第一部 其の十三

 奇妙な夢だった――。


 紅竜の如き火柱が空へ昇ったかと見るや、猛然と降下して自軍を覆い尽くす。

 火炎地獄の熱気に喉を焼かれて息が止まり、意識が遠のいていく。

 夢現ゆめうつつの中、武彦たけひこと思しき声に呼ばれ、激しく身体を揺すぶられる。

 やがて、懐かしき背中が自分を担ぎ、何処かを目指して歩き始める。

 己が童子の時分、野遊びをしていた吉備の山中で足を痛め、大きな背中におぶわれて、母君の待つ館へ帰ったことを思い出す。

 奇妙な安堵とともに暗闇へ墜落し、そして、その先は......。


                  ◆


 ハツセが目蓋まぶたを見開いた瞬間、薄暗い空間が視界に映った。

 ややあって、視界が落ち着いてくると、そこが黴臭かびくさい土牢の中だと解かった。

 格子の向こうには、姫神衆らしき恰好かっこうの者がいて、じっとこちらを窺っている。ハツセが上体を起こした途端、目覚めに気づいたのか、その者はそそくさと何処かへ立ち去った。


 やがて、姿を現したのは、ハツセにとって憎むべき仇敵の一人だった。

 黒装束の男は牢の前に立ち、死人のように蒼褪あおざめた口でにたりと笑った。

「ご気分は如何ですかな? ハツセのみことようやく、お目醒めになられたようで私も安堵いたしました。祝着に存じます」

「今は……何時なんどきだ……」

 と、からからの喉を絞って、ハツセは云った。

 まが漁火いさりびは、格子の隙間に腕を掛け、

山代やましろの戦から数えると、早や、八日になります。まこと、歳月の過ぎ行く様は風の如きもの。それにしても、随分、長い事、眠っておられましたな」

わしは……何故、このような場所に」

「我らがお連れ申したのです。この牢は、照り日の神の宮のまします御山みやまの麓、前宮さきのみやに程近い地下の場所。謀叛の疑いにより囚われしハツセの尊に、その罪の裁きを待つ間、ゆるりとお過ごし戴く為にご用意を」

「皆はどうなったのだ……。同じように獄へ繋がれたのか……」

「皆と云うのは、みこととともに皇宮に弓引きし、逆臣のお歴々の事ですかな? 一々、お教えする義理は無いが、是非にも、とみことが手をついて頼まれるなら考えましょう」


 ハツセは重いからだを引き摺り、湿った土の上に平伏した。漁火いさりび相手に耐えがたい屈辱ではあったが、この状況では他にどうしようもない。

「仕方ありませぬな。そうまで頭を下げられては」

 と、漁火いさりびは満足げに云い、

「何をお聞きになりたいのです? お答え出来る範囲で答えましょう」

「我らの軍は、どうなったのだ……」

「おや。憶えておられませぬか? 衝撃の為に、頭を打たれましたかな。……ともあれ、あの場にいた反宮廷の兵らは、我らの姫道きどうにて木っ端微塵。僅かな例外を除き、皆、死に絶えましてございます」

「ま、まさか……つぶら殿も?」

 漁火いさりびは無言で首肯しゅこうした。

「黒彦殿や眉輪殿も……?」

葛城円かずらぎのつぶらの館は灰燼かいじんに帰しました故、そこに潜みし者どもも同じ運命をば」

「き、姫神衆は……いったい何をやったのだ」

姫道きどう――則ち、神の宮のお力の一部をまで」

「なに……」

みこともご覧になったでしょう。神の宮のお力は、到底、只人ただびと(常人)の及ぶところでありませぬ。たとえ、万の軍が攻め来ても、姫道きどうの前にいたずらに命を差し出すのみ」

 そう云って、漁火いさりびは首を振った。

「た、武彦は……葛城武彦かずらぎのたけひこは如何した?」

みことの側近の者でしたかな。その者は、辛うじて一命を取り留めたようです。尊を背負ってあの場を逃れようとしました故、捕えて別の牢に繋いであります。戦地にて尊の傍に控えし故、我らの放った業火を免れたのでしょう」

