第一部 其の十二

 出雲国のうじの公館から帰ったハツセは、家臣らに戦の備えをさせるよう葛城武彦かずらぎたけひこに命じた。外部からそれと知られぬよう、内々に、という但し付きで。こと、宮廷に動きを悟られるのは都合が悪かった。

 ハツセの計画と云うのは、明日の朝一番で皇宮に乗り込み、どこかに巣食っている妖魔の正体を白日の下にさらす事であった。己の見た事や白彦たちから聞いた話を総括するに、世の乱れの元凶はそこにある。そういう確信があった。


 ——その元凶。源流を辿れば、照り日の神の宮に由来するものかも知れぬ。


 神の宮の山道の入り口脇に立つ祠から現れ、衣通そとおり姫を飲み込んだ怪物を脳裏に浮かべ、そう思った。皇宮が文字通りの伏魔殿と化したのは、すべてあの影の怪物の所為ではないか。神の宮が何らかの意図を以って怪物を放ち、大王のまつりごとを崩さんとしたのではないか。或い《ある》いは、老女官・氷奴ひのなを大王の代理に据え、国政を意のままに動かす事が目的だったとも考えられる。


 いずれにせよ、事態は逼迫している。罪なき女どもが謂われ無き搾取を受け、それを庇わんとする男どもは殺され、彼らに肩入れする者たちは——たとえ、理あろうとも——皆、逆臣として滅ぼされる。そのような滅茶苦茶が公然とまかり通っている。更に、そのしわ寄せは国中に波及し、宮廷のまつりごとに対する反感は燎原りょうげんの火の如く広がり始めているのだ。

 最早、一刻の猶予もない。早急に誤りの元を正さねば、倭国の未来は無い。出雲の氏の公館で、変わり果てた中磯なかし姫の姿を目にした時、ハツセは痛感したのである。そして、現状の危うさを知る者の少ない今、それを成せる者は自分だけだ、と考えた。則ち、明日にでも皇宮に乗り込み、禍根を除くべきである、と。

 ともあれ、厳重な警護を押し通って宮中へ進入し、怪物退治を敢行する為には数の力が必要だった。それ故、武彦に戦の備えを命じたのである。


「王子のお考え、委細まで聞けば得心する者もありましょう。しかし、傍から眺めておればただの謀叛。皇宮を襲うなど、乱心以外の何物とも映りますまい」

 と、すべての事情を聞いた後で、武彦は云った。

わしもそれを解らぬ程の莫迦ばかでないぞ」

 ハツセは応えた。

「破れれば、我が郎党はことごとく滅ぼされましょう。承知の上での御覚悟と?」

「止むを得まい。友を脅かされし私憤も、世をたださんとの義憤もあるが、それをいてもやらねばならぬ。このまま放っておけば倭国は滅ぶ。我ら自身を護る為だ」

 武彦は深く頷いて、

「そこまでの仰せなら、最早、何も申しますまい。何処までも王子に付き従い、生死を共にせんと望むだけです」

「そなたは善き友であり兄であった」

 ハツセは微笑み、

「事破れて我が身が滅ぼうとも、また、次の世でまみえたいものだ」

「それでは、後悔なさるやも知れませんぞ。仮に、実の兄弟にでも生まれようものなら、今生のような我儘勝手わがままかってなお振舞いは許しませぬ」

 そう云って、武彦は笑った。


                 ◆

 

 覚悟を胸に眠りに就いたハツセは、しかし、決行の朝を迎えるより早く目を覚ます事になった。夜明け前に、皇宮の使者が館に来訪し、火急の報せを伝えた為である。

 それは、幽閉されていた眉輪まゆわ王子が昨夜のうちに出奔しゅっぽんし、行方をくらませたと云うものだった。監禁に用いた部屋は、引き戸の外にをして出入りを防いでいたが、眉輪は何某なにがしかの道具を用いて内側からこれを外し、警備の目を搔い潜って逃走したらしい。至急、所管の地域を改めて在所をあぶり出せ——と云うのが、宮廷の名を借りた氷奴ひのなから都の各大帥への急命であった。


