第一部 其の十二
出雲国の
ハツセの計画と云うのは、明日の朝一番で皇宮に乗り込み、どこかに巣食っている妖魔の正体を白日の下に
——その元凶。源流を辿れば、照り日の神の宮に由来するものかも知れぬ。
神の宮の山道の入り口脇に立つ祠から現れ、
いずれにせよ、事態は逼迫している。罪なき女どもが謂われ無き搾取を受け、それを庇わんとする男どもは殺され、彼らに肩入れする者たちは——
最早、一刻の猶予もない。早急に誤りの元を正さねば、倭国の未来は無い。出雲の氏の公館で、変わり果てた
ともあれ、厳重な警護を押し通って宮中へ進入し、怪物退治を敢行する為には数の力が必要だった。それ故、武彦に戦の備えを命じたのである。
「王子のお考え、委細まで聞けば得心する者もありましょう。しかし、傍から眺めておれば
と、すべての事情を聞いた後で、武彦は云った。
「
ハツセは応えた。
「破れれば、我が郎党は
「止むを得まい。友を脅かされし私憤も、世を
武彦は深く頷いて、
「そこまでの仰せなら、最早、何も申しますまい。何処までも王子に付き従い、生死を共にせんと望むだけです」
「そなたは善き友であり兄であった」
ハツセは微笑み、
「事破れて我が身が滅ぼうとも、また、次の世で
「それでは、後悔なさるやも知れませんぞ。仮に、実の兄弟にでも生まれようものなら、今生のような
そう云って、武彦は笑った。
◆
覚悟を胸に眠りに就いたハツセは、しかし、決行の朝を迎えるより早く目を覚ます事になった。夜明け前に、皇宮の使者が館に来訪し、火急の報せを伝えた為である。
それは、幽閉されていた
使者を返したハツセは、直ぐに馬を駆り、単身、都の南へ走った。眉輪の潜伏先について、思うところがあったからだ。以前、黒彦王子の
「遁走した眉輪殿が我が館に来ぬとなれば、こちらではないかと考えたのです」
「やはり、ハツセの
と、
「蘇我殿の館を抜け出す手引きも、
「無論、その事もありますが——」
「先日、皇宮でお会いした折に、云い掛けて取り止めた事がございます。黒彦王子の事です」
「黒彦殿?」
「実のところ、都へ戻られています」
「な、何……」
「厳密には、
ハツセは、心底、仰天して、
「そのような事になっていたとは。黒彦殿は、いつの間に戻ったのです?」
「実を云えば、黒彦王子が都を出られて以来、折に触れ、便りを交わしていたのです。
「そこまでして、円殿は黒彦殿を——」
「黒彦王子は物造りにおいて、敬愛する我が師。むざむざと見殺しには出来ませぬ」
二人の間にそれ程強い絆があったのかと、ハツセは少し驚いた。
「しかし、何故、
「それも黒彦王子の仰せです。万一に備え、ハツセの尊を巻き込まぬよう、内密にしておいてくれ、と。ともあれ、
「それで、眉輪殿の遁走の手引きをなされたのか?」
「王子の願いに打たれました。一命を賭しても眉輪王子を救いたい、
「あの小心の黒彦殿がそこまで云われるとは……意外だ」
「
「黒彦殿……」
「その思いを無下にしたくなかったのは確かですが、私が加担したのには、もうひとつ訳があります。先日、ハツセの
「暗雲の如き邪念か……。宮中にも同じ考えの方がいて良かった。して、円殿ご自身は、邪念の出所が何処にあるとお考えなのです?」
「正直、判じかねます。しかし、
「左様なことが……」
ハツセは、改めて状況の深刻さを認識した。と同時に、今、国を正す為に行動を起こせば、
「では、私も起ちましょう」
と、
「宜しいのですか?
「実を云うと、眉輪王子の脱出を手引きした際、大王殺しの真相を聞きまして。来るべき時に備えねばと、密かに山代の別邸へ兵を集めていたのです」
「怪異を掃討せぬ限り、皇宮は既に
「もう日が昇ってしまいましたな」
と、木戸の隙間から差し込む陽光を眺めて、ハツセは云い、
「夜明けとともに乗り込むつもりでしたが、機を逃したようです。その代わり、
「私もこれより馬を駆って山代へ出向き、挙兵の準備を進める事にしましょう」
帰宅したのは
——即刻とは何事であろう。
危惧しつつ昇殿したハツセだが、待ち受けていた事態は想像より深刻だった。
「
玉座の上から、
「か、葛城殿を……? 何故ですか?」
「早朝、蘇我の大帥より報せがあったのよ。
「し、しかし……
「状況なら既に知れておるわ」
「かの者は、謀叛人・黒彦王子を秘匿し、大逆の徒・眉輪王子の逃亡を手引きし、
◆
「まさか、
皇宮から居館へ戻る途中、武彦が盛大に溜息を漏らして云った。
「現在、
と、ハツセは云った。
「では、戦はもう始まっていると?」
「どうやら、蘇我殿は昨日から情報を
「それでは、我らが駆け付ける頃には、
肩を落とす武彦の二の腕を叩いて、ハツセは云った。
「安心せよ、と申して良いか解らぬが、それはあるまい。周囲の地形を知り尽くす
「成程……」
「我らに先んじて姫神衆も送ったらしいが、奴らの
「して、山代へ着きし後は、
「出来れば、
「運ばぬ時はどういたします?」
「現地の状況を見ねば解らぬ。最悪、両軍の間に割って入るしかあるまい」
すると、武彦は険しい表情で、