 ハツセは僅かに安堵を覚えつつ、

「どういうことだ……?」

「まだお解りになりませぬか。何故、ハツセのみことがこうして生きておられるのか。みことをお救いせんが為、御身おんみの周囲に限り、この漁火いさりび火塞ふさぎの術を宛てたが故です」

「何故……」

「無論、媛帝の君の御聖慮により」

「え、媛帝の……」

「以前にも申し上げたでしょう。ハツセのみことは大事な御方だ、と。戦場などで散ってもらっては我らが困る。命を捨てる前に、まだ、やって戴かねばならぬ事があるのです」


 物問いたげなハツセに向かい、漁火いさりびおもむろに首を振り、

「これ以上、私の口からは申し上げられませぬ。残りは裁きの場にて問われるが宜しかろう」

 地下を去ろうとする黒装束の背中に、ハツセはじっと目を凝らした。改めてしんの向きを探ろうとしたが、依然、何の色も見通せなかった。


 間もなく、辺りに静寂が戻り、ハツセは漁火の言葉を反芻した。

 黒彦、眉輪、葛城円かずらぎのつぶら、及びハツセ・葛城軍五百名はことごとく落命……。

 仄暗い土牢の奥に潜む深淵の闇が、自分を呼んだような気がした。


                  ◆


 裁きの日取りはおよそ半月後、それまでは留め置きとなる――食事を運んできた牢番に、ハツセはそう聞かされていた。

 しかし、意識が回復した三日後には、数名の姫神衆が現れて牢の鍵を開けた。彼らはハツセを地下から出し、網板に乗せて担ぎ上げて、何処かへ向かった。その間、首まで布袋を頭に被せられていた為、行き先は見当もつかなかった。


 布袋を外された時、記憶にある風景がハツセの視界に入った。都の外れにあるすすきが丘――解部ときのべ(訴訟・裁判を行う機関)が盟神探湯くかたちなどを催し、咎人とがびとの裁定を行う場所だった。罪有りとされた者はその場で罰を課される為、公の処刑場をも兼ねていた。

 竹編みの杭で括られた広い囲いの東端に、物部一族と思われる解部ときのべの面々が、床几しょうぎを並べて腰掛けている。その向かいの地面には、わら座が延べられ、両腕を縛られた六名の者が横並びに坐している。彼らは皆、布袋を頭に被せられおり、裁きを待つ側の立場である事が察せられた。


 自分もその末席へ、と推測していたハツセだが、結局、解部ときのべの面々の背後に設けられた仮床さずき(桟敷)の上へ案内された。やや小高いそこから眺めた時、囲いの外側に立つ十数名の廷臣に気づいた。処断や刑の執行に過誤がないか監察する検分役だろう。そのうちの一人――遠目にもそれと判る巨体は、物部目もののべのめに違いない。表情までは判別できないが、どんな思いで見ているのだろう、とハツセは考えた。

 間もなく、太刀を持った男が藁座の脇へ立ち、ハツセはようやくく状況を理解した。藁座に座る男たちは、既に解部ときのべの裁きを受け、有罪を宣告された者のようだ。彼らの処刑が終わった後、今度は自分が同じ過程を辿るのだろう。


 処刑人の手により、藁座の男らは布袋を被ったまま次々と斬首された。皆、断末魔の悲鳴を上げて死んでいったが、最後の一名だけは声を上げなかった。歯を食い縛り、唇をきつく結び、一音たりとも漏らすまいと決めている風だった。処刑人の太刀が一閃した後、首が地に落ちる音だけがごとりと響いた。そこに並々ならぬ覚悟を見てとり、ハツセは得も言われぬ感心を覚えた。