 使者を返したハツセは、直ぐに馬を駆り、単身、都の南へ走った。眉輪の潜伏先について、思うところがあったからだ。以前、黒彦王子の物験ものだめしの会に、葛城円かずらぎのつぶらが自作の道具を持ち込んだ事がある。木の柄の先に銅の針金が伸び、その先端にかぎ状の手が付いた奇妙な代物だった。円はそれを用いて、扉の隙間から先端の部分を通し、引き戸の反対側にあるを外す実演をして見せた。使者の話を聞いた時、真っ先にそれが頭に浮かんだのである。


「遁走した眉輪殿が我が館に来ぬとなれば、こちらではないかと考えたのです」

 葛城円かずらぎのつぶらの館に上がり込むや、ハツセは息を切らしながら云った。

「やはり、ハツセのみことには解ってしまいましたか……」

 と、葛城円かずらぎのつぶらは苦笑して云った。

「蘇我殿の館を抜け出す手引きも、つぶら殿がなされたのでしょう? 何故、そのような危ない橋を。皇宮に知れれば御身おんみただでは済みますまい。まさか、是非にも会いたいとわしが申した故、無理を通して下さろうと……」

「無論、その事もありますが——」

 葛城円かずらぎのつぶらは深く嘆息し、

「先日、皇宮でお会いした折に、云い掛けて取り止めた事がございます。黒彦王子の事です」

「黒彦殿?」

「実のところ、都へ戻られています」

「な、何……」

「厳密には、大倭やまとの国境に程近い、山代やましろの渓谷におられます。そこに、我が葛城かずらぎの家の別邸があり、そちらで過ごされているのです。今頃は眉輪王子もそこに」

 

 ハツセは、心底、仰天して、

「そのような事になっていたとは。黒彦殿は、いつの間に戻ったのです?」

「実を云えば、黒彦王子が都を出られて以来、折に触れ、便りを交わしていたのです。久比岐くびきの戦を逃れた後、王子は家臣数名のみ伴い、陸奥むつ(東北)の方面へ向かわれたのですが……度々、野盗の襲撃に遭い、また、土着の蝦夷にも挑まれ、西へ戻らざるを得なくなったのです。と云って、三野国に帰れば一族に迷惑を掛けると申されるので、我が別邸へおいで願った次第。山代は皇都の隣国なれど、燈台下とうだいもと暗しの例えもあり、かえって追及の手を免れるやも、と」

「そこまでして、円殿は黒彦殿を——」

「黒彦王子は物造りにおいて、敬愛する我が師。むざむざと見殺しには出来ませぬ」

 二人の間にそれ程強い絆があったのかと、ハツセは少し驚いた。

「しかし、何故、わしに教えて下さらなかったのです? 水臭い話よ」

「それも黒彦王子の仰せです。万一に備え、ハツセの尊を巻き込まぬよう、内密にしておいてくれ、と。ともあれ、此度こたびの事は、その黒彦王子が眉輪王子の一件を聞き、何とかならぬか、と申され……」

「それで、眉輪殿の遁走の手引きをなされたのか?」

「王子の願いに打たれました。一命を賭しても眉輪王子を救いたい、つぶら殿の助力が得られずとも独力でやるつもりじゃ——と申されて」

「あの小心の黒彦殿がそこまで云われるとは……意外だ」

 葛城円かずらぎのつぶらは首肯して、

ひとえに、ハツセの尊の影響でございましょう。久比岐くびきにて、友に私の命を救われた。今度は友の命を私が救わねば、何の為に生き永らえたか判らなくなる。王子はそう仰せられたのです」

「黒彦殿……」

「その思いを無下にしたくなかったのは確かですが、私が加担したのには、もうひとつ訳があります。先日、ハツセのみことも仰ったように、今のまつりごとが道を誤っている事は火を見るより明らか。倭国がにわかに傾きつつあるのは、皇宮を覆う暗雲の如き邪念にるものと存じます。眉輪王子もその犠牲者と映る故、むざむざ見殺しにするは国の損失かと」

「暗雲の如き邪念か……。宮中にも同じ考えの方がいて良かった。して、円殿ご自身は、邪念の出所が何処にあるとお考えなのです?」

「正直、判じかねます。しかし、氷奴ひのな殿の横暴や各地の反乱、宮廷内の権勢争いなどは、表層に過ぎぬように映ります。もっと根深き何物かが皇宮に巣食っているような……。以前から、不穏な噂はありましたが、今は一層恐ろしげな空気が蔓延はびこっています。夜な夜な大王の魂が彷徨さまよい出でて、女房を食い殺すなどと、まことしやかにささやかかれる始末」

