第一部 其の十一

「敵の一軍が砦を抜け出し、戦場いくさばを離れんと動いている。全軍、直ちに砦の西側へ集結し、八釣白彦やつりのしろひこの逃亡を食い止めよ」


 ハツセは皇都軍に向け、大音声だいおんじょうで呼び掛けた。砦の東側を攻めている味方の軍を西へ移動させ、自らが率いる本隊の背後に回らせる為である。それにより、迫りつつある物部軍と眼前の白彦の軍との間に、緩衝帯を作り出そうと云う目論見もくろみがあった。二千の兵を用いた緩衝帯は、反対側を見渡せぬ程に分厚く、後方にいる物部軍の監視のまなこから、白彦らの逃亡を隠す煙幕となるはずだった。


 しかし、崖をじ登って攻城中の兵たちが、一旦、平地へ戻り、砦の西へ回るには時間が掛かった。ハツセの命じた急遽きゅうきょの集結が実現するより早く、騎馬軍が駆け付けてくるのは明らかに思われた。

「間に合いませぬ。すぐに奴らが参りますぞ」

 武彦が叫んだ。

「解っている。どうせよ、と云うのだ」

 と、ハツセは怒鳴り返した。 


 その時、逡巡している彼の前で、白彦の軍が奇妙な動向を見せた。

 ハツセ本隊の後退で生じた隙間を抜けて、包囲網から脱しつつあった彼らは、百五十程の兵を二手に分け、ばらばらの方角に進み始めたのである。則ち、白彦率いる百余名は直角に転進する一方、残りの数十名は甲冑も矛も捨てて、全速力で西へ疾駆した。

「ま、待ってくれ。命を捨てる気か」

 相手の意図に気付き、ハツセは叫んだ。が、既に状況は動き出している。ハツセの本隊の脇を掠め、北へ向かわんとする白彦たちを止める手立ては無かった。


 物部軍の方角へ大剣をかざし、兵を走らせ続けた白彦王子は、砦周りの皇都軍を後方に引き離す頃、ハツセの方を振り返って叫んだ。

「どうか、弟を頼みましたぞ——」

 白彦軍はそのまま北進し、やがて、物部目もののべのめの騎馬軍と激突した。

 勢いにも数にも優る強敵相手に、彼らは、文字通りの死闘を繰り広げた。

 見事、有終の美を飾った後、八釣白彦やつりのしろひこ王子以下百余名の兵は、戦場の露と消えた。


                  ◆


 結果のみを見れば、この戦は皇都軍の大勝利であった。

 ・八釣白彦王子は討ち取られ、付き従っていた三百数十名の三野兵のうち、八割以上が戦死した。

 王子の死の後、瞬く間に陥落した砦の奥からは、根使主ねのおみも発見された。黒彦王子の云った通り、ほとんど、廃人同然の様子であり、自らを捕縛した皇都の兵に向かい、言葉にもならない奇声を発し続けた。


 翌日、飯田川に程近い久比岐くびき国の宮仕みやつこ(造)の館で、今度の戦の事後処理について論じる合議が開かれた。両大将であるハツセと物部目もののべのめを始め、皇都軍の名だたる将がこの場に出席した。

