第一部 其の十三
奇妙な夢だった――。
紅竜の如き火柱が空へ昇ったかと見るや、猛然と降下して自軍を覆い尽くす。
火炎地獄の熱気に喉を焼かれて息が止まり、意識が遠のいていく。
やがて、懐かしき背中が自分を担ぎ、何処かを目指して歩き始める。
己が童子の時分、野遊びをしていた吉備の山中で足を痛め、大きな背中におぶわれて、母君の待つ館へ帰ったことを思い出す。
奇妙な安堵とともに暗闇へ墜落し、そして、その先は......。
◆
ハツセが
ややあって、視界が落ち着いてくると、そこが
格子の向こうには、姫神衆らしき
やがて、姿を現したのは、ハツセにとって憎むべき仇敵の一人だった。
黒装束の男は牢の前に立ち、死人のように
「ご気分は如何ですかな? ハツセの
「今は……
と、からからの喉を絞って、ハツセは云った。
「
「
「我らがお連れ申したのです。この牢は、照り日の神の宮の
「皆はどうなったのだ……。同じように獄へ繋がれたのか……」
「皆と云うのは、
ハツセは重い
「仕方ありませぬな。そうまで頭を下げられては」
と、
「何をお聞きになりたいのです? お答え出来る範囲で答えましょう」
「我らの軍は、どうなったのだ……」
「おや。憶えておられませぬか? 衝撃の為に、頭を打たれましたかな。……ともあれ、あの場にいた反宮廷の兵らは、我らの
「ま、まさか……
「黒彦殿や眉輪殿も……?」
「
「き、姫神衆は……いったい何をやったのだ」
「
「なに……」
「
そう云って、
「た、武彦は……
「
ハツセは僅かに安堵を覚えつつ、
「どういうことだ……?」
「まだお解りになりませぬか。何故、ハツセの
「何故……」
「無論、媛帝の君の御聖慮により」
「え、媛帝の……」
「以前にも申し上げたでしょう。ハツセの
物問いたげなハツセに向かい、
「これ以上、私の口からは申し上げられませぬ。残りは裁きの場にて問われるが宜しかろう」
地下を去ろうとする黒装束の背中に、ハツセはじっと目を凝らした。改めて
間もなく、辺りに静寂が戻り、ハツセは漁火の言葉を反芻した。
黒彦、眉輪、
仄暗い土牢の奥に潜む深淵の闇が、自分を呼んだような気がした。
◆
裁きの日取りは
しかし、意識が回復した三日後には、数名の姫神衆が現れて牢の鍵を開けた。彼らはハツセを地下から出し、網板に乗せて担ぎ上げて、何処かへ向かった。その間、首まで布袋を頭に被せられていた為、行き先は見当もつかなかった。
布袋を外された時、記憶にある風景がハツセの視界に入った。都の外れにある
竹編みの杭で括られた広い囲いの東端に、物部一族と思われる
自分もその末席へ、と推測していたハツセだが、結局、
間もなく、太刀を持った男が藁座の脇へ立ち、ハツセは
処刑人の手により、藁座の男らは布袋を被ったまま次々と斬首された。皆、断末魔の悲鳴を上げて死んでいったが、最後の一名だけは声を上げなかった。歯を食い縛り、唇をきつく結び、一音たりとも漏らすまいと決めている風だった。処刑人の太刀が一閃した後、首が地に落ちる音だけがごとりと響いた。そこに並々ならぬ覚悟を見てとり、ハツセは得も言われぬ感心を覚えた。
――
腹を括ったその時であった。
「先の
直後、処刑人が最後に
「これなる
ハツセは
やがて、
「ハツセの
「解からぬ……いったい、どうなっているのだ……」
と、ハツセは力なく呟いた。
「
男は同情するように頷いて、
「先の乱につき、当初、
「何だと……。では、
「仔細は後日改めてお報せいたします
云い終わるや、男は身を翻し、
代わりに、別の者が寄って来て、地に