「左様なことが……」


 ハツセは、改めて状況の深刻さを認識した。と同時に、今、国を正す為に行動を起こせば、葛城円かずらきのつぶらの他にも同心する者が現れるだろうと考えた。ハツセは思い切って皇宮に乗り込む計画を話した。

「では、私も起ちましょう」

 と、葛城円かずらぎのつぶらは即座に云った。

「宜しいのですか? 大臣おおおみのお立ち場がおありでしょうに」

「実を云うと、眉輪王子の脱出を手引きした際、大王殺しの真相を聞きまして。来るべき時に備えねばと、密かに山代の別邸へ兵を集めていたのです」

 つぶられば、ハツセの久比岐くびき遠征の間に、大草香王の妃・中磯なかし姫は無理矢理に皇宮へ召されたのだと云う。そこで何が起こったかは不明だが、数日後、出雲の氏の公館へ戻った王妃は正気を失い、幽鬼の如き姿であった。母の変わり様に衝撃を受けた眉輪は、急遽きゅうきょ、参内して穴穂大王の暴虐を追及した。その詰問の途中、大王が化け物に変貌して襲い来た為、咄嗟とっさに小刀で斬りつけて皇宮を逃げた——と云うのが、眉輪王子の語った経緯いきさつらしい。

「怪異を掃討せぬ限り、皇宮は既にまつりごとを行うべき場ではないようです。ハツセの尊のご計画に、私どもも加えて戴きたい」

 葛城円かずらぎつぶらは決然と云った。

「もう日が昇ってしまいましたな」

 と、木戸の隙間から差し込む陽光を眺めて、ハツセは云い、 

「夜明けとともに乗り込むつもりでしたが、機を逃したようです。その代わり、つぶら殿と云う心強い味方を得た。ご異存無くば、明日の決行としたいが如何です?」

 つぶらは深く頷いて、

「私もこれより馬を駆って山代へ出向き、挙兵の準備を進める事にしましょう」


 葛城円かずらぎつぶらの元を出て居館へ戻る途上、ハツセは大神山おおみわやまへ登った。居館の北にそびえるこの神奈備かむなび山(神の鎮座する山)には、軍神としても知られる大物主おおものぬし大神が降り立つと云われる。ハツセはその頂きへ登り、明日の計画の成就を天に祈った。

 帰宅したのはひる過ぎの事であったが、中へ入るなり武彦が飛んで来た。ハツセの不在中、宮廷より追加の使者があり、即刻、皇宮へ参内せよとのお召しを伝えて来たと云う。

 

 ——即刻とは何事であろう。わしの計画が漏れたか? いや、それは考えられぬ。計画を知るは武彦とつぶら殿のみ。他の家臣へは戦の備えをとのみ報せてあったはず。まさか……眉輪殿の居所が割れた訳ではあるまいな。


 危惧しつつ昇殿したハツセだが、待ち受けていた事態は想像より深刻だった。

葛城円かずらぎのつぶらを討て、三大帥さんのたいすい

 玉座の上から、氷奴ひのなの声が矢の如く飛んだ。

「か、葛城殿を……? 何故ですか?」

「早朝、蘇我の大帥より報せがあったのよ。山代やましろの山中に葛城かずらぎの兵が参集し、謀叛の動きを見せておる、と」

「し、しかし……大臣おおおみ殿がご謀叛とは考え難き事。罪とするは、状況をよく調べてからにされるべきでは——」

「状況なら既に知れておるわ」

 氷奴ひのなしわがれ声を謁見の間に響かせ、

「かの者は、謀叛人・黒彦王子を秘匿し、大逆の徒・眉輪王子の逃亡を手引きし、あまつさえ、皇宮を乗っ取らんと企てたるよし。宮廷より大臣おおおみの位を賜りし身の程をわきまえず、その宮廷を軽んじ、威信を貶めんとする傍若無人の振舞い、構えて許すべからず。速やかに討ち果たすべし」


                  ◆

 

