第一部 其の十

 丹波を発って十四日目——。

 ハツセの率いる皇都軍は、伊彌頭いみづ(富山東部付近)の国境くにざかいを越え、愈々いよいよ久比岐くびき国へ入った。


 行く先々で、沿道の豪族らの軍が参陣した為、兵の総数は二千に迫ろうとしていた。この時の大倭の都の総人口が、部民や奴婢・女子供まで加えて五万に届かなかった事を考えると、並々ならぬ大軍勢と云えるだろう。豪族の多くは、宮廷の意向に従うべく加勢した者たちだが、中には、大鷦鷯おおさざき大王を慕って駆け付ける者もあり、ハツセは、改めて亡父の信望の厚さを痛感した。


 八釣白彦やつりのしろひこ王子の軍と接触したのは、その翌日の事である。久比岐くびき国の東部に位置する扇状地には、同地の宮仕みやつこ(造)が居を構えているが、王子の軍はその南にある山地に砦を築き、籠城の構えを見せていた。ハツセは、砦を囲む空濠からぼりの手前で進軍を止めると、単身、進み出て呼ばわった。


「ここなるは、都の三大帥さんのたいすいにして、吉備国の王子・ハツセなり。此度こたびの一件につき、お伺いしたき儀あり、はるばる都より訪ねて参った。至急、八釣白彦やつりのしろひこ王子にお取り次ぎ願いたい」

 ややあってから、白彦軍の下士官と思しき甲冑かっちゅう姿の男が、砦内の物見台から顔を出し、

「取り次がせて何とするつもりか。大王の命にて、我らを滅ぼしに来たのだろう」

 ハツセは大仰に首を振ってみせ、

「王子と御対面が叶うなら、兵を差し向けるつもりはない。何故、皇宮に弓引かれたか、その訳を知りたいのだ」

「兵を差し向けるつもりはない……だと?」

 嘲るように甲冑の男は云い、

「しからば、何の為に、これ程の大軍を連れて参られた。それとも、大軍はこちらの見違えで、背後に控えし者たちは、皆、案山子かかしの兵か?」

 砦内に笑い声が反響するのが聞こえた。

 敵兵の数は三百を下るまい——とハツセは踏んだ。

 やがて、別の甲冑の武人が身を乗り出し、不信をあらわにして叫んだ。

みやこ勢のやり方は知れているわ。話し合いを持ち掛け、出向いたところを騙し討ちするつもりであろう」

 その強硬な態度は、先の折の大前宿禰おおまえのすくねを想起させた。如何にかたき同士とは云え、元来、彼らとハツセの間に遺恨がある訳ではない。聞く耳持たぬと云わんばかりの喧嘩腰には、正直、せぬものがあった。

 前回の失敗を噛み締めつつ、ハツセは大声で叫び返した。

「王子に出向いて戴く必要は無い。わし独りで城内へ参る故、心配には及ばぬ」

「何だと……」

 甲冑の武人たちが怯んだように見え、砦の内部もざわつき始めた。数の上で圧倒的優勢を誇る皇都軍の大将が、虎穴にるが如き申し出をしたのが不可解に映ったらしい。


 やがて、甲冑の男らの背後から、ひときわ立派な鎧の長身の男が現れて云った。

「我らを愚弄する気か。単身、乗り込むと見せかけて、開門した途端、兵に急襲させる目論見もくろみであろう。易々とその手に乗るものか」

「されば、兵は後方へ引き下げておこう。それなら、問題あるまい」

 しかし、相手は尚も疑って、

数多あまたの兵を従えながら、まだ、姦計をろうせんとするのか。小賢しいぞ、ハツセの尊。勝ちを得たくば、いくさを挑んで来るが良い」

「どうあっても、話し合いに応じぬと申されるのか。兄弟ともども、この地で果てるおつもりか?」

「何っ」

「そこなるは、三野みの国の王子・八釣白彦やつりのしろひこ殿とお見受けする。弟君がこちらへ参っている事は、既に皇宮の知るところ。合わせて追討すべし、との御定ごじょうが下っているのだ。しかし、わしは黒彦殿の友である故、謂われ無きとがにて貴殿らを滅ぼしたくない。どうしても、貴殿が話し合いを拒むと云うなら、せめて、黒彦殿に会わせてくだされ」

