第一部 其の八

 出雲国王・大草香おおくさか王の妃は、先の大王・大兄去来穂別尊おおえのいざほわけのみことの娘であり、三十路半ばになるたおやかな女性であった。

 名を中磯なかし姫と云い、出雲王妃として落ち着くまでには、数多あまたの貴人が彼女を巡って競い合った。川内国かわちこくの王子であった頃の穴穂大王あなほのおおきみもまた、姫の美貌に深く心を奪われ、婚姻を申し入れた者の一人だった。


                  ◆


「その頃の事は善き思い出だ、と懐かしげに語っておられたものよ」

 葬儀を終えたばかりの父・大草香王をしのんで、眉輪まゆわ王子はハツセに語った。

こと、恋敵でありながら今上の大王とは、同じ一人の女を見初めた者同士、心通じ合うものがあった——と。父上に何度も聞かされたものさ。胸のうちに戦友を思うが如き思いがある、きっと大王も同じであろう、と。それが……此度こたびのお申し出は如何であろうか?」

 眉輪の嘆きの原因は、昨日、穴穂大王が彼の居館に遣いを寄越し、母・中磯なかし王妃を宮中に引き取りたい旨、申し入れてきた事にあった。

 話を聞いたハツセも首を傾げ、

「大王も、眉輪殿の二親ふたおや(両親)様と旧知の仲が故に、ご厚意で申されているのかも知れぬが……。あまりに性急な話よな」

噂をご存知ないわけでもあるまいに」

 と、眉輪は深く嘆息して、

悋気りんき(嫉妬)に狂いし大王の謀略ならん、と世人が面白半分にはやしておるのを……」

「しかし、今更の話ではないか。穴穂大王が妻問つまどい(※ここでは求婚)なされたのは、眉輪殿の生まれるより以前の事であろう。この期に及んで、母君に横恋慕し、それを成就せんと暴挙に出られるとは、とても……」

「無論、その事については、私もつまらぬ風説と聞き捨てているが……。その風説を後押しするようなお振舞いは心得難こころえがたし。いたずらに騒ぎを大きくするおつもりかと、疑いたくもなるさ」

 ハツセは控え目に相槌あいづちを打った。


「して、大草香おおくさか王の御逝去の理由を、宮廷に問い合わせてみなんだのか?」

 と、黒彦王子が割って入って云った。

 眉輪は小さく首を振り、

「内々に聞いてはみたが、どうもはっきりせぬのさ。平素、父上に恨みを抱いていた根使主ねのおみが、皇宮の川屋かわや(便所)の物陰に潜み、中から父上が出て来たところを狙い打ちした疑いあり——とだけ。しかし、父上の亡骸には、刀傷ひとつついていないのだ」

「ふうむ。根使主ねのおみと申すは、川内国の出自を称する廷臣じゃろ? 元を辿たどれば出雲国の家臣と聞いておるが、何故、それが大草香おおくさか王を害したてまつる(殺す)のじゃ?」

「如何にも、黒彦殿の云う通り、根使主ねのおみは父上の臣下であった。しかし、私がまだ幼少の頃に父上の逆鱗に触れ、処払ところばらい(追放)となったはず。その後、川内国の王家に仕え、穴穂大王の践祚せんそ(即位)に伴って廷臣に任じられたと聞く。此度こたびの事は、参内した父上の姿を目にした根使主ねのおみが、過日の恨みを思い出して事に及んだのであろう——と、佐伯部さえきのべ(宮廷警護)や解部ときのべ(訴訟機関)の連中は申すのだが……」

「肝心の根使主ねのおみは今、何処にいる? 捕えて真偽をただす事は出来ぬのか?」

 と、ハツセが訊いた。

「事の起こりし当日に皇宮より出奔しゅっぽんし、行き方知れずと云う。人を遣わして探す故、待つようにとの事であったが梨のつぶてよ。大王にもご助力を賜らんと、幾度か拝謁を申し入れたのだがな……。気の病にてせっておられるそうな」

「もどかしい話じゃのう」

 と、黒彦がこうべを垂れて云い、

「病とは本当じゃろか。やはり、大王は何かご存知なのではないか? そも、病床に就かれておるのに、眉輪殿の母君をお召しと云うのも可笑おかしゅうないか?」


 黒彦の言い分はもっともながら、穴穂大王が偽りで病中を宣しているとは、到底、ハツセには思われなかった。

 最後に、姿を拝したのは二十日も前の事だが、その折の様子が尋常でなかったからだ。以前よりの変容が進行したのか、愈々いよいよ、骨と皮が浮き出る程に身が細り、頬肉を失って飛び出した両眼は血走っていた。