 ――愈々いよいよわしの番だな。


 腹を括ったその時であった。

 解部ときのべの役人が床几を立ち、見分役の方へ大音声だいおんじょうで叫んだ。

「先の山代やましろの乱の首謀者一味につき、公正なる裁きにて、死一等(死罪)が相応と定めし上、滞りなく誅罰を果たしたる次第。方々かたがたとくとご検分下され」

 直後、処刑人が最後にねた首を拾い、布袋を剥ぎ取って宙にかざした。精気を失い、人形のようにも映るそれは、紛れもなくハツセの側近の顔をしていた。

「これなる葛城武彦かずらぎたけひこは、乱にて討ち死にせし同族の葛城円かずらぎのつぶらはかり、国を覆さんと企てたる重罪の徒なり。主君・ハツセのみことを密かに裏切り、その側近たる立場を利用してみことの兵をそそのかし、皇宮に弓引かせたる罪、断じて許すべからず。郎党五名ともどもここに斬首せしものなり」


 ハツセは仮床さずきを降りて駆け寄ろうとしたが、解部ときのべの者らに囲まれて叶わなかった。立ち塞がる彼らの肩越しに、処刑人らが藁座の遺体をそれぞれに担ぎ、何処かに運び去る様を眺めているのみだった。

 やがて、解部ときのべの取り纏め役と思われる長身の男が現れて云った。

「ハツセのみこと。大儀でございましたな。これにて御身おんみの潔白は証明されました故、ご自分の館にお戻り戴いて結構です。しかしながら、臣下の悪心を見落としたる責につき、宮廷よりご下問があるやも知れませぬ。追って、お召しがあるまで、当面、御住処にて謹慎なされるが宜しいか、と」

「解からぬ……いったい、どうなっているのだ……」

 と、ハツセは力なく呟いた。

しばらく、囚われの身であられた故、事情をご存知無いのも無理からぬ事」

 男は同情するように頷いて、

「先の乱につき、当初、みことの仕業と疑われた為、牢内にお留め申し、裁きを設ける話になっていたのですが……。一昨日、意識を取り戻した葛城勝彦かずらぎのたけひこが、すべて自分と甥・つぶらの企てにて、主君の与り知らぬ事と白状し――その計画の委細まで喋りました故、首謀者と認め本日の運びとなった次第。事情も解からぬ間に身を囚われた尊にすれば、狐狸に化かされたような気であったかと。真、お気の毒と申すしかございません」

「何だと……。では、武彦たけひこが首謀者を名乗り出た為、首を斬って収めた……と申すのか?」

「仔細は後日改めてお報せいたしますゆえ、本日はこのままお帰り下され。我らも次の職務があります故、これにて失礼」

 云い終わるや、男は身を翻し、解部ときのべの者らも後に続いて姿を消した。

 

 代わりに、別の者が寄って来て、地にくずおれたハツセを見下ろした。

「……命拾いをしたな」

 と、物部目もののべは声を抑えて云った。

葛城武彦かずらぎのたけひこの言が無ければ、貴殿の首もここへ転がっていた。無様と云うより他に無いな」

 ハツセは虚ろな目で相手を見上げた。既に言い返す気力も残っていない。

「情けない姿よ。ともあれ、良い家臣を持って幸せと思うが良い。主君の為に自らの命を投げ打つなど、簡単と見えても、中々出来る事ではない。貴殿のような主には過ぎた家臣だ」

「その事……武彦から聞いたのか……?」

「聞かずとも解る。あの男が主君に背き、勝手な振舞いをするとは考えられぬ。主君の命を救わんが為、偽りの告白をしたのであろう」

「では……何故、解部ときのべの者らに云わなかった? 云えば、武彦は助かったやも知れぬのに……」

「愚かなり、ハツセの尊。家臣の願いがまだ判らぬのか?」

 物部目もののべのめは退屈げに首を振り、

「いずれにせよ、思い知ったであろう。皇宮に弓引くとはこう云う事だ。力も無く、理想のみを振りかざす者は、その理想とともに散り果てるが世の理よ。折角、命を永らえた上は、その事を重々見つめ直すが良い」