 暫く、考える素振りを見せた後、長身の男は静かに云った。

「……申し出を叶えたきところなれど、もう間もなく、日没となろう。合議の場を設けるには遅過ぎる。明朝、改めて参られよ」

 ハツセは承知の旨を告げ、砦の前を離れた。

 

 自軍に戻ると、すぐに武彦が駆け寄って来て、

「首尾は如何でございました?」

 ハツセはおもむろに頷いた。

「明日、話し合いの場を持つ事になった。日の出とともに砦へ赴く」

「敵地へ乗り込まれると云うのですか? なれば、私も同道します」

「そなたの勝手にするが良い。しかし、単身で行くと申した故、先方が入れぬと云えばそれまでだぞ」

 ハツセは北の平野部まで兵を下げさせ、そこで野営を張る事に決めた。

 

                  ◆


 夜明け前、ハツセは竹野たかの姫の夢を見た。

 夢の中でも、彼女の美しさは格別であった。

 なぎの海の如き静かな微笑を湛えて、

「——何処へ向かわれるのです、ハツセの尊」


 直後、ハツセは目を覚まし、床に横たわったまま物思いにふけった。

 あの夜、海部あまべ氏の館の外で会ったきり、姫と顔を合わせる事は無かった。丹波を発つ前、志理都彦しりつひこに尋ねてみたが、まだ鮎捕りから戻らぬ、と云う返答がかえってきた。

 それでも、あの邂逅が錯覚であったとは、ハツセには、到底、信じられなかった。

 この戦が終わって大倭へ帰る折、もう一度、丹波へ寄り、天豊姫あまのとよひめの再来と云われる「トヨ」殿に会ってみよう。

 そんな風に考えていた。


                  ◆


 日が昇ると、ハツセは武彦を伴い、八釣白彦軍が立て籠る砦へ向かった。

 昨日、話し合いを約束してくれた長身の男は、果たして、白彦王子本人であった。

 ハツセたちは、一旦、砦の中に迎え入れられた後、白彦に連れられて砦の裏門を抜け出し、尾根伝いに移動して山深くの滝まで行った。

 白彦に云われた通り、滝の麓に迫り出した赤松の裏へ回ったところ、正面からでは人目につかぬ奥まった場所に、洞穴の狭い入り口があった。ハツセは突き当たりまで進んで行き、藁の山の上にしている友を発見した。


「やはり、来ていたか、黒彦殿。そうではないかと思っていた」

「何故、こんな事になってしもうたのじゃ……」

 黒彦は泣きながら歩み寄って来て、

「どうして、謀叛人扱いされねばならんのか。……頼む。どうか、討たんでくれ、ハツセの君……」

 ハツセは友の肩に掌を置き、

「そう心配せずとも好い。元より、討つつもりなら、兵を連れて参っておる。武彦たけひこのみ伴ってここへ来たのは、そなたや兄君と話をするためだ」

「話と云うて、何を話せば良いのか……」

 黒彦は、顔のすべての部位から汁を滴らせ、

「大王が兄上を討とうとしている、と云う報せが三野から届いた故、途方に暮れておったのじゃ……。そこへ、今度は、皇宮より使者が参り、兄上をかくまっているであろう、追討に協力せねば容赦せぬ……と。如何すれば良いか解らなくなり、気付けば、都から逃げ出して……」

「誰ぞに相談しなかったのか?」

「相談しようとて、相手がおらんではないか……。眉輪殿は、二親ふたおや様の事で酷く気落ちしておるし……、ハツセの君は、出征された後であったし……」


「弟がお話し出来るのはその程度でしょう」

 と、白彦が背後から云った。

「黒彦は、私を頼り、久比岐くびきへ逃げて参っただけ。事の経緯いきさつを話したのも、この洞穴へ身を寄せた後の事ですから」

 ハツセは白彦を振り返って云った。

「その経緯いきさつと云うのを、わしにもお聞かせ願いたい。そも、大王に弓引かんと、故国三野で兵をお集めになったのは何故です?」

 すると、白彦はぎりりと歯噛みして、

穴穂大王あなほのおおきみが、強いて我が妻を奪わんとされたからです」

「なに……?」

「先頃の、大草香おおくさか王の一件は、ハツセの尊もご存知でしょう。中磯なかし王妃を我がものにせんが為、大王が大草香おおくさか王を害したと云う話を」

「無論、聞き及んでおります。が、あれは、質の悪い風聞に過ぎぬものと……」

「当初は、私もそう考えていました」

 白彦は首を横に振り、

穴穂大王あなほのおおきみのお人柄は存じておる故、そのような無体をされる方ではないはず——と。ところが、その後、間もなくして、私の館へ大王の使者が参り、こう云ったのです。貴殿の妻・橘大郎女たちばなのおおいらつめを宮廷へ差し出すべし。断れば、皇宮への反逆と見做みなす」