「……命拾いをしたな」
と、
「
ハツセは虚ろな目で相手を見上げた。既に言い返す気力も残っていない。
「情けない姿よ。ともあれ、良い家臣を持って幸せと思うが良い。主君の為に自らの命を投げ打つなど、簡単と見えても、中々出来る事ではない。貴殿のような主には過ぎた家臣だ」
「その事……武彦から聞いたのか……?」
「聞かずとも解る。あの男が主君に背き、勝手な振舞いをするとは考えられぬ。主君の命を救わんが為、偽りの告白をしたのであろう」
「では……何故、
「愚かなり、ハツセの尊。家臣の願いがまだ判らぬのか?」
「いずれにせよ、思い知ったであろう。皇宮に弓引くとはこう云う事だ。力も無く、理想のみを振り
世のすべてが色を失って見え、
それでも、尚、現実を見つめようとした。自分はすべてを失ったのだ――と。
互いに認め合い、死地を共にした学友たちも。
ともに宮廷を正さんと誓った盟友も。
同じ乳で育ち、兄弟同然に付き合い、陰に日向に自分を支えてくれた武彦さえも。
皆、この世を去り、己独りが生き残ったのだ――と。
不思議と涙は出なかった。悲しみも怒りも湧かなかった。
どれ程の時が過ぎた頃か、西の空に茜色が差し始めた。
棒のような足を牛歩の如く進め、ハツセはとぼとぼと丘を降った。
間もなく、麓に程近い道の上で、一人の女と鉢合わせた。
ハツセの手前で足を止めると、彼女は聞き覚えのある声で
「正しき流れへ戻る事は出来なかったのですね」
その顔をハツセは知っていた。
返す言葉も無く
「ハツセの尊、真に遺憾と申す他ありません。貴方様が皇宮の乱れを正して下さるかと期待していたのですが」
「何故……貴女がここに……」
「ご自分を見失われぬようにと、あの折、申し上げましたのに。何故、
「皆、放っておけば良かった……そう云うのか……?」
トヨは哀しげな微笑を頬に寄せて、
「放っておかずに、良かれと動かれた結果、その者たちは如何なりましたか? 世にとって真に大切な事は何か――貴方様がその見極めを怠った故、誰も救われぬ結末と相成ったのです。それを成す眼をお持ちでありながら、です。無念でございます」
「真に大切な事……」
ハツセの頭に武彦の言葉が浮かんだ。
――私には、何より王子が大事ゆえ、他の事は二の次なのです。
自身にとって最も大切なものを、武彦はよく知っていたのかも知れない。
それ故、当然のように命を投げ打ち、見事にそれを守り抜いてみせた。
比べて、己はどうだろう。真に大切なものを、解って動いた事があるだろうか。トヨ姫の云うように、その場の思い付きで運命を選び続けた結果、守るべきものを何一つ守れなかったではないか……。
——何処までも王子に付き従い、生死を共にせんと望むだけです。
皇宮に乗り込まんと誓った前夜、武彦はそう云った。
だが、その武彦は独りで世を去り、もう二度と会うことは叶わない。
兄と慕った男の笑みを胸に、ハツセは
◆
それから、ひと月余りが経った。
あれ以来、ハツセは魂を失った抜け殻の如き体を抱え、自らの居館に引き
友も仲間もすべて戦場に消えた今、彼を心配して声を掛ける者もいなかった。一度だけ、
ハツセが、
以前、
久方ぶりに訪れた皇宮は、一層、
が、謁見の間の入り口へ立った時、その異様な雰囲気にはさすがに面食らった。部屋の左右にずらりと居並ぶ廷臣たちが、潰れた
彼らの畏怖は、一様に、最奥の壇上に吊られた
「ハツセの尊、控えよ。
同時に、手前の廷臣二人が素早く動き、ハツセの肩を
「ハツセの
と、竹簾の足下に坐した若い女が抑揚の無い声で云った。
神の宮の女官らしいが、