 

 物部目もののべのめが立ち去った後、ハツセは無人のすすきが丘に立ち尽くしていた。

 世のすべてが色を失って見え、からだは木像と化したように動かなかった。

 それでも、尚、現実を見つめようとした。自分はすべてを失ったのだ――と。

 互いに認め合い、死地を共にした学友たちも。

 ともに宮廷を正さんと誓った盟友も。

 同じ乳で育ち、兄弟同然に付き合い、陰に日向に自分を支えてくれた武彦さえも。

 皆、この世を去り、己独りが生き残ったのだ――と。

 不思議と涙は出なかった。悲しみも怒りも湧かなかった。

 ただ、何もかも遠い夢のように思われた。


 どれ程の時が過ぎた頃か、西の空に茜色が差し始めた。

 棒のような足を牛歩の如く進め、ハツセはとぼとぼと丘を降った。

 間もなく、麓に程近い道の上で、一人の女と鉢合わせた。

 ハツセの手前で足を止めると、彼女は聞き覚えのある声でささやいた。

「正しき流れへ戻る事は出来なかったのですね」

 その顔をハツセは知っていた。近淡海ちかつおうみほとりで出会った少女。則ち、丹波の海部あまべ氏の娘・『トヨ』姫だった。

 返す言葉も無くたたずんでいるハツセに、彼女は静かに云った。

「ハツセの尊、真に遺憾と申す他ありません。貴方様が皇宮の乱れを正して下さるかと期待していたのですが」

「何故……貴女がここに……」

「ご自分を見失われぬようにと、あの折、申し上げましたのに。何故、天賦てんぷまなこを蔑ろにし、一時の感情に任せて動かれたのです? 皇宮の変異を知りながら大倭を離れ、久比岐くびきへ向かわれた事。黒彦王子ご兄弟を逃す為、久比岐くびきの砦で謀り事を巡らせた事。出奔した眉輪王子を案じ、あれこれと策を弄された事。葛城円殿らを救わんと、山代の合戦に赴かれた事。すべて遠方より見ておりました。いずれも、愚かな選択と申さねばなりません。」

「皆、放っておけば良かった……そう云うのか……?」

 トヨは哀しげな微笑を頬に寄せて、

「放っておかずに、良かれと動かれた結果、その者たちは如何なりましたか? 世にとって真に大切な事は何か――貴方様がその見極めを怠った故、誰も救われぬ結末と相成ったのです。それを成す眼をお持ちでありながら、です。無念でございます」

「真に大切な事……」

 ハツセの頭に武彦の言葉が浮かんだ。


 ――私には、何より王子が大事ゆえ、他の事は二の次なのです。


 自身にとって最も大切なものを、武彦はよく知っていたのかも知れない。

 それ故、当然のように命を投げ打ち、見事にそれを守り抜いてみせた。

 比べて、己はどうだろう。真に大切なものを、解って動いた事があるだろうか。トヨ姫の云うように、その場の思い付きで運命を選び続けた結果、守るべきものを何一つ守れなかったではないか……。


 ——何処までも王子に付き従い、生死を共にせんと望むだけです。


 皇宮に乗り込まんと誓った前夜、武彦はそう云った。

 だが、その武彦は独りで世を去り、もう二度と会うことは叶わない。

 兄と慕った男の笑みを胸に、ハツセは慟哭どうこくの渦に落ちていった。


                  ◆

 

 それから、ひと月余りが経った。

 あれ以来、ハツセは魂を失った抜け殻の如き体を抱え、自らの居館に引きこもっていた。病を理由に宮廷への出仕を断り、学寮へも顔を出さなかった。昼は只管ひたすら、部屋の天井を眺めて過ごし、夜は武彦の首が落ちる夢を見ては、己の叫び声に目を覚ます。その繰り返しだった。