 声のみは朗々として、かつてと変わりないが、その視線は、対面中、一度たりともハツセを捉えなかった。目を背けるわけでもなく、見ながらにして見ずと云おうか、只管ひたすら、虚空を彷徨さまよっている風だった。

 光を失ったその瞳に、ハツセは見覚えがあるように感じた。則ち、十六夜いざよいに、神の宮で目にした衣通姫そとおりひめのそれである。その事を考え合わせても、大王の身に異変が進行しているのは確かに思われたが、その正体は皆目見当もつかなかった。


「……上手く行くかは判らぬが」

 ハツセは眉輪の思いを汲み、

「お目通りが叶えば、わしからも大王にお願いしてみる。根使主ねのおみ隠処かくれがを追及し、真実を明らかにする為、是非にもお力添え賜りたい、と。大王にとっても、大草香王をたばかりあやめた等と云う、われ無き風聞を搔拭かいぬぐう(払拭する)為の善い契機となりましょう、と」

かたじけない。ハツセの君」

 と、眉輪は俯いて云った。

「水臭いことを云うな、眉輪殿。我らは、同じ学びに通う同志ではないか」

 病を理由に断られようとも、お許しあるまで幾度でも拝謁を申し入れよう——

内心、ハツセは考えていたが、実際のところ、その心配は無用だった。意外にも、この翌日には、彼の参内を許す旨のしらせが届いたからである。


                  ◆


三野みの国に謀叛の動きありとの事。三大帥さんのたいすい殿、急ぎ兵を率いて発ち、丹波たんば国へ赴かれよ。追討の御命ぎょめいである」


 突然、謁見の間に現れた年寄りの女官は、ハツセの顔を見るなり威圧的に云った。

 身分も判らぬ相手に、出し抜けの命令を言い渡され、ハツセは只々ただただ困惑するばかりだった。

 続いて、物部伊莒弗もののべのいこふつが姿を見せた時、彼は少しだけ安堵を覚えた。物部目もののべのめの父にして、物部氏の氏上うじのかみでもある伊莒弗いこふつは、官職の上で、ハツセの上司に相当する人物だったからである。大臣おおおみ葛城円かずらぎのつぶらと並んで、廷臣の長たる『大連おおむらじ』の地位にあり、国の軍事・警察に関わる機関はすべて彼の管轄下にあった。


 伊莒弗いこふつは、両者の間に立って取り成すように、

「ハツセの尊、お運び大儀に存ずる。こちらは、照り日の神の宮の『じょうつかさ』(神仕かみつこの最高位)にして、媛帝の君のご側近であられる氷奴ひのな殿。媛帝の君の御聖慮ごせいりょ(天子の意向)により、大王の政務をおたすけすべしと、先日より参っておられるのだ」

 日頃、嵩高かさだかに振る舞いがちな上司のかしこまった態度から、老女が只者ただものでない事は察せられた。が、だからと云って、相手の言葉を丸呑みに聞ける程、ハツセも慎ましい性質ではない。


 ——本日のわしは、大草香王の件の究明に助力を乞うべく、大王に直々に御願いしに参ったのだ。何故、大王がお出ましにならぬうちに、宮廷の外から参った者にわけの解らぬ指図をされねばならんのか。


 その事を、出来る限り遠回しに告げると、氷奴ひのなは舌打ちを響かせた。

「物解りが悪いな、そなた。近頃は、大王のご容態が優れぬ故、わらわがご意向を伝えておるのよ。有り体に申さば、大王はそなたに期待しておられる。木梨軽王子きなしかるのみこの一件でこそ奮わなんだものの、その後のいくさ調停 ごとでの働きには、目覚ましきものがあるとな。それ故、三野の乱を収めて参れ、と云うておる」