「
「せ、
「
と、近侍の女はにべもなく答えた。
「そ、それは……」
驚きの余り、ハツセが顔を上げると、簾の向こうの人影が微かに頷いたように見えた。ここに至って、緊張や畏怖以上に強力で禍々しい気が、場を支配している事に、彼は
「し、しかし……余りに唐突な――」
云い掛けたハツセを遮り、近侍の女は云った。
「
それから、場に揃った廷臣たちに向かい、
「ご一同様もお聞き及びでございましょう。御聖慮が
廷臣は口々に隷従を叫び身を固くした。
その後、近侍の女に退出を促され、ハツセは謁見の間を後にした。
——一体、どうなっているのだ……。一時は反逆の罪を問われたこの
成り行きが掴めぬまま、よたよた廊下を歩いていると、
「ハツセの尊、祝着至極よのう。これでやっと私も神の宮へ帰れまする。大王の代わりに
「ですが……
「なに。それ故、そなたが選ばれたのよ」
老婆は黄ばんだ歯を剥き出して、
「心配する事はない。
◆
年明けの
かつて、彼が母に連れられて上京し、宮廷の年始の儀に参列した折、
古来より皇宮に伝わる神獣鏡を床に置き、冠帽を被った己の姿を映してみても、如何なる感慨も湧かなかった。あれ程望んでいた大王への即位も、悪い冗談としか思えない。治天の君とは名ばかりで、あの近侍の女同様、
間もなく、
その前にすべて終わらせよう、とハツセは考えた。
懐から短刀を取り出し、
せめて、神の宮の犬に成り下がる前に自決し、死んだ者たちへ詫びる覚悟だった。
柄に布を巻き付けて握り締め、首筋に刃を宛てて引こうとした。
が、手元が狂い、刀を取り落としてしまった。
金属の触れ合う音が響き、足下の神獣鏡の縁が欠けて飛散した。
自刃さえ一人前に果たせぬのか――この上なく惨めな気分だった。
今一度、と刀を拾い上げようとして、彼はふと気付いた。
神獣鏡の縁に走った亀裂から、紙片らしきものの一端が覗いている。
刀を脇へ置き、指で摘まんで引き摺り出すと、薄茶に変色した手簡が現れた。
そこには、豆粒大の小文字で数十行の文面が記され、「
——大王は倭国の守護を司る国の
陰ながら手を尽くし、媛帝の君と暗闘を続けてきたが、間もなく、自分は姫道の力で正気を失い、怪物と成り果てるだろう――続きには、そのような内容が記されていた。それを妨げる道は最早ない、自分の命運はここまでのようだ、と。
手簡を遺した人物を示す手掛かりは無いが、その内容は確かにハツセの胸を打った。紙片の汚れ具合を見るに、当代より遥か以前の大王の手に拠るものだろう。彼は媛帝の暴虐を退ける為に身を賭して戦い、志半ばにして斃れたのだ。
ぶるぶると手を震わせつつ、ハツセは文面を目で追った。文字は最後の方へ進むほど乱れ、書き手の言い知れぬ無念を伝えてきた。後代の者に自らの意志を託す旨を述べた後、顔も知らぬ大王はこう結んでいた。
――願わくは、
媛帝の意志を疑い背かぬ限り、穴穂大王のような非業の最期は避けられる。
以前、
――
血が滲む程に拳を握り締め、ハツセは己に言い聞かせた。
—―死んだ者には心が無い。心が無ければ、媛帝の命を聞き入れる事にも苦しむまい。その非道を見逃す事にも
ハツセは、元通り、手簡を神獣鏡に収めると、短刀とともに物入れの裏に隠した。
それから、
◆
――同日の午後。
後の世に云う、雄略天皇の誕生である。
日本書紀に『大悪天皇』と記され、その治世で暴虐の限りを尽くしたとされる大王の秘めたる真意は、数年後、一匹の
【第一部 了】
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