 友も仲間もすべて戦場に消えた今、彼を心配して声を掛ける者もいなかった。一度だけ、物部目もののべのめの使いが訪ねてきたが、すぐに追い返させたので用件は解らず終いだ。厭味いやみでも伝えに来たのだろう、と一笑に付す余裕もなく、ただ、己独りの世界に浸り続けていた。


 ハツセが、ほとんどど死人同然の、無為な日々を送っているところへ、る時、宮廷よりお召しがあった。火急の用向きが生じた故、病を押して参内せよと云うのである。

 以前、解部ときのべの役人が云ったように、・葛城武彦の監督責任について、取り調べをすると云うのだろう――馬鹿らしく思ったハツセは、無視を決め込もうとした。その結果、自分の罪を問われる事になろうと構わない、と。しかし、事情を察した家臣らが慌てて支度を整え、主君を正装に着替えさせた。彼らは稚児を扱うようにハツセの手を引き、皇宮の門まで連れて行った。

 

 久方ぶりに訪れた皇宮は、一層、瘴気しょうきが色濃くなったようにハツセの目に映った。が、その事について何の焦燥も覚えなかった。万事どうでも良い。自分がすべて失ったように、この世の正義も何もかも失われてしまえば、いっそ清々する。ぼんやりと思いつつ、覚束ない足取りで廊下を進んだ。

 が、謁見の間の入り口へ立った時、その異様な雰囲気にはさすがに面食らった。部屋の左右にずらりと居並ぶ廷臣たちが、潰れた蟇蛙ひきがえるのように平伏し、部屋の最奥を拝している。日頃、尊大に振舞っている氷奴ひのなでさえ、白髪頭を床に擦り付けて、全身で崇敬と服従の念を表そうとしている。場全体に緊張の糸が張り詰め、息苦しささえ覚えるほどだった。


 彼らの畏怖は、一様に、最奥の壇上に吊られた竹簾たけすだれの、更に奥に鎮座する人影に向けられていた。顔を見通す事は出来ないが、多分、女性だろう。長い髪を床まで垂らしている。ハツセが呆然とその様子を観ていると、やがて、氷奴ひのなが平伏したまま首を振り向け、ささやき声で云った。

「ハツセの尊、控えよ。神代かみしろ(神の化身)様の御前おんまえなるぞ」

 同時に、手前の廷臣二人が素早く動き、ハツセの肩をつかんで這いつくばらせた。媛帝の君にございますぞ、尊――と、片方の男が離れ際に耳打ちしていった。ハツセは床に伏したまま、上目遣いに簾の方を眺めた。が、人影は置き人形かの如く動く気配が無かった。


「ハツセのみこと。急ぎのご昇殿、大儀でございます。本日は、神代かみしろの媛帝の君より、其処そこ(※ここではハツセ)に申し渡されたき儀ありとの ゆえ、かくお呼び立て申し上げました。かしこみて、御聖慮を傾聴なさいますように」

 と、竹簾の足下に坐した若い女が抑揚の無い声で云った。

 神の宮の女官らしいが、身形みなりからして高位の者とは思われない。媛帝に傍仕えし、そのお言葉を伝宣(上意を間接的に伝達)する役目の近侍の女だろう。ハツセが一層、頭を下げて恭順の意を示すと、女は淡々と続けた。

 

神代かみしろ様におかせられましては、穴穂大王あなほのおおきみの亡き後、統之皇すめるのみことの位がからのままでは、世の乱れの元ともなりかねぬ、といたくご心痛であらせられます。つきましては、年明け早々に、みこと践祚せんそ(即位)の儀礼を行います故、そのお心積もりで居られますよう。神代様の仰せにございます」

「せ、践祚せんそ? わ、わしに、大王になれと……?」

只今ただいま、申し上げた通りにございます」

 と、近侍の女はにべもなく答えた。

「そ、それは……」

 驚きの余り、ハツセが顔を上げると、簾の向こうの人影が微かに頷いたように見えた。ここに至って、緊張や畏怖以上に強力で禍々しい気が、場を支配している事に、彼はようやく気が付いた。岩を背負わされたように己の身が重くなり、最早、相手の心の向きを探る事さえできないのだ。

