第一部 其の十
丹波を発って十四日目——。
ハツセの率いる皇都軍は、
行く先々で、沿道の豪族らの軍が参陣した為、兵の総数は二千に迫ろうとしていた。この時の大倭の都の総人口が、部民や奴婢・女子供まで加えて五万に届かなかった事を考えると、並々ならぬ大軍勢と云えるだろう。豪族の多くは、宮廷の意向に従うべく加勢した者たちだが、中には、
「ここなるは、都の
ややあってから、白彦軍の下士官と思しき
「取り次がせて何とするつもりか。大王の命にて、我らを滅ぼしに来たのだろう」
ハツセは大仰に首を振ってみせ、
「王子と御対面が叶うなら、兵を差し向けるつもりはない。何故、皇宮に弓引かれたか、その訳を知りたいのだ」
「兵を差し向けるつもりはない……だと?」
嘲るように甲冑の男は云い、
「しからば、何の為に、これ程の大軍を連れて参られた。それとも、大軍はこちらの見違えで、背後に控えし者たちは、皆、
砦内に笑い声が反響するのが聞こえた。
敵兵の数は三百を下るまい——とハツセは踏んだ。
やがて、別の甲冑の武人が身を乗り出し、不信を
「
その強硬な態度は、先の折の
前回の失敗を噛み締めつつ、ハツセは大声で叫び返した。
「王子に出向いて戴く必要は無い。
「何だと……」
甲冑の武人たちが怯んだように見え、砦の内部もざわつき始めた。数の上で圧倒的優勢を誇る皇都軍の大将が、虎穴に
やがて、甲冑の男らの背後から、ひと
「我らを愚弄する気か。単身、乗り込むと見せかけて、開門した途端、兵に急襲させる
「されば、兵は後方へ引き下げておこう。それなら、問題あるまい」
しかし、相手は尚も疑って、
「
「どうあっても、話し合いに応じぬと申されるのか。兄弟ともども、この地で果てるおつもりか?」
「何っ」
「そこなるは、
暫く、考える素振りを見せた後、長身の男は静かに云った。
「……申し出を叶えたきところなれど、もう間もなく、日没となろう。合議の場を設けるには遅過ぎる。明朝、改めて参られよ」
ハツセは承知の旨を告げ、砦の前を離れた。
自軍に戻ると、すぐに武彦が駆け寄って来て、
「首尾は如何でございました?」
ハツセは
「明日、話し合いの場を持つ事になった。日の出とともに砦へ赴く」
「敵地へ乗り込まれると云うのですか? なれば、私も同道します」
「そなたの勝手にするが良い。しかし、単身で行くと申した故、先方が入れぬと云えばそれまでだぞ」
ハツセは北の平野部まで兵を下げさせ、そこで野営を張る事に決めた。
◆
夜明け前、ハツセは
夢の中でも、彼女の美しさは格別であった。
「——何処へ向かわれるのです、ハツセの尊」
直後、ハツセは目を覚まし、床に横たわったまま物思いに
あの夜、
それでも、あの邂逅が錯覚であったとは、ハツセには、到底、信じられなかった。
この戦が終わって大倭へ帰る折、もう一度、丹波へ寄り、
そんな風に考えていた。
◆
日が昇ると、ハツセは武彦を伴い、八釣白彦軍が立て籠る砦へ向かった。
昨日、話し合いを約束してくれた長身の男は、果たして、白彦王子本人であった。
ハツセたちは、一旦、砦の中に迎え入れられた後、白彦に連れられて砦の裏門を抜け出し、尾根伝いに移動して山深くの滝まで行った。
白彦に云われた通り、滝の麓に迫り出した赤松の裏へ回ったところ、正面からでは人目につかぬ奥まった場所に、洞穴の狭い入り口があった。ハツセは突き当たりまで進んで行き、藁の山の上に
「やはり、来ていたか、黒彦殿。そうではないかと思っていた」
「何故、こんな事になってしもうたのじゃ……」
黒彦は泣きながら歩み寄って来て、
「どうして、謀叛人扱いされねばならんのか。……頼む。どうか、討たんでくれ、ハツセの君……」
ハツセは友の肩に掌を置き、
「そう心配せずとも好い。元より、討つつもりなら、兵を連れて参っておる。
「話と云うて、何を話せば良いのか……」
黒彦は、顔のすべての部位から汁を滴らせ、
「大王が兄上を討とうとしている、と云う報せが三野から届いた故、途方に暮れておったのじゃ……。そこへ、今度は、皇宮より使者が参り、兄上を
「誰ぞに相談しなかったのか?」
「相談しようとて、相手がおらんではないか……。眉輪殿は、
「弟がお話し出来るのはその程度でしょう」
と、白彦が背後から云った。
「黒彦は、私を頼り、
ハツセは白彦を振り返って云った。
「その
すると、白彦はぎりりと歯噛みして、
「
「なに……?」
「先頃の、
「無論、聞き及んでおります。が、あれは、質の悪い風聞に過ぎぬものと……」
「当初は、私もそう考えていました」
白彦は首を横に振り、
「
「そ、そんな……」
ハツセは二の句が継げず、
「私が云うのも難だが——我が妻は、三野でも指折りの麗人として知られている。都の噂にも度々昇った故、恐らく、大王の耳にも……。しかし、いくら、大王が色好みの方とて、
白彦は舌打ちを響かせ、