「まさか、つぶら殿を殺せとは……」

 皇宮から居館へ戻る途中、武彦が盛大に溜息を漏らして云った。

「現在、つぶら殿の姿も山代やましろの別邸にある故、急行して蘇我殿ら先発の宮廷軍へ合流し、谷の館を取り囲んで打ち滅ぼせとの事だ」

 と、ハツセは云った。

「では、戦はもう始まっていると?」

「どうやら、蘇我殿は昨日から情報をつかんでいたようだ。宮廷の命が下るや、悦び勇んで攻め掛かったのだろう。葛城の家を追い落とし、大臣おおおみの位を狙っていると云う噂も聞く」

「それでは、我らが駆け付ける頃には、つぶら殿のお命はもう——」

 肩を落とす武彦の二の腕を叩いて、ハツセは云った。

「安心せよ、と申して良いか解らぬが、それはあるまい。周囲の地形を知り尽くす葛城かずらぎ軍相手に、宮廷の兵は相当の苦戦を強いられておるそうだ。それ故、我らを応援に呼んだのだろう。まったく、時機の悪い事よ。明日、つぶら殿と事に臨む約束であったのに」

「成程……」

「我らに先んじて姫神衆も送ったらしいが、奴らの恰好かっこうでは山谷で戦えまい。物部目もののべのめが遠征中で無くば、一瞬で捻り潰してくれるものを——と、氷奴ひのな殿が地団駄を踏んでいた。それを見て、少し胸がすっとしたわ」

「して、山代へ着きし後は、如何いかが動かれるつもりです?」

「出来れば、つぶら殿とは戦いたくない。久比岐くびきの時の如く、宮廷軍の隙をついて逃がせれば良いが……。そう上手く運ぶかどうか」

「運ばぬ時はどういたします?」

「現地の状況を見ねば解らぬ。最悪、両軍の間に割って入るしかあるまい」

 すると、武彦は険しい表情で、

「王子、宮廷の軍に手を掛けるおつもりですか?」

「今朝方は、皇宮へ乗り込もうとしていたではないか。今更だろう」

「状況が違い過ぎます。先の計画は、あくまで、化け物の討滅が目的。事を果たしたる後、忠義の為と申し開きも出来ましょう。しかし、ここで宮廷の軍と構えるは、反逆を宣する事に他なりませんぞ」

 ハツセはすっと目を細めて、

「では、そなたの手でつぶら殿を斬るか? そなたの甥御殿の首を」

「それは……」

「黒彦殿や眉輪殿も斬れと云うのか? 身内を斬り、友を斬り、義の無い戦を続ける皇宮にへつらってまで、命を永らえて何とする?」

「命を惜しんで云うのではありませぬ」

 武彦は寂しげに笑い、

つぶら殿を救いたいのは山々なれど、それで王子が危うくなっては、と案じたまで。私には、それが何より大事 ゆえ、身内も友も二の次なのです」


                  ◆


 ハツセの軍が山代やましろにある葛城円かずらぎの別邸付近へ迫ったのは、夕刻近くの事であった。渓谷に立つ同邸は南北を切り立った崖に挟まれ、東側を滝に面しており、一種、天然の要害の趣きを呈していた。

 また、谷の入口から別邸に至る間の地形は複雑で起伏に富み、この館を攻めんとする者の障害となった。実際、土地勘のない者が不用意に進むと、岩棚や窪地に隠れた待ち伏せの兵に、易々と討たれ得る状況であった。

 事実、ハツセが現地入りした時点で、宮廷側の軍はいまだ攻めあぐねており、別邸の前方に居並ぶ葛城軍本隊に到達する前に、各所の潜兵に苦しめられていた。攻め手の指揮官である蘇我満智そがのみちらは、弓兵を寄せて館に矢を降らせようとしたが、土台、丸木弓の射程内まで近接できない状況だった。


 谷に沿って縦長に布陣した宮廷軍の、蛇尾の辺りに合流すると、蘇我の伝令がハツセの元へ飛んで来て戦況を説明した。聞き終えると、ハツセは伝令の者へ、

葛城円かずらぎのつぶら殿別邸の立地の問題から、最後方の我らが、蘇我殿の軍と同時に攻め寄せるは無理かと。いたずらに敢行して味方の混乱を招かぬよう、一先ずは周囲の地形・抜け道などを点検し、難局打破の一案を講じるべく考えを巡らせるが我らの務めと存ずる」