「そ、そんな……」

 ハツセは二の句が継げず、只々ただただ、白彦の言葉に耳を傾けた。

「私が云うのも難だが——我が妻は、三野でも指折りの麗人として知られている。都の噂にも度々昇った故、恐らく、大王の耳にも……。しかし、いくら、大王が色好みの方とて、斯様かような理不尽を申されるとは信じ難い。何かの間違いであろうと思った故、私は大王の使者にこう云ったのです。こちらから大倭の都へ出向き、直々にお話を伺いたい旨、大王に伝えて欲しい、と。ところが——」

 白彦は舌打ちを響かせ、

「数日後、私の従兄弟である三野国王の宮へ、大王の使者が参ったらしいのです。八釣白彦王子に謀叛の疑いがある故、取り押さえて皇宮へ差し出せ——と。三野国王から報せを受けた私は、兵を集めて北へ逃げる事に決めたのです」


「まさか、そのような事情であったとは……」

 聞いていた内容とまるで違う、とハツセは思った。

 今の話が真実なら、これは、三野国王子の兄弟による反乱でなく、大王の横暴が引き起こした騒動と云う事になる。白彦や黒彦は元より、兵を差し出した諸国の豪族らさえ、皇宮側の茶番に付き合わされた被害者と云う訳だ。


 ——ひょっとすると、これと同じようなやり方で、穴穂大王あなほのおおきみは、各地の美姫をさらっていたのだろうか。あるいは、皇宮の離れの館で見た裸の女どもも、そうして、連れて来られたのかも知れぬ。


 例の影の怪物の事を含めて、ハツセは、自分の考えを語る事にした。

 話の後、黒彦が怯えた表情で、

根使主ねのおみ殿の話と同じじゃ……」

根使主ねのおみとは、大草香おおくさか王を害したと疑われる根使主ねのおみ殿か。今は、何処におられるのだ?」

「砦の最奥の一室です」

 と、白彦が代わりに答えた。 

「私が久比岐くびきへ向かっている途中、傘下へ加わりたいと申して合流して参ったのです。大草香おおくさか王を殺したのは自分ではない。王の死の秘密を知った所為で皇宮に追われている。匿ってもらいたい——と」

「王の死の秘密とは何です?」

 と、ハツセが訊いた。

「皇宮に住む化け物の話じゃ……」

 と、黒彦が身を震わせながら、

「今のそなたの話とよく似ている。影の如き化け物が大草香おおくさか王に取り憑き、呪い殺すのを見たと云うのじゃ……。その為か、根使主ねのおみ殿は、段々、頭が可笑しくなり、砦の奥に籠ったまま出て来なくなったのじゃ……」

「その化け物が、穴穂大王と入れ替わっているとすれば、大王の一連の暴虐な為さりよう——則ち、白彦王子に関する事も、大草香王の一件についても、合点の行くところがありますな」

 武彦の言葉に、ハツセは頷いて、

「それが真実なら、事はこれだけで収まらぬだろう。政は乱れ、国は荒廃の途を辿るやも……。白彦殿、黒彦殿のご助力を得て、大王がお変わりになった原因を突き止める必要があるだろう」