「し、しかし……余りに唐突な――」

 云い掛けたハツセを遮り、近侍の女は云った。

穴穂大王あなほのおおきみにおかれては、臣民の敬慕厚からざるところがあり、その御位みくらいに相応しからぬお振舞いがあったげに伝わっております。また、神代様のご意向にも必ずしも忠実ならず、勝手気儘にまつりごともてあそびし不徳の結果、諸家の怨嗟を数多あまた生ぜしめ、自ら身の滅びを招いたものと存じます。ハツセの尊には、御先代の悪習にならう事無く、統之皇すめるのみことの玉位に似付かわしい善きまつりごとをお執りになる事を、神代の君もお望みでございます。万事、励まれますように」

 それから、場に揃った廷臣たちに向かい、

「ご一同様もお聞き及びでございましょう。御聖慮が恙無つつがなく果たされますよう、各々、お努め下さいませ」

 廷臣は口々に隷従を叫び身を固くした。

 その後、近侍の女に退出を促され、ハツセは謁見の間を後にした。

 

 ——一体、どうなっているのだ……。一時は反逆の罪を問われたこのわしを、何故、穴穂大王の後釜に……。


 成り行きが掴めぬまま、よたよた廊下を歩いていると、氷奴ひのなが後を追ってきて云った。

「ハツセの尊、祝着至極よのう。これでやっと私も神の宮へ帰れまする。大王の代わりにまつりごとの采配を振るは、この老体には荷が勝ち過ぎた故、ひと安心じゃ。努々ゆめゆめ、媛帝の君のご期待を裏切ってはなりませぬぞ」

「ですが……わしは、このような体たらく。国を背負っていけるとは、到底――」

「なに。それ故、そなたが選ばれたのよ」

 老婆は黄ばんだ歯を剥き出して、

「心配する事はない。よろず、媛帝の君のお指図に従っておればそれで良い。余計な疑いを差し挟み、勝手を働かぬ限り、穴穂大王の如き末路を辿りはせぬ。どうか宜しくお頼み申しますぞ、傀儡くぐつの君」


                  ◆


 年明けの一日ついたち――。


 ひる践祚せんそ(即位)の儀礼を控えたハツセは、皇宮内にある大王の御座所にたたずみ、腕の中に黄金の冠帽をもてあそんでいた。

 かつて、彼が母に連れられて上京し、宮廷の年始の儀に参列した折、雄朝津間稚子宿禰大王おあさづまのわくごのすくねのおおきみが頭に戴いていたのと同じものである。あの時は、まるで太陽の欠片の如く煌めいていたが、今は硫黄色の瓦落多がらくたに見えた。

 古来より皇宮に伝わる神獣鏡を床に置き、冠帽を被った己の姿を映してみても、如何なる感慨も湧かなかった。あれ程望んでいた大王への即位も、悪い冗談としか思えない。治天の君とは名ばかりで、あの近侍の女同様、只々ただただ、媛帝の言葉を下達する人形と化すだけだろう。


