第一部 其の九
この地の豪族・
古来、沿海地方の
海部氏の当代の
独り
夕刻過ぎに海部氏の居館へ到着すると、先に着いていたハツセの兵たちは狂喜乱舞の
「王子、何処で何をしておられたのですかっ」
涙を流しながら怒鳴る武彦を
その夜、
「
「トヨ殿、と云うのは
と、ハツセは訊いた。
「これは失礼。尊の
「
「我が一族の父祖に、眉目秀麗で名を馳せた同名の姫がおり、幼き頃より、神がかりの力を示したと云いましてな。それ故、神の恵み
余程、大事に思っているのだろう。娘自慢に勤しむ当主代行の姿に、ハツセは微笑を
「それは是非とも、お会いしてみたかった。
「実は、病床にある私の父が、
「姫君お独りで出歩かれて、危なくはないのですか?」
「あれに限って、その心配は無用かと。ま、そう遠くへは行かぬでしょうから、お発ちの前には戻るやも知れませぬ」
その夜、離れの御殿に宿を与えられたハツセは、皇都を発って以来、久方ぶりの安穏な眠りに就いた。
◆
参陣の要請について、
とは云え、軍備に二日かかるとの事で、当面、ハツセたちは海部氏の居館に滞在する話になった。この先、強行軍になる為、英気を養っておくよう自分の兵に云い、ハツセ自身も
大倭の都より早馬の使者が着いたのは、翌日の
使者はハツセ宛ての書状を携えており、送り主は
使者を労い、都へ送り返した後で、ハツセはぼそりと云った。
「少しばかり、急いだ方が良いかも知れぬ」
「なんぞ、困り事でも
と、近くに控えていた武彦が訊ねた。
「
「ああ、あの赤鬼の如き豪傑の——」
と、武彦は遠い目をしながら、
「あれが敵に回れば地獄でしょうが……。味方となれば頼もしいではありませんか」
ハツセは、ほうっと嘆息し、
「問題は白彦王子の事よ。出来る事なら、
「確かに」武彦は
「幸い、物部殿の軍はまだ川内におり、別の乱を鎮めておる
「では、道を急がれますか?」
「海部殿の執事殿の話に拠ると、明日の
「承知しました。早速、知らせて参りましょう」
武彦が出て行くのと入れ替わりに、
「何やら、慌ただしい空気でしたが……都のお使者は何と言って参られました?」
「近々、援軍を寄越すそうです」
と、ハツセは簡潔に云った。
「それは朗報ですな。
「神を祀るも大事な務めと存じます。兵をお貸し下さるだけで十分です」
「都と申せば、
今は化け物をしておられます——とも云えず、ハツセは曖昧な返事をした。
大王の変容した姿があの影の怪物なのか。
それとも、怪物が大王と入れ替わっているのか。
実際のところは、彼自身にも解らない。後者が真実だとした場合、本物の大王は何処へ行かれたのだろう……。
◆
そうした諸事に心を惑わされた為か、その夜は、まったく寝付けなかった。
ハツセは、密かに寝所を抜け出し、周囲を散策する事にした。
門を
外郭の西南の角まで来た時、猫と思しき小ぶりな影が、行く手の藪へ入って行くのが目に映った。
興味を示し、傍まで駆け寄ろうとした時、何者かがハツセを突き飛ばした。
地に手をついた彼は、瞬時に体勢を整え、横っ飛びに跳んで館側へ移動した。
背を外塀に着けて守り、腰に
夜陰に乗じた奇襲と視て、第二撃に備えたのである。
しかし、物陰から現れたのは、華やかな薄紅色の衣を
富貴な
その女が
「あっ」
篝火に照らし出された白い顔に、ハツセは思わず声を上げた。
言葉を失い、呆然と眺めていると、女は小さく頷き、
「藪の先に進まれてはなりません。その向こうは池でございます」
「池だと……」
「ええ。危うく落ち込まれるところでした。
ハツセは半ば放心しつつ、
「そなたは、あの時の……?」
「申し上げましたでしょう。縁あらば、また、お会いするやも、と」
「しかし……いったい、何故、ここへ?」
少女はくすくす笑って云った。
「ここが
「では……そなたが、
「
にこりと笑った彼女は、
ハツセの二つ歳下らしいが、同い年と云われても信じただろう。
その美貌は——例えば、
「成程、貴女がトヨ殿であったのか……」
姫は
「まあ。その呼び名をご存知なのですか。父上ったら、御客人にまで仰るなんて」
「トヨと呼ばれるのがお嫌いですか?」
「嫌いとは申しませぬが、時によっては、不都合が。うんざりする事もございます」
ハツセは妙に共感して、
「そのお気持ち、解る気がします。
「それは、何故でございましょう?」
「何とも座りが悪いと云うか。勝手に別人の名を宛てられ、喜ぶ者はおらぬか、と」
すると、竹野姫は微笑して云った。
「面白いお話でございますが、私が云うのは少し違います。
「は……?」
その時、少女の瞳が煌めき、
天豊姫と呼ばれた先代の竹野姫には、神がかりの力があった——
その姫に瓜二つと云う眼前の少女も、同様に、神がかりだと云うのか? 姫の云った、別人でない、とは如何なる意味なのか?
「……私の事は宜しいのです」
と、閉じた目蓋の向こうで姫が云った。
「
「な、何を……」
いまだ闇中にいるハツセに向かい、姫の声は、一層、険しく響いた。
「何故、
「あ、貴女に何が判りますか……」
父王の事を云われ、ハツセは苛立ちを覚えた。自分より年下の少女が、生前の父を知っている筈もない。
「いずれ、何もかもお解りになる事でしょう」
と、姫の声は悲しげな響きを湛えて云った。
「その時に至って、悔恨の念に駆られぬよう、今宵の事を、深く胸に刻みおき下さいまし」
それきり、沈黙が場を覆った。
——
自分自身を疑った。
闇に視線を走らせる彼の耳に、少女の声が鈴の音のように木霊していた。
◆
翌日の午後、ハツセは予定通りに丹波を発った。
道行きは概ね順調であり、そのまま進めば、十余日で
再び、都からの
——
【続】
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