 そう答えて蘇我軍へ返し、当面、静観を決め込みつつ今後の展開を探る事にした。


 自軍を除く宮廷軍の数は五百強、葛城軍は三百程度、とハツセは見て取った。前線の動きを眺めたが、両軍、小競り合いに終始している。たとえ、宮廷側に更なる援軍が駆け付けても、総力戦に持ち込めぬ現状では戦局は変わるまい。膠着状態が長引くだろう、と推察した。

 一方、気懸りの姫神衆は、ハツセの予測通り、戦地の遥か後方に控えていた。谷の外の小高い丘に立ち、只々ただただ、成り行きを見守っているように映る。大前宿禰の館攻めの折を思い出し、事後処理と我らの監視が姫神衆の役目かも知れぬ、とハツセは考えた。


 間もなく、夜の帳が下り、戦いが中断すると、宮廷軍は谷の入り口まで退いて野営を張った。ハツセは密かに葛城別邸へ使者を送り、自分は攻めに加わる意志の無い旨を伝えた。数日続くであろう戦いの間に宮廷軍の隙をつき、葛城円と眉輪・黒彦を脱出させるよう取り計らう、と。

 館にいる葛城円かずらぎつぶらからの返答は、「期待して待つが、如何様いかようにもならぬ時は、ご自分の身を第一に案じられよ」と云う内容であった。ハツセだけでも生き延びて、皇宮の邪悪を正して欲しいと云うのである。そのような事態にならぬよう、無い知恵を絞り出さねば、とハツセは肝に銘じた。


 ところが、いざ夜が明けてみると、葛城別邸の背に面する東の滝壺周りに、五十名程の蘇我兵の姿が現れた。功をはやる彼らは、深夜のうちに渓谷を挟む尾根をぐるりと回り、無謀な滝下りを強行して館の後ろ側へ入り込んだのである。館を前後から挟撃せんとの目論みであったが、これが覆いに奏功した。無防備な館の裏手を攻撃する彼らを防ごうと、館の前方に布陣した葛城軍が退き始めたからである。宮廷軍の本隊は、待ち構えていたようにその背後に襲い掛かった。戦局は一気に宮廷軍へ傾いた。


「不味いぞ。このままでは、葛城方は全滅だ」

 前方を見渡しつつ、ハツセは歯噛みした。

「如何いたします? 迷っている暇はありませんぞ」

 と、武彦が促した。

「最早、策を案じている余裕はない。ここは蘇我殿の後を追うしかあるまい……」

「館攻めもやりようと存じます。我らの手で二王子や円殿を生け捕れば、助命の嘆願もできましょう」

 口元に不本意を滲ませる主君を慰めて、武彦は云った。

 が、ハツセはおもむろに首を振り、

「いや、つぶら殿と戦うのではない。宮廷の軍を背後から討つ」

「…………」

 物云いたげな武彦だったが、ハツセの決意は覆らぬと見たか、静かに頷いた。


 主君の号令が掛かるや、不動を貫いてきたハツセ軍は疾風はやての如く動いた。館攻めに走る宮廷軍の後方から、雪崩を打って攻め掛かったのである。虚を突かれた宮廷軍が浮き足立つ一方、状況を悟った葛城軍が前方から押し返し始めた。今度は、自らが挟み撃ちとなった宮廷の兵らは、戦意を喪失し、敢えてハツセ軍が塞がずにおいた西側の崖沿いを通って次々と敗走した。半刻後、葛城別邸の立つ谷には、ハツセと葛城の軍のみが残っていた。


 葛城軍と合流したハツセは、ひと息つこうとする両軍に向かい、大音声だいおんじょうで呼ばわった。

「心得違いいたすな。勝負はこれからだぞ。至急、葛城殿の館へ参って床や壁を打ち壊し、木板をすべて剥がして持って参れ。兎に角と申す者はこの場で斬り捨てる。命が惜しい者はわしを信じて我が命に従え」