「王子、宮廷の軍に手を掛けるおつもりですか?」
「今朝方は、皇宮へ乗り込もうとしていたではないか。今更だろう」
「状況が違い過ぎます。先の計画は、あくまで、化け物の討滅が目的。事を果たしたる後、忠義の為と申し開きも出来ましょう。しかし、ここで宮廷の軍と構えるは、反逆を宣する事に他なりませんぞ」
ハツセはすっと目を細めて、
「では、そなたの手で
「それは……」
「黒彦殿や眉輪殿も斬れと云うのか? 身内を斬り、友を斬り、義の無い戦を続ける皇宮にへつらってまで、命を永らえて何とする?」
「命を惜しんで云うのではありませぬ」
武彦は寂しげに笑い、
「
◆
ハツセの軍が
また、谷の入口から別邸に至る間の地形は複雑で起伏に富み、この館を攻めんとする者の障害となった。実際、土地勘のない者が不用意に進むと、岩棚や窪地に隠れた待ち伏せの兵に、易々と討たれ得る状況であった。
事実、ハツセが現地入りした時点で、宮廷側の軍はいまだ攻めあぐねており、別邸の前方に居並ぶ葛城軍本隊に到達する前に、各所の潜兵に苦しめられていた。攻め手の指揮官である
谷に沿って縦長に布陣した宮廷軍の、蛇尾の辺りに合流すると、蘇我の伝令がハツセの元へ飛んで来て戦況を説明した。聞き終えると、ハツセは伝令の者へ、
「
そう答えて蘇我軍へ返し、当面、静観を決め込みつつ今後の展開を探る事にした。
自軍を除く宮廷軍の数は五百強、葛城軍は三百程度、とハツセは見て取った。前線の動きを眺めたが、両軍、小競り合いに終始している。
一方、気懸りの姫神衆は、ハツセの予測通り、戦地の遥か後方に控えていた。谷の外の小高い丘に立ち、
間もなく、夜の帳が下り、戦いが中断すると、宮廷軍は谷の入り口まで退いて野営を張った。ハツセは密かに葛城別邸へ使者を送り、自分は攻めに加わる意志の無い旨を伝えた。数日続くであろう戦いの間に宮廷軍の隙をつき、葛城円と眉輪・黒彦を脱出させるよう取り計らう、と。
館にいる
ところが、いざ夜が明けてみると、葛城別邸の背に面する東の滝壺周りに、五十名程の蘇我兵の姿が現れた。功を
「不味いぞ。このままでは、葛城方は全滅だ」
前方を見渡しつつ、ハツセは歯噛みした。
「如何いたします? 迷っている暇はありませんぞ」
と、武彦が促した。
「最早、策を案じている余裕はない。ここは蘇我殿の後を追うしかあるまい……」
「館攻めもやりようと存じます。我らの手で二王子や円殿を生け捕れば、助命の嘆願もできましょう」
口元に不本意を滲ませる主君を慰めて、武彦は云った。
が、ハツセは
「いや、
「…………」
物云いたげな武彦だったが、ハツセの決意は覆らぬと見たか、静かに頷いた。
主君の号令が掛かるや、不動を貫いてきたハツセ軍は
葛城軍と合流したハツセは、ひと息つこうとする両軍に向かい、
「心得違いいたすな。勝負はこれからだぞ。至急、葛城殿の館へ参って床や壁を打ち壊し、木板をすべて剥がして持って参れ。兎に角と申す者はこの場で斬り捨てる。命が惜しい者は
その鬼気迫る形相に、ハツセ軍の兵らは直ぐに動き出した。当然、葛城の兵は戸惑いを見せたが、程無く、駆け付けてきた
「ハツセの尊の仰せに従え。何事かお考えがある
ハツセの先見は当たっていた。遠方の丘陵に控えていた姫神衆が、宮廷軍の敗走を見て谷へ下り、館の前へやって来たのだ。前回同様、
「ハツセの
姫神衆とハツセ・葛城軍が睨み合う中、
「敵と味方の区別を勘違いされるとは。同じ皇宮の軍に背後を刺され、さすがの蘇我殿も驚かれたでしょう。
「命までは取らぬと約束すれば考えよう。
と、ハツセは怒鳴り返した。
「そう云う訳にもいきますまい。
「では、
すると、
「それは穏やかならぬ事。なれば、
「引き換えと云う訳か。面白い」
「その条件でご納得戴けましょうや?」
「無論、断る」
と、ハツセは云った。
「それは残念」
直後、姫神衆が前へ出て、一斉に矢を放った。打ち上がった矢は天空で反転し、魚群の如くハツセたちの頭上へ飛び掛かった。地に落ち、
しかし、ハツセ・葛城軍に構えられた『ト』字型の板は、大いに効き目を発揮し、敵の攻撃を防いだ。矢の半分は木板に弾かれ、飛散した細刃の多くも板面に突き刺さって動きを止めた。
姫神衆は間断なく矢を射続けたが、やがて、焦りの色を見せ始めた。攻防が白兵戦に転じれば、軽装の姫神衆は無力に等しい。軍備に優るハツセらの軍が勝つのは目に見えている。
やがて、矢の備えが尽きた姫神衆が後退の気配を示し、ハツセ・葛城の連合軍は勝利を確信した。
「止むを得まい。解け」
直後、姫神衆の間に動揺が走った。
「し、しかし……それでは、媛帝の君にお叱りを賜ります」
配下の一名が恐る恐る云うと、
「構わぬ。この場は、愚か者どもに身の丈を知らしむが第一ぞ」
「解け」
ハツセが突撃の号令を発するのと、
眼前で何が起こったのか。
ハツセ・葛城軍の中に、理解できた者は皆無だった。
焦熱の業火が、瞬く間に谷全体を覆い、為す術なく彼らは全滅した。
【続】
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