 間もなく、側女そばめらが大挙して現れ、着付けやら宝飾合わせの準備が賑々にぎにぎしく始まる。

 その前にすべて終わらせよう、とハツセは考えた。

 懐から短刀を取り出し、さやを外して床へ放った。

 せめて、神の宮の犬に成り下がる前に自決し、死んだ者たちへ詫びる覚悟だった。

 柄に布を巻き付けて握り締め、首筋に刃を宛てて引こうとした。

 が、手元が狂い、刀を取り落としてしまった。

 金属の触れ合う音が響き、足下の神獣鏡の縁が欠けて飛散した。

 自刃さえ一人前に果たせぬのか――この上なく惨めな気分だった。


 今一度、と刀を拾い上げようとして、彼はふと気付いた。

 神獣鏡の縁に走った亀裂から、紙片らしきものの一端が覗いている。

 刀を脇へ置き、指で摘まんで引き摺り出すと、薄茶に変色した手簡が現れた。

 そこには、豆粒大の小文字で数十行の文面が記され、「大王おおきみ御名みなを授かりし へ書き遺すものなり」という書き出しで始まっていた。

 ただならぬ雰囲気を感じ取り、ハツセは貪るように読み進めた。


 ——大王は倭国の守護を司る国のかなめにして、決して我利我慾がりがよくを本位とする覇道の徒にあらず。世の安寧を願い、地の豊穣を祈り、民の窮乏を援け、父祖の霊験を敬い、謙譲を旨として天つ神々に仕える者なり。

 しかれども、かくの如き治天の大義につき、具現を妨げんとする者これあり。則ち、照り日の神の宮におわす神代かみしろの媛帝の君なり。神代の君は、よろず、人智及ばざる姫道の術を以って行い、たとえ、大軍を以って攻めるとも、神の宮より打ち払う事能あたわず。先ず、人の身で挑むは無謀の極みと心得るべし……。


 陰ながら手を尽くし、媛帝の君と暗闘を続けてきたが、間もなく、自分は姫道の力で正気を失い、怪物と成り果てるだろう――続きには、そのような内容が記されていた。それを妨げる道は最早ない、自分の命運はここまでのようだ、と。

 手簡を遺した人物を示す手掛かりは無いが、その内容は確かにハツセの胸を打った。紙片の汚れ具合を見るに、当代より遥か以前の大王の手に拠るものだろう。彼は媛帝の暴虐を退ける為に身を賭して戦い、志半ばにして斃れたのだ。

 ぶるぶると手を震わせつつ、ハツセは文面を目で追った。文字は最後の方へ進むほど乱れ、書き手の言い知れぬ無念を伝えてきた。後代の者に自らの意志を託す旨を述べた後、顔も知らぬ大王はこう結んでいた。


 ――願わくは、よこしま神代かみしろを照り日の神の宮より除き、倭国にまことの安寧をもたらさん事を。


 媛帝の意志を疑い背かぬ限り、穴穂大王のような非業の最期は避けられる。

 以前、氷奴ひのなにそう言われた事を思い出す。

 あるいは、前の穴穂大王あなほのおおきみも、この手簡の書き手と同様に神の宮に抗い、怪物に変えられたのかも知れぬ。そんな想像がハツセの脳裏を過った。


 ――わしは今日死んだ。


 血が滲む程に拳を握り締め、ハツセは己に言い聞かせた。


 —―死んだ者には心が無い。心が無ければ、媛帝の命を聞き入れる事にも苦しむまい。その非道を見逃す事にも躊躇ためらいを覚えまい。只管ひたすらに、己を殺し、どこまでも、媚びへつらい、時至るまで耐え忍ぶ。余人の目に見るも無残と映ろうとも、心ある者に不義の徒とそしられようとも、一向に構わぬ。泥を啜ってでも生き永らえる。そうして……何時の日か、媛帝を討つ。


 ハツセは、元通り、手簡を神獣鏡に収めると、短刀とともに物入れの裏に隠した。

 それから、上衣かみぎぬを正し、黄金の冠帽を戴き、側女どもの到着を静かに待った。


                  ◆


 ――同日の午後。

 践祚せんその儀礼は滞りなく終わり、吉備の王子・ハツセのみことは、大泊瀬幼武大王おおはつせわかたけるのおおきみとして新たな統之皇すめるのみことに即位した。

 後の世に云う、雄略天皇の誕生である。


 日本書紀に『大悪天皇』と記され、その治世で暴虐の限りを尽くしたとされる大王の秘めたる真意は、数年後、一匹の化生けしょうが皇宮を訪れるまで、誰にも明かされる事はなかった。




【第一部 了】

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