第一部 其の十一
「敵の一軍が砦を抜け出し、
ハツセは皇都軍に向け、
しかし、崖を
「間に合いませぬ。すぐに奴らが参りますぞ」
武彦が叫んだ。
「解っている。どうせよ、と云うのだ」
と、ハツセは怒鳴り返した。
その時、逡巡している彼の前で、白彦の軍が奇妙な動向を見せた。
ハツセ本隊の後退で生じた隙間を抜けて、包囲網から脱しつつあった彼らは、百五十程の兵を二手に分け、ばらばらの方角に進み始めたのである。則ち、白彦率いる百余名は直角に転進する一方、残りの数十名は甲冑も矛も捨てて、全速力で西へ疾駆した。
「ま、待ってくれ。命を捨てる気か」
相手の意図に気付き、ハツセは叫んだ。が、既に状況は動き出している。ハツセの本隊の脇を掠め、北へ向かわんとする白彦たちを止める手立ては無かった。
物部軍の方角へ大剣を
「どうか、弟を頼みましたぞ——」
白彦軍はそのまま北進し、やがて、
勢いにも数にも優る強敵相手に、彼らは、文字通りの死闘を繰り広げた。
見事、有終の美を飾った後、
◆
結果のみを見れば、この戦は皇都軍の大勝利であった。
謀叛の首謀者・八釣白彦王子は討ち取られ、付き従っていた三百数十名の三野兵のうち、八割以上が戦死した。
王子の死の後、瞬く間に陥落した砦の奥からは、大草香王殺害の大逆臣・
翌日、飯田川に程近い
途中、戒め付きで引き摺り出された
「何をするのだ、物部殿」
と、慌ててハツセは
「何故、断りもなく、
「捕え次第、首を刎ねよ、との大王の命を果たしたまで」
と、
「そのような事、
「では、宮廷に問い合わせてみるが良い」
「
「以前と同じ事を云うのだな」
「第一、言葉の通じぬ狂人相手に、何を問うつもりだったのだ?」
「し、しかし……」
「狂人でなくとも同じ事。反逆者の申し開きを聞いて何になる。成程、
「義が何処にあるか判らねば、相手を裁けぬではないか。その為にも、事情を聞く必要があろう」
「聞いたところで王命は覆らぬ。逆臣を裁くのは、我らでは無い。我らは大王の正義に従うのみ。以前にも、そう云った
ハツセは尚も食い下がり、
「では、仮に、大王が貴殿の父君を——
「無論、討つ」
「理不尽と映ってもか?」
「大王には大王のお考えがある。それが正義と云うものだ」
「いいや、そうとも限るまい」
白彦王子や大草香王を思い出し、ハツセは逆上気味に、
「今の大王は以前と何かが違う。考え無しに命じられる事もあるやに映る。物部殿ほどの人物が、その事に気付いておられぬ筈があるまい。それでも、尚、見て見ぬ振りをされるのか」
「それは……」
珍しく、
二人のやり取りを聞いて、居合わせた将たちがざわついた。
彼らを一瞥にて黙らせた後、
「
「失態?」
「云うまでもあるまい。兵の数を見れば、最初から、戦の結果は見えていた。
刃の如き追及の眼差しがハツセを襲った。
脇に控えた武彦が、息を飲む音が微かに聞こえた。
「これは異な事を云うものよ」
ハツセは怒りの形相を呈して、
「何故、
「
ハツセは、笑止とばかりに鼻を鳴らし、
「面白い。なれば、三人の
「……まあ良い。いずれ、真実が判ろう。ともあれ、黒彦王子を取り逃したるはそちらの責任。その儀ついては、貴殿から大王に申し開きされよ」
合議の翌日、
実際のところ、戦場を脱した黒彦王子とは、宮廷の権勢及ばぬ
行く行く、諸国豪族の援軍と別れつつ、来た道を引き返したが、敢えて丹波の方へは迂回せず、
往きには、道に迷った
穴穂大王、眉輪王子に討たれる——の報が、彼の元に届いたのは、程なく
◆
「……退がるが良い。当面、そなたが動くべき事は無くなったわ」
神の宮の女官・
遠征の功も労わず、横柄に振る舞う様もさる事ながら、ハツセは、眼前の状況に驚いていた。この老婆が我が物顔に踏ん反り返っているのが、あろうことか、謁見の間の壇上——則ち、皇宮の主の玉座たるべき場所だったからである。しかも、その足元には、
——これでは、まるで、大王ではないか。
老婆は、掌をひらひらと宙へ舞わせ、
「申すまでも無かろう。大王を害せし
「その……眉輪殿が主殺しにお及びし儀は、真なのでしょうか? 何かの間違いと云う事はありませぬか?」
「私に問うて何とする。本人に訊かねば始まるまい」
と、老婆は退屈げに云った。
「されば、眉輪殿の居所をお聞きしたく——」
「ならぬ。そなたが会う必要は無い。程無く、
眉輪の居所も罪の詳細についても聞けぬまま、ハツセは謁見の間を退出した。
憤然としながら廊下を戻る途中、
「ハツセの尊。何もお力になれず、相済みませぬ。眉輪王子の大王殺しについては、真偽の程を慎重に確かめるが最善と、何度も、
「
「
「
「すべて、
「さもなくば、白彦王子も死なずに済んだやも知れませぬ。流言の如き疑惑を鵜呑みにし、詮議も行わず追討の命を出されたるは、行き過ぎではないか、と。廷臣の間でも申しております。しかし、
「正しき裁定さえ行われていれば、黒彦殿も逃げずに済んだものを」
「その、黒彦王子の事ですが——」
「いえ……何でもありません。それより、眉輪王子の事が
ハツセは下唇を噛み締めて、
「何故、このような事態になったのか。是非とも、会って話がしたいのです。穏健で聡明な眉輪殿の事。如何なる事情があったにせよ、一時の気の迷いで、主殺しに及ぶとは考えらぬ。幽閉場所につき、
「そうしたいのは山々ですが。その件については、
「左様ですか……」
「されど、まるで手が無い訳でもありません。蘇我一門に懇意の者がおります故、内密に働きかけてみましょう。上手くいけば、面会が叶うやも知れませぬ」
「宜しくお頼みいたします、
ハツセは頭を下げた。
しかし、使者が運んできた紙片に記された文面は、僅かに以下のみであった。
——
◆
出雲国の
建物は
「どうか、ここでご覧になった事は、口外されませぬよう」
そう云って、入り口の扉を開け、
「数日前、皇宮からお戻りになったばかりです。
ハツセが足を踏み入れた途端、背後で扉を閉める音が聞こえた。
灯りひとつない
左手の床の上に、女らしき人影がある。
うつ伏せに寝そべり、芋虫のようにのたうっている。
時折、脈絡なく動きを止め、唸りを発しているが、
ハツセは寄って行って傍へ座り、両手で女の頭部をそっと
床に沈み込んだその顔を手前に向けると、骸骨の透けた死相が目に入った。
「あなたは——」
ハツセは
「まさか、大草香王の妃……眉輪殿の母君、
その直後、女の瞳に光が戻り、そろそろと中空に右腕を差し伸べた。
黒ずんだ唇を震わせ、憐れを誘う声で、
「大王……何卒、ご容赦を……。何故、このようなご無体をなされます……。我が夫君を殺し……我が
【続】
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