第一部 其の八
出雲国王・
名を
◆
「その頃の事は善き思い出だ、と懐かしげに語っておられたものよ」
葬儀を終えたばかりの父・大草香王を
「
眉輪の嘆きの原因は、昨日、穴穂大王が彼の居館に遣いを寄越し、母・
話を聞いたハツセも首を傾げ、
「大王も、眉輪殿の
「かの噂をご存知ないわけでもあるまいに」
と、眉輪は深く嘆息して、
「
「しかし、今更の話ではないか。穴穂大王が
「無論、その事については、私もつまらぬ風説と聞き捨てているが……。その風説を後押しするようなお振舞いは
ハツセは控え目に
「して、
と、黒彦王子が割って入って云った。
眉輪は小さく首を振り、
「内々に聞いてはみたが、どうもはっきりせぬのさ。平素、父上に恨みを抱いていた
「ふうむ。
「如何にも、黒彦殿の云う通り、
「肝心の
と、ハツセが訊いた。
「事の起こりし当日に皇宮より
「もどかしい話じゃのう」
と、黒彦が
「病とは本当じゃろか。やはり、大王は何かご存知なのではないか? そも、病床に就かれておるのに、眉輪殿の母君をお召しと云うのも
黒彦の言い分は
最後に、姿を拝したのは二十日も前の事だが、その折の様子が尋常でなかったからだ。以前よりの変容が進行したのか、
声のみは朗々として、かつてと変わりないが、その視線は、対面中、一度たりともハツセを捉えなかった。目を背けるわけでもなく、見ながらにして見ずと云おうか、
光を失ったその瞳に、ハツセは見覚えがあるように感じた。則ち、
「……上手く行くかは判らぬが」
ハツセは眉輪の思いを汲み、
「お目通りが叶えば、
「
と、眉輪は俯いて云った。
「水臭いことを云うな、眉輪殿。我らは、同じ学び
病を理由に断られようとも、お許しあるまで幾度でも拝謁を申し入れよう——
内心、ハツセは考えていたが、実際のところ、その心配は無用だった。意外にも、この翌日には、彼の参内を許す旨の
◆
「
突然、謁見の間に現れた年寄りの女官は、ハツセの顔を見るなり威圧的に云った。
身分も判らぬ相手に、出し抜けの命令を言い渡され、ハツセは
続いて、
「ハツセの尊、お運び大儀に存ずる。こちらは、照り日の神の宮の『
日頃、
——本日の
その事を、出来る限り遠回しに告げると、
「物解りが悪いな、そなた。近頃は、大王のご容態が優れぬ故、
歯に
「三野国へ行けとて、我が管轄の地ではありませぬが」
「三野へ行けとは申しておらんぞ。丹波へ行けと申したのよ」
「丹波も我が管轄ではありませぬ。元より、その地を監督する者がおりましょう。その者に命じて、乱を収めさせるのが最善では?」
「心得違いされるなよ、三大帥。この件について、そなたに
ハツセは、助けを求めるように伊莒弗を見たが、彼も無言で頷くのみだった。追討の命は、
「しからば、その件は承りましたが——」
結局、大王には会えぬのかと落胆しつつ、
「本日、御願いに上がった儀の方は如何なりましょう。大草香王の件の究明に御助勢下さるよう、せめて、大王にご奏上願えませぬか?」
「
老女官は君主の如き尊大さを示し、
「そなたに白羽の矢を立てた理由の一つは、その事とも関りある故よ。大草香王を害した逆臣・
「ま、真に……?」
ハツセは、二つの理由により、大いに驚いた。
ひとつには、
言葉を失っているハツセを尻目に、
「当初、皇都に歯向かわんと、自国で兵を集めていた
◆
自分の願いは叶ったのだろうか、と己に問いつつ、ハツセは謁見の間を退出した。
——
暗い顔で廊下を歩く間に、何処からか、異音が聞こえてきた。
耳を済まし、出所を追ったところ、皇宮の後庭に出てしまった。
更に、探っていき、敷地の北西の端に立つ寂れた小館へ辿り着く。これまで、一度も、来た事のない場所である。
既に、音は女の嬌声に変わっている。
宮中とは思われぬ、あられもない響きだった。
ハツセはそっと縁台に上がり、物音を立てぬよう木戸を引いた。
そして、小指一本通らぬ程の隙間から、息を殺しつつ、中を覗いた。
視界いっぱいの酒池肉林の様相に、ハツセは我が目を疑った。
百人を越える美姫の群れが、
だが、それ以上に目を引いたのは、部屋の中央にいる奇怪な生き物だった。
人影のように真っ黒なそいつは、
やがて、そいつが動きを止めると、背中の辺りが膨張を始め、そこから、細長い棒状の腕がいくつも生まれた。天井に向かってくねり始めたその腕は、神の宮の祠で
間もなく、それらは蛇の如く宙を伝っていき、裸の女たちに絡みついた。
「ひっ」
と、ハツセは悲鳴を上げた。慌てて口を押さえたが、もう遅かった。
黒い生き物がにゅうっと縦に屹立し、頭部らしき丸い頂をこちらに向けた。
「そこに……いるのは……誰ぞ」
紛れもなく、穴穂大王の声だった。
ハツセは脱兎の如く駆け出し、一目散に皇宮の入り口まで走った。
——大王は変わってしまわれた。最早、かつての大王ではないのだ。
頭の奥で絶望が爆ぜ、きな臭さが鼻腔に広がった。
◆
同日の夕刻。ハツセは居館を発ち、丹波を目指した。
都を離れる前に、眉輪と黒彦を訪ねたが、
本当は、それ以外にも、大王の変貌ぶりや、影のような化け物の事、皇宮の主の如く振る舞う
結局、山のような問題を抱え込んだまま、戦に向かわざるを得なかった。
行軍中、腑抜け同然だったのは、その問題群が代わる代わるに脳裏へ去来し、ハツセを悩ませ続けたからである。道々、雲一つない晴天に恵まれたにも
己に呆れるを通り越し、ハツセは馬を降りて笑い転げた。長い事、笑い続けて、我に返ってみると、如何なる
その時、間近で、がさごそと音がして、茨の藪から小柄な影が飛び出してきた。
年の頃は十三、四と思われる、野百合の如く美しい少女である。藪の前に立ち、珍奇な物を眺めるようにハツセを見ていたが、やがて、右手にある森を指差し、
「道を見失って、迷い込まれたのでございましょう。山代へ戻るなら、あの先の山道をお進みなさいまし」
「何故、
と、ハツセは訊いた。
「この辺りには、貴方様のような
ハツセは眉根を寄せ、
「どうして、丹波へ行く、と……。知らぬ相手の行き先が、何故、判るのだ?」
一瞬、
「いいえ。よく存じておりますわ。吉備のハツセの尊でございましょう」
そう云って、少女はにこりと笑った。
「そ、そなた、いったい……」
「私は、
いずれにせよ、このまま別れるのが惜しくなり、
「折角なら、丹波まで道案内してくれぬか? 無論、謝礼はしよう」
しかし、少女は、もう一度、にこりと笑い、細い首を横に振った。
「どうか、道中、お気をつけて。
云い終えると、彼女は踵を返し、元のように茨の藪へ消えていった。
やがて、この出会いがハツセの運命を大きく変える事になるのだが、
【続】
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