 途中、戒め付きで引き摺り出された根使主ねのおみを、物部目もののべのめが大刀で斬り伏せる場面もあった。


「何をするのだ、物部殿」

 と、慌ててハツセはとがめ、

「何故、断りもなく、根使主ねのおみ殿を殺した?」

「捕え次第、首を刎ねよ、との大王の命を果たしたまで」

 と、物部目もののべのめは平然と云った。

「そのような事、わしは聞いていないぞ」

「では、宮廷に問い合わせてみるが良い」

たとえ、そうであるにしても、経緯も聞かずに殺しては何も解らぬではないか。根使主ねのおみ殿が、本当に大草香王を手に掛けたのか……それさえも定かでないのに」

「以前と同じ事を云うのだな」

 物部目もののべのめは、口のに嘲笑を寄せ、

「第一、言葉の通じぬ狂人相手に、何を問うつもりだったのだ?」

「し、しかし……」

「狂人でなくとも同じ事。反逆者の申し開きを聞いて何になる。成程、斯様かような経緯であったか——と、一時の興味を充たされてしまいだ。意味は無い」

「義が何処にあるか判らねば、相手を裁けぬではないか。その為にも、事情を聞く必要があろう」

「聞いたところで王命は覆らぬ。逆臣を裁くのは、我らでは無い。我らは大王の正義に従うのみ。以前にも、そう云ったはずだ。無用な問答を避け、速やかに御命を果たすが最善よ」


 ハツセは尚も食い下がり、

「では、仮に、大王が貴殿の父君を——物部伊莒弗もののべいこふつ殿を討てと申されたら……その時も、ゆえ(理由)を問わず討つのか?」

「無論、討つ」

「理不尽と映ってもか?」

「大王には大王のお考えがある。それが正義と云うものだ」

「いいや、そうとも限るまい」

 白彦王子や大草香王を思い出し、ハツセは逆上気味に、

「今の大王は以前と何かが違う。考え無しに命じられる事もあるやに映る。物部殿ほどの人物が、その事に気付いておられぬ筈があるまい。それでも、尚、見て見ぬ振りをされるのか」

「それは……」

 珍しく、物部目もののべのめ口籠くちごもった。

 

 二人のやり取りを聞いて、居合わせた将たちがざわついた。

 彼らを一瞥にて黙らせた後、物部目もののべのめは、一層、眼光を鋭くして云った。

斯様かよう些事さじはどうでも良い。そんな事より、ハツセの尊。己が責任について、何と申し開きするつもりだ? 黒彦王子を取り逃がした事は、ひとえに貴殿の失態だぞ」

「失態?」

「云うまでもあるまい。兵の数を見れば、最初から、戦の結果は見えていた。たとえ、我ら物部の軍が駆け付けずとも、皇都側の勝ちは決まっていたようなもの。にもかかわらず、四百に足らぬ敵軍に苦戦し、あまつさえ、黒彦王子を取り逃がすとは……。よもや、故意に逃がしたのではあるまいな?」

 刃の如き追及の眼差しがハツセを襲った。

 脇に控えた武彦が、息を飲む音が微かに聞こえた。

「これは異な事を云うものよ」

 ハツセは怒りの形相を呈して、

「何故、わしがそんな真似をせねばならぬ。言掛いいがかりもはなはだしいぞ、物部殿」

いたずらに問うているのではない。貴殿と黒彦王子とは学寮の同輩。それ故、二人のはかりごとを疑う声もある」

 ハツセは、笑止とばかりに鼻を鳴らし、

「面白い。なれば、三人のはかりごとを疑う声もあるだろう。物部殿もわしや黒彦王子の同輩 ゆえな」

 物部目もののべのめは、暫く、ハツセを睨んだ後、

「……まあ良い。いずれ、真実が判ろう。ともあれ、黒彦王子を取り逃したるはそちらの責任。その儀ついては、貴殿から大王に申し開きされよ」


 合議の翌日、ひる前。ハツセは、皇都軍を率いて久比岐くびきを出た。物部目もののべのめの率いる軍勢は、更に東征して、別の乱の鎮圧に向かうと云い、早朝のうちに発った後だった。


 実際のところ、戦場を脱した黒彦王子とは、宮廷の権勢及ばぬ僻地へきちへ逃れて身を隠し、余熱ほとぼりが醒めた頃、便りをもらう手筈になっていた。友が無事落ち延びている事を祈りつつ、ハツセは大倭やまとの都を目指した。