 歯にきぬ着せぬを通り越し、非礼な言いざまだが、ハツセはぐっと堪え、

「三野国へ行けとて、我が管轄の地ではありませぬが」

「三野へ行けとは申しておらんぞ。丹波へ行けと申したのよ」

「丹波も我が管轄ではありませぬ。元より、その地を監督する者がおりましょう。その者に命じて、乱を収めさせるのが最善では?」

「心得違いされるなよ、三大帥。この件について、そなたにはかる(相談する)つもりはない。御諚ごじょう(上意)と心得よ」 

 ハツセは、助けを求めるように伊莒弗を見たが、彼も無言で頷くのみだった。追討の命は、氷奴ひのなの独断と云う訳でもないらしい。本当に御諚ごじょうであるなら、 ハツセに選択の余地は無かった。


「しからば、その件は承りましたが——」

 結局、大王には会えぬのかと落胆しつつ、

「本日、御願いに上がった儀の方は如何なりましょう。大草香王の件の究明に御助勢下さるよう、せめて、大王にご奏上願えませぬか?」

狼狽うろたえるでない、三大帥」

 老女官は君主の如き尊大さを示し、

「そなたに白羽の矢を立てた理由の一つは、その事とも関りある故よ。大草香王を害した逆臣・根使主ねのおみは、三野国の八釣白彦やつりのしろひこ王子に匿われているとの噂がある。そして、この白彦王子こそ、此度こたびの謀叛の首謀者と目されておる人物。乱の追討に赴けば、根使主ねのおみを捕える機会も得られよう」

「ま、真に……?」

 ハツセは、二つの理由により、大いに驚いた。

 ひとつには、くだん根使主ねのおみが、三野国の王族の懐へ逃げ込んでいたのが意外であった為。もうひとつは、謀叛人とされた八釣白彦やつりのしろひこ王子が、学友・黒彦王子の兄に当たる人物だった為である。

 言葉を失っているハツセを尻目に、氷奴ひのなは追討の任について淡々と補足した。

「当初、皇都に歯向かわんと、自国で兵を集めていた白彦しろひこだが、謀叛の計画が露見したと知るや北へ逃げ、久比岐くびき国(新潟・上越周辺)に陣を構えておるよし久比岐くびき辺りは同じ倭国の領土と云えど、六大国(五王国及び大倭やまと)の外にて、古来より、蝦夷えみし跋扈ばっこする夷狄いてき(野蛮)の国。土地柄に通じぬ軍のみで往くは心許こころもとなく、かの国に程近き諸国に加勢を頼むが最善であろう。……それ故、そなたは丹波国の海部あまべ氏の元へ行き、加勢を乞えと申しておるのよ。その後も、諸国の兵を募りつつ東上すれば、八釣白彦やつりしろこの勢を討つのは容易たやすかろう。本日中に出立されるが良いぞ」


                  ◆


 自分の願いは叶ったのだろうか、と己に問いつつ、ハツセは謁見の間を退出した。根使主ねのおみの居所は判ったものの、遥か遠方の地へ出陣する羽目になり、更に、それが新たな悩みの種を生んでいた。


 ——久比岐くびきへ行けば、黒彦殿の兄上と一戦交える事になるかも知れぬ。勝って、根使主ねのおみを捉えれば、眉輪殿の役には立つであろうが、今度は黒彦殿に恨まれかねぬ。わしは如何すれば良いのだ。


 暗い顔で廊下を歩く間に、何処からか、異音が聞こえてきた。

 耳を済まし、出所を追ったところ、皇宮の後庭に出てしまった。

 更に、探っていき、敷地の北西の端に立つ寂れた小館へ辿り着く。これまで、一度も、来た事のない場所である。

 既に、音は女の嬌声に変わっている。

 宮中とは思われぬ、あられもない響きだった。

 ハツセはそっと縁台に上がり、物音を立てぬよう木戸を引いた。

 そして、小指一本通らぬ程の隙間から、息を殺しつつ、中を覗いた。


 視界いっぱいの酒池肉林の様相に、ハツセは我が目を疑った。

 百人を越える美姫の群れが、一糸 まとわぬ姿で寝転がっていたのである。

 だが、それ以上に目を引いたのは、部屋の中央にいる奇怪な生き物だった。

 人影のように真っ黒なそいつは、蛞蝓なめくじの如く床這いずり回り、粘液の筋を何条も作っている。からだの形は陽炎のように曖昧で、輪郭さえ朧に映る。

 やがて、そいつが動きを止めると、背中の辺りが膨張を始め、そこから、細長い棒状の腕がいくつも生まれた。天井に向かってくねり始めたその腕は、神の宮の祠で衣通姫そとおりひめを飲み込んだ、例の怪異とそっくりだった。