 その鬼気迫る形相に、ハツセ軍の兵らは直ぐに動き出した。当然、葛城の兵は戸惑いを見せたが、程無く、駆け付けてきた葛城円かずらぎのつぶらが彼らに命じた。

「ハツセの尊の仰せに従え。何事かお考えがあるはず。従わぬ者はく立ち去るが良い」


 しばらくして、兵たちが山のように木板を携えて来ると、二枚を一揃ひとそろえとしてに組み上げるようハツセは指示した。それから、谷の入り口の方角へ向けて陣を作らせ、その最前線に立つ兵たちに、横から見て『ト』の字型になるよう組んだ木板を構えさせた。何の為にこのような事を——腹心の武彦でさえ疑ったが、間もなく、ハツセの真意を知る事になった。則ち、姫神衆である。


 ハツセの先見は当たっていた。遠方の丘陵に控えていた姫神衆が、宮廷軍の敗走を見て谷へ下り、館の前へやって来たのだ。前回同様、まが漁火いさりび以下三十余名の小勢だが、ハツセはその攻撃力を嫌と云う程知っている。彼らの用いる玉付きやじりの威力を、そして、その冷酷無比なやり口を……。


「ハツセのみこと粗忽者そこつものよ」

 姫神衆とハツセ・葛城軍が睨み合う中、まが漁火いさりびが一歩進み出て、

「敵と味方の区別を勘違いされるとは。同じ皇宮の軍に背後を刺され、さすがの蘇我殿も驚かれたでしょう。まこと、不注意なるかな、ハツセの尊。呆れを通り越し、最早、愛おしくさえ映ります。……が、そろそろ、勘違いも終わりになさるが宜しかろう。さもなくば、謀叛と取り違えられ、誤って懲罰されぬとも限りませぬ。さあ、速やかに葛城円かずらぎのつぶらを引き渡し、皇宮への忠誠をお示し下され」

「命までは取らぬと約束すれば考えよう。つぶら殿は殺させぬ」

 と、ハツセは怒鳴り返した。

「そう云う訳にもいきますまい。葛城かずらぎ殿の度重なる悪行を許しては、天下に示しがつきませぬ」

「では、わしの勘違いも収まるまい。勘違いで皇宮へ攻め上るやも知れぬ」

 すると、漁火いさりびは冷ややかに笑って、

「それは穏やかならぬ事。なれば、葛城かずらぎ殿を引き渡す代わりに、館に匿われし眉輪王子と黒彦王子は、死一等(死罪)を減じると云う話では?」

「引き換えと云う訳か。面白い」

「その条件でご納得戴けましょうや?」

「無論、断る」

 と、ハツセは云った。

 漁火いさりばは首を振って、

「それは残念」


 直後、姫神衆が前へ出て、一斉に矢を放った。打ち上がった矢は天空で反転し、魚群の如くハツセたちの頭上へ飛び掛かった。地に落ち、やじりの先端に付いた玉が破裂すれば、中の細刃が兵たちを襲う。それこそ、姫神衆の攻撃の真骨頂である。

 しかし、ハツセ・葛城軍に構えられた『ト』字型の板は、大いに効き目を発揮し、敵の攻撃を防いだ。矢の半分は木板に弾かれ、飛散した細刃の多くも板面に突き刺さって動きを止めた。

 姫神衆は間断なく矢を射続けたが、やがて、焦りの色を見せ始めた。攻防が白兵戦に転じれば、軽装の姫神衆は無力に等しい。軍備に優るハツセらの軍が勝つのは目に見えている。わば、この臥薪嘗胆がしんしょうたんの戦法こそ、ハツセの狙いであった。

 やがて、矢の備えが尽きた姫神衆が後退の気配を示し、ハツセ・葛城の連合軍は勝利を確信した。


「止むを得まい。

 漁火いさりびが叫んだ。

 直後、姫神衆の間に動揺が走った。

「し、しかし……それでは、媛帝の君にお叱りを賜ります」

 配下の一名が恐る恐る云うと、

「構わぬ。この場は、愚か者どもに身の丈を知らしむが第一ぞ」

 漁火いさりびは紫の唇をいびつに吊り上げ、

 ハツセが突撃の号令を発するのと、ほとんど同時に、姫神衆が弓を放り投げた。彼らは一様に右腕を掲げ、左の掌をハツセたちに向かって突き出した。

 

 刹那せつなごう——と爆雷が鳴った。


 眼前で何が起こったのか。

 ハツセ・葛城軍の中に、理解できた者は皆無だった。

 焦熱の業火が、瞬く間に谷全体を覆い、為す術なく彼らは全滅した。




【続】

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