 行く行く、諸国豪族の援軍と別れつつ、来た道を引き返したが、敢えて丹波の方へは迂回せず、若狭わかさから、直接、山代やましろへ入った。海部あまべ氏の館へ寄り、『トヨ』姫に遭いたい気持ちはあるものの、一刻も早く皇宮へ戻り、大王の秘密を探るべしと考えたからである。

 往きには、道に迷った山代やましろを、ハツセは、手元に残った二百の兵とともに着々と南進した。


 穴穂大王、眉輪王子に討たれる——の報が、彼の元に届いたのは、程なく大倭やまと国境くにざかいを越えようと云う頃であった。


                  ◆


「……退がるが良い。当面、そなたが動くべき事は無くなったわ」


 神の宮の女官・氷奴ひのなは、吐き捨てるように云った。大倭やまとへ入るや、己が居館にも寄らず、急ぎ参内したハツセに対しての仕打ちである。

 遠征の功も労わず、横柄に振る舞う様もさる事ながら、ハツセは、眼前の状況に驚いていた。この老婆が我が物顔に踏ん反り返っているのが、あろうことか、謁見の間の壇上——則ち、皇宮の主の玉座たるべき場所だったからである。しかも、その足元には、当代ときの宰相たる二名……左側に大臣おおおみ葛城円かつらぎのつぶら、右側に大連おおむらじ物部伊莒弗もののべいこふつが、忠臣の如く控えている。彼らは氷奴ひのなの態度をいさめもせず、俯いて床を見つめているだけだった。


 ——これでは、まるで、大王ではないか。わしが都を離れていたひと月余りの間に、宮廷はどうなってしまったのだ……。


 いぶかしみつつも、ハツセは感情を抑え、本来のお召しの理由を訊ねた。

 老婆は、掌をひらひらと宙へ舞わせ、

「申すまでも無かろう。大王を害せし眉輪まゆわ王子の在所を探り、この場へ連れて参らせようと思ったのよ。だが、そなたが愚図愚図して都へ戻らぬ故、代わりに蘇我満智そがのみち大帥たいすいに命じて捕えさせたわ」

「その……眉輪殿が主殺しにお及びし儀は、真なのでしょうか? 何かの間違いと云う事はありませぬか?」

「私に問うて何とする。本人に訊かねば始まるまい」

 と、老婆は退屈げに云った。

「されば、眉輪殿の居所をお聞きしたく——」

「ならぬ。そなたが会う必要は無い。程無く、解部ときのべ盟神探湯くかたち(※罪と疑われる者に煮え湯の底の小石を探らせ、手に熱傷を負うか否かで正邪を占う審判の法)を催し、眉輪王子の罪を裁く手筈てはず。それまでは、蘇我そが大帥たいすいに命じ、禁秘きんぴの場所に幽閉させておる。時至れば、大王殺しの大罪に相応しい神判が下ろう故、そなたの出る幕はない。居館へ下がって、次の出征にでも備えておれ」


 眉輪の居所も罪の詳細についても聞けぬまま、ハツセは謁見の間を退出した。

 憤然としながら廊下を戻る途中、葛城円かずらぎのつぶらが追い掛けて来て云った。

「ハツセの尊。何もお力になれず、相済みませぬ。眉輪王子の大王殺しについては、真偽の程を慎重に確かめるが最善と、何度も、氷奴ひのな殿に申し上げたのですが。私の力が及ばず……何卒、ご容赦下さい」

殊更ことさらつぶら殿を責めるつもりはありませぬが……。そも、廷臣でも無い女官をかみへ戴き、大王かの如く振る舞わせておいて宜しいのですか?」

氷奴ひのな殿の横暴については、私も伊莒弗もののべいこふつ殿も困り果てております。宮中ばかりか、諸国へも不満の火が広がり、それ故、各地で絶えず反乱が起こるのだと云う声も……」