 白彦は賛同を口にした上で、

「是非にも、と云いたいところだが。我ら兄弟は、身動きの取れぬ身。この窮地を脱さぬ事には、お手伝いしようにも出来ませぬ」

「では、わしがお二人の脱出を助けします」

 と、ハツセが云った。

 武彦は心配げに主君の顔を覗き、

「故意に逃がすと云うのですか? 露見すれば、今度は、我らが謀反人として追われますぞ」

「ひとつ策があるのだ。皆に、わしの考えを聞いてもらいたい——」


 ハツセの説明が終わった後、武彦は腕組みして云った。

「……成程。手筈てはず通りに行けば、上手く運ぶやも知れませんな」

乾坤一擲けっこんいってきの策じゃが、背に腹は代えられぬ」

 黒彦が直ぐに同意した。

 暫しの間、白彦は無言でいたが、やがて、渋い顔をして、

「なかなかの軍略とは思うが……ひとつだけ、問題がある。万一、ハツセ殿が打合せ通りに動かなかった場合、我らの軍は一網打尽、と云う事です」

「この期に及んで、我が主君をお疑いになるのか?」

 と、武彦が眉をひそめて云った。

「無論、ハツセ殿の人柄を信じたいが……土壇場で魔が差すと云う事もある。私の決断次第で、兵たちの命を脅かしかねんと思えば、易々と承諾する訳には——」

「何を迷いますのじゃ、兄上」

 と、黒彦は赤いまなこを擦りつつ、

「ハツセの君は決して裏切らぬ。その事は、私が保証する。どうせ、砦に籠っていても、いずれは討たれるのじゃ。兄上も、ひとつ、我が友に賭けてくだされ」


                  ◆


 翌日の朝。二千の兵を誇る皇都軍は、遂に、砦攻めを決断した。

 山を背に、北向きに立つ砦の正面を、東から西へ孤を描くように包囲したのである。無論、布陣の内訳は、総大将・ハツセの意向に拠るものであった。

 白彦軍も応戦の備えを見せ、暫く、睨み合いが続いたが、砦の東側の防禦ぼうぎょが弱いと見るや、皇宮軍はその方面へ戦力を集中させ、一気に攻城を開始した。

 数の上で圧倒的な敵軍に対して、白彦軍は思いのほか善戦した。崖を登り、柵を乗り越えようとする皇都軍に、雨霰の矢を降り注ぎ、岩石を落として苦しめた。一進一退の攻防は、半日以上に渡った。


 そのまま、膠着状態が続くかに思われたが、日が傾き始めた頃、戦況が一変した。八釣白彦王子が砦軍の半数を率い、裏門から打って出たからである。

 電光石火で飛び出した彼らは、敵方の虚を突き、砦を包囲する軍の西端に襲い掛かった。そこには、これまで目立った動きを見せていなかった、皇都軍の本隊が布陣していた。則ち、ハツセが都より連れてきた二百名の直属軍である。

「よし、これで良いだろう」

 自陣を目指して迫る敵兵を見て、ハツセは快哉かいさいを叫んだ。

 後は、白彦軍と二、三度、矛を合わせた上、本隊を後方へ退けば良い。白彦たちは、西へ突き進んで包囲網を抜け出し、散り散りに久比岐くびきの山々へ逃げ込んで行方を眩ますだろう。

「王子の考えが、図に当たりましたな」

 と、隣で武彦が笑った。

 機を狙って、白彦軍がハツセの軍に襲い掛かり、乱戦を偽装して脱出する——それこそ、洞穴でハツセが提案した策であった。

「まだ。油断は禁物だぞ」

 と、云いながら、ハツセは己の頬が緩むのを感じた。

 

 だが……。

 策の成就が確実と思われた直後、戦場の遥か後方で異変が起こった。

 轟雷の如き地響きとともに、大軍勢が現れたのである。

 彼らは、土煙を上げながら行進し、真っ直ぐに砦の方角へ向かってきた。

 その先鋒に立ち、風の早さで突っ込んでくる一団に、ハツセは見覚えがあった。

 則ち、赤毛馬に乗った巨漢を指揮官とする、物部の精鋭騎馬軍である。


 ——莫迦ばかな。もう久比岐くびきまでやって来たのか。物部の家は、数多あまたの軍馬を抱えているとは云え、遠征の主力は徒士かちである筈なのに……いくら何でも早過ぎる。


 しかし、驚いている余裕はなかった。

 援軍が合流してくれば、ハツセの策が破れる可能性は格段に高まるだろう。

 余人ならいざ知らず、物部目もののべのめが、白彦たちの脱出を見逃すとは考えられなかった。

「……王子、如何されるのです?」

 と、武彦が緊迫した表情で云った。

「ぐ……このままでは、不味いぞ……」

 気が逸るハツセを尻目に、物部軍は猛然と迫って来た。




【続】

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