、大人数で行っても怪しまれかねない為、ハツセと葛城武彦に
決行の夜、ハツセたちは
行ってどうなるのか、神の宮に近付いて何をすれば良いのか――実際のところ、ハツセ自身にも見当がつかなかったが、兎に角、様子を覗いてみたい思いが強かった。それで、衣通姫の行方が
一方、事情に詳しくない眉輪王子も、先の戦の話を聞いて以来、姫神やその背後にあるものに対し、密かな疑いを抱き始めていたらしい。神の宮を目指す道の途中、同じ荷車を引くハツセの耳元で、こんな事を
「媛帝の君と云うのは、俗世と一切の関りを持たぬ
「どうして、そう思われたのだ? 眉輪殿」
「戦場に姫神衆を遣わせて、
「それは
ハツセは頷いて、
「あの戦で顔を合わせるまで、
「本当に、そのような軍団が実在するとなれば、神の宮について疑いを抱くのも自然だろう。我が国の
「則ち、どう云う事になると思うのだ?」
「いや。まあ、具体的な事は判らぬが……」
一刻程、
途中の仮屋で、
ハツセたちは、本物の遣いの者について入り口をくぐったが、中に誰もいなかった。綺麗に掃き清められた床には、何ひとつ置かれていない。宮と云う名は付いているものの、物資の受け渡しにのみ使う場所のようだ。
「当分、ここで待っていよう。そのうち、神の宮の方が降りて来るからな」
同行したほかの者たちに
やがて、気晴らしに外を見に行った眉輪が、慌てた様子で呼びに来た。
「如何したのだ、いったい」
と、ハツセが訊いたところ……。
「兎に角、私について来てくれ。何やら、
眉輪の手引きで、建物の背後に回ってみると、その先に、何十もの尻久米縄が張り巡らされていた。縄の向こうには、神の宮へ昇る山道の入り口が見える。
その麓にある小さな
「ほら、あの女だ」
と、眉輪は云った。
ハツセは、闇に目を凝らした。祠の脇に立つ大樹の下に、正座の姿勢で地面に坐し、動かずにいる人影が見える。
やがて、頭上の雲が晴れ、月光が差し込むと、女の白い顔が浮かび上がった。
並々ならぬ美しさだが、とても正気とは思われない。
人形のように虚ろな瞳で、何を見るともなく前方を見詰めている。
「……
と云う呟きに、ハツセと眉輪は武彦を振り返った。
「両の
「真か?」
ハツセは女の方へ視線を戻し、
「では、あれが、木梨軽王子の妹君の——」
「いったい、あそこで、何をされているのでしょう」
その直後、いっそう、奇妙な事が起こった。
祠の扉が独りでに開き、黒く細い影がいくつも這い出してきたのである。
それらは、まるで、蛇の如く動いて空を伝い、女の方へ近付き始めた。
「な、何なのだ、あれは……」
眉輪が
「まさか、姫を捉えんとしているのでは?」
と、武彦が云った。
「
慌てて、ハツセが縄を越えようとした時、影どもが一様に伸び上がり、中空で肥大した。絡み合い、
祠の扉が、またしても、独りでに閉り、何事も無かったような静寂が辺りに広がった。
ハツセたちは、暫く、無言で立ち尽くしていたが、がさり、と云う物音を聞いて我に返った。
出所を探ると、姫神衆と思われる
が、向こうも直ぐに気付いたらしい。一足飛びに迫り、ハツセの前へ立った。
眼前に現れた顔を眺めると、相手は
「……おや? これは、
獲物を見付けたように愉しげに、紫の唇を歪め、
「よもや、このような場所でお会いするとは。何をしておられるのです?」
ハツセが言い淀んでいると、漁火は低く笑って、
「その
「なっ……」
「判りやすいお方だ。そう身構えずとも、何も致しませぬ。かのハツセの
「
「大切なお方、と云う事ですよ。世の流れにとっても、我らにとっても。宜しければ、
「
「まったく、面白い御仁よ。口を開けば、大王、大王、大王……。先の戦で申し上げた事が、まだ、お解りでないらしい。
「…………」
両者の間で、奇妙な睨み合いが続いた。
眉輪は
武彦は密かに、懐の刃へ手を伸ばし、主君の危機に備えていたが、結局のところ、杞憂に終わった。
気味の悪い忍び笑いを長く続けた後、漁火は声高にこう云った。
「荷運びの人夫の御三方。お務め大儀なり。この先は、世俗の者の立ち入れぬ神の地故、引き返して、お帰りになるが宜しかろう。
◆
その夜から、ひと月余りが過ぎた頃、都で倭国を揺るがす大騒動が起こった。
眉輪の父である出雲国王・
やがて……。
この件は、大草香王の妃を奪わんが為に、穴穂大王が企図した謀略である——と云う、恐るべき風説が巷間を駆けた。
【続】
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