物部目もののべのめ殿が忙しく働かされておるのも、それが遠因と云う事か。すると、今、宮廷の意向として発されておる命は——」

「すべて、氷奴ひのな殿の一存に拠るものです」

 葛城円かずらぎのつぶらは忌々しげに云い、 

「さもなくば、白彦王子も死なずに済んだやも知れませぬ。流言の如き疑惑を鵜呑みにし、詮議も行わず追討の命を出されたるは、行き過ぎではないか、と。廷臣の間でも申しております。しかし、氷奴ひのな殿が媛帝の君の代理を称する限り、我らには手も足も出ないのです」

「正しき裁定さえ行われていれば、黒彦殿も逃げずに済んだものを」

「その、黒彦王子の事ですが——」

 葛城円かずらぎのつぶらは、口にしかけた言葉を飲み込み、  

「いえ……何でもありません。それより、眉輪王子の事が気懸きがかりでしょう」

 ハツセは下唇を噛み締めて、

「何故、このような事態になったのか。是非とも、会って話がしたいのです。穏健で聡明な眉輪殿の事。如何なる事情があったにせよ、一時の気の迷いで、主殺しに及ぶとは考えらぬ。幽閉場所につき、つぶら殿もご存知ないのですか? お心当りがあれば、旧知のよしみで教えて下され」

「そうしたいのは山々ですが。その件については、氷奴ひのな殿と蘇我満智そがのみち殿のみで動かれており、ほかの者は何も知らされておらぬのです。大臣おおおみの位にありながら、無力にてまことに面目ない」

「左様ですか……」

「されど、まるで手が無い訳でもありません。蘇我一門に懇意の者がおります故、内密に働きかけてみましょう。上手くいけば、面会が叶うやも知れませぬ」

「宜しくお頼みいたします、つぶら殿」

 ハツセは頭を下げた。


 葛城円かずらぎのつぶらの使者がハツセの居館を訪ねてきたのは、その数日後の事である。面会の調整は不首尾に終わったが、眉輪王子よりハツセ宛の手紙を預かってきた、と云う話だった。

 しかし、使者が運んできた紙片に記された文面は、僅かに以下のみであった。


 ——夜日郎よるけのいらつこを訪ねよ。


                  ◆


 夜日郎よるけのいらつこの正体はすぐに判った。

 出雲国のうじの公館(特使の駐在機関)に仕える眉輪王子の家臣である。

 建物は大倭やまとの都の東にあり、手紙を受け取ったその日のうちにハツセは出向いた。


 夜日郎よるけのいらつこを訪ねてきた旨伝えたところ、背の曲がった老人が現れ、訳知り顔で公館の奥へ案内した。老人は、陽光の差し込まぬ最奥の一室へハツセを連れて行くと、

「どうか、ここでご覧になった事は、口外されませぬよう」

 そう云って、入り口の扉を開け、

「数日前、皇宮からお戻りになったばかりです。斯様かようなお姿になられて……おいたわしい限りです」


 ハツセが足を踏み入れた途端、背後で扉を閉める音が聞こえた。

 灯りひとつないほの暗い部屋の内を、彼はゆっくりと見渡した。

 左手の床の上に、女らしき人影がある。

 うつ伏せに寝そべり、芋虫のようにのたうっている。

 時折、脈絡なく動きを止め、唸りを発しているが、あたか山姥やまうばの笑いの如く不気味に響いた。

 ハツセは寄って行って傍へ座り、両手で女の頭部をそっとつかんだ。

 床に沈み込んだその顔を手前に向けると、骸骨の透けた死相が目に入った。

「あなたは——」

 ハツセは生唾なまつばを飲み込み、

「まさか、大草香王の妃……眉輪殿の母君、中磯なかし姫様なのですか?」

 その直後、女の瞳に光が戻り、そろそろと中空に右腕を差し伸べた。

 黒ずんだ唇を震わせ、憐れを誘う声で、

「大王……何卒、ご容赦を……。何故、このようなご無体をなされます……。我が夫君を殺し……我がみさおを奪い……この上、我が子まで殺めようとは……」




【続】

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