「数日後、私の従兄弟である三野国王の宮へ、大王の使者が参ったらしいのです。八釣白彦王子に謀叛の疑いがある故、取り押さえて皇宮へ差し出せ——と。三野国王から報せを受けた私は、兵を集めて北へ逃げる事に決めたのです」
「まさか、そのような事情であったとは……」
聞いていた内容とまるで違う、とハツセは思った。
今の話が真実なら、これは、三野国王子の兄弟による反乱でなく、大王の横暴が引き起こした騒動と云う事になる。白彦や黒彦は元より、兵を差し出した諸国の豪族らさえ、皇宮側の茶番に付き合わされた被害者と云う訳だ。
——ひょっとすると、これと同じようなやり方で、
例の影の怪物の事を含めて、ハツセは、自分の考えを語る事にした。
話の後、黒彦が怯えた表情で、
「
「
「砦の最奥の一室です」
と、白彦が代わりに答えた。
「私が
「王の死の秘密とは何です?」
と、ハツセが訊いた。
「皇宮に住む化け物の話じゃ……」
と、黒彦が身を震わせながら、
「今のそなたの話とよく似ている。影の如き化け物が
「その化け物が、穴穂大王と入れ替わっているとすれば、大王の一連の暴虐な為さり
武彦の言葉に、ハツセは頷いて、
「それが真実なら、事はこれだけで収まらぬだろう。政は乱れ、国は荒廃の途を辿るやも……。白彦殿、黒彦殿のご助力を得て、大王がお変わりになった原因を突き止める必要があるだろう」
白彦は賛同を口にした上で、
「是非にも、と云いたいところだが。我ら兄弟は、身動きの取れぬ身。この窮地を脱さぬ事には、お手伝いしようにも出来ませぬ」
「では、
と、ハツセが云った。
武彦は心配げに主君の顔を覗き、
「故意に逃がすと云うのですか? 露見すれば、今度は、我らが謀反人として追われますぞ」
「ひとつ策があるのだ。皆に、
ハツセの説明が終わった後、武彦は腕組みして云った。
「……成程。
「
黒彦が直ぐに同意した。
暫しの間、白彦は無言でいたが、やがて、渋い顔をして、
「なかなかの軍略とは思うが……ひとつだけ、問題がある。万一、ハツセ殿が打合せ通りに動かなかった場合、我らの軍は一網打尽、と云う事です」
「この期に及んで、我が主君をお疑いになるのか?」
と、武彦が眉を
「無論、ハツセ殿の人柄を信じたいが……土壇場で魔が差すと云う事もある。私の決断次第で、兵たちの命を脅かしかねんと思えば、易々と承諾する訳には——」
「何を迷いますのじゃ、兄上」
と、黒彦は赤い
「ハツセの君は決して裏切らぬ。その事は、私が保証する。どうせ、砦に籠っていても、いずれは討たれるのじゃ。兄上も、ひとつ、我が友に賭けてくだされ」
◆
翌日の朝。二千の兵を誇る皇都軍は、遂に、砦攻めを決断した。
山を背に、北向きに立つ砦の正面を、東から西へ孤を描くように包囲したのである。無論、布陣の内訳は、総大将・ハツセの意向に拠るものであった。
白彦軍も応戦の備えを見せ、暫く、睨み合いが続いたが、砦の東側の
数の上で圧倒的な敵軍に対して、白彦軍は思いのほか善戦した。崖を登り、柵を乗り越えようとする皇都軍に、雨霰の矢を降り注ぎ、岩石を落として苦しめた。一進一退の攻防は、半日以上に渡った。
そのまま、膠着状態が続くかに思われたが、日が傾き始めた頃、戦況が一変した。八釣白彦王子が砦軍の半数を率い、裏門から打って出たからである。
電光石火で飛び出した彼らは、敵方の虚を突き、砦を包囲する軍の西端に襲い掛かった。そこには、これまで目立った動きを見せていなかった、皇都軍の本隊が布陣していた。則ち、ハツセが都より連れてきた二百名の直属軍である。
「よし、これで良いだろう」
自陣を目指して迫る敵兵を見て、ハツセは
後は、白彦軍と二、三度、矛を合わせた上、本隊を後方へ退けば良い。白彦たちは、西へ突き進んで包囲網を抜け出し、散り散りに
「王子の考えが、図に当たりましたな」
と、隣で武彦が笑った。
機を狙って、白彦軍がハツセの軍に襲い掛かり、乱戦を偽装して脱出する——それこそ、洞穴でハツセが提案した策であった。
「まだ。油断は禁物だぞ」
と、云いながら、ハツセは己の頬が緩むのを感じた。
だが……。
策の成就が確実と思われた直後、戦場の遥か後方で異変が起こった。
轟雷の如き地響きとともに、大軍勢が現れたのである。
彼らは、土煙を上げながら行進し、真っ直ぐに砦の方角へ向かってきた。
その先鋒に立ち、風の早さで突っ込んでくる一団に、ハツセは見覚えがあった。
則ち、赤毛馬に乗った巨漢を指揮官とする、物部の精鋭騎馬軍である。
——
しかし、驚いている余裕はなかった。
援軍が合流してくれば、ハツセの策が破れる可能性は格段に高まるだろう。
余人ならいざ知らず、あの
「……王子、如何されるのです?」
と、武彦が緊迫した表情で云った。
「ぐ……このままでは、不味いぞ……」
気が逸るハツセを尻目に、物部軍は猛然と迫って来た。
【続】
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