 間もなく、それらは蛇の如く宙を伝っていき、裸の女たちに絡みついた。

「ひっ」

 と、ハツセは悲鳴を上げた。慌てて口を押さえたが、もう遅かった。

 黒い生き物がにゅうっと縦に屹立し、頭部らしき丸い頂をこちらに向けた。

「そこに……いるのは……誰ぞ」

 紛れもなく、穴穂大王の声だった。

 ハツセは脱兎の如く駆け出し、一目散に皇宮の入り口まで走った。


 ——大王は変わってしまわれた。最早、かつての大王ではないのだ。


 頭の奥で絶望が爆ぜ、きな臭さが鼻腔に広がった。


                  ◆

 

 同日の夕刻。ハツセは居館を発ち、丹波を目指した。

 都を離れる前に、眉輪と黒彦を訪ねたが、生憎あいにく、二人とも不在にしており、根使主ねのおみ八釣白彦やつりのしろひこ王子の件について話すことは出来なかった。

 本当は、それ以外にも、大王の変貌ぶりや、影のような化け物の事、皇宮の主の如く振る舞う氷奴ひのぬについて等、友に相談したい事は尽きせぬ程あったのだが……。

 結局、山のような問題を抱え込んだまま、戦に向かわざるを得なかった。


 行軍中、腑抜け同然だったのは、その問題群が代わる代わるに脳裏へ去来し、ハツセを悩ませ続けたからである。道々、雲一つない晴天に恵まれたにもかかわらず、彼の内側は、ほとんど、常に五里霧中だった。その結果として、山代やましろを北上している最中さなか、うっかり道を逸れ、武彦さえ見失って、独り山中へ迷い込んでしまった。

 大倭やまとを出た後、山代やましろを縦断して、丹波たんばへ入る段取りであったのに、孤軍、ハツセが山を越え森を抜けた先は、山代の東の淡海あわみ国のようであった。近淡海ちかつあわうみ(琵琶湖)のきわと思しき湖畔の風景が、視界いっぱいに広がったからである。


 己に呆れるを通り越し、ハツセは馬を降りて笑い転げた。長い事、笑い続けて、我に返ってみると、如何なるわけか邪念がすべて飛び去っていた。思わぬ怪我の功名である。漸く、意気を取り戻したハツセは、武彦たちに合流せん、と馬上に帰った。

 その時、間近で、がさごそと音がして、茨の藪から小柄な影が飛び出してきた。

 年の頃は十三、四と思われる、野百合の如く美しい少女である。藪の前に立ち、珍奇な物を眺めるようにハツセを見ていたが、やがて、右手にある森を指差し、


「道を見失って、迷い込まれたのでございましょう。山代へ戻るなら、あの先の山道をお進みなさいまし」

「何故、余所者よそものと判ったのだ?」

 と、ハツセは訊いた。

「この辺りには、貴方様のような恰好かっこうのお方はおられませぬ。都から来られたのでございましょう? 道の途中の、三つ又の樹の下を西へ進めば、直ぐに丹波へ出られますわ」

 ハツセは眉根を寄せ、

「どうして、丹波へ行く、と……。知らぬ相手の行き先が、何故、判るのだ?」

 一瞬、あやしの力を疑ったが、しんの向きに邪なものは感じない。

「いいえ。よく存じておりますわ。吉備のハツセの尊でございましょう」

 そう云って、少女はにこりと笑った。

「そ、そなた、いったい……」

「私は、おうみたもとに住まう、いやしき薪刈りの子。吉備の王子に、名乗る程の名はございませぬ」

 刹那せつな、奇妙な懐かしさがハツセの胸に湧いた。彼女が自分を知っている理由は判らないが、当然であるような気もした。

 いずれにせよ、このまま別れるのが惜しくなり、

「折角なら、丹波まで道案内してくれぬか? 無論、謝礼はしよう」

 しかし、少女は、もう一度、にこりと笑い、細い首を横に振った。

「どうか、道中、お気をつけて。えにしあらば、また、お会いいたしましょう」

 云い終えると、彼女は踵を返し、元のように茨の藪へ消えていった。

 ひのきの葉から零れた雨露が、頬を掠めるのにも気付かず、ハツセは、只管ひたすら、その藪を眺め続けていた。


 やがて、この出会いがハツセの運命を大きく変える事になるのだが、あまつ神々のほかに、それを知る者はまだ無かった。




【続】

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