第一部 其の九

 山代やましろ国の上に位置する丹波たんば(後の丹波・丹後)は、内陸に数多あまたの山々を擁す一方、国土の北側を海に面しており、海山の幸に恵まれた豊かな土地である。こと、海浜地域には、磯漁いそりょう漁撈ぎょろう生業なりわいとする海人あまの者らが集って暮らし、大倭やまとの都とは別種の活気があった。


 この地の豪族・海部あまべ氏と云うのは、謂わば、彼らの棟梁とうりょう筋に当たる家柄であった。同地の漁業や水産加工業を取り仕切る一方で、海人らの生活を庇護し、海上の安全や豊漁を祈願する祭祀の一切を引き受けていた。

 古来、沿海地方の縣主あがたぬし(地方領主)の家系であったと云うが、前大王の時、いくさに功があり、『あたえ』のかばねを与えられるとともに、丹波全体を監察する宮仕みやつこ(造)に任じられた。

 海部氏の当代の氏上うじのかみ(当主)は、本年、八十有余歳になる建稲種たけいなだねと云う人物だったが、老齢の為、胸を患って寝所を離れられず、内実、息子の志理都彦しりつひこが政務を代行していた。

 

 独りはぐれ、山中に迷い込んでいたハツセは、湖畔で会った少女の案内を信じて道を進み、自らの軍に一日半遅れる形で丹波へ入った。

 夕刻過ぎに海部氏の居館へ到着すると、先に着いていたハツセの兵たちは狂喜乱舞のていを示した。主の不在に、相当、気を揉んだのだろう。こと、武彦などはその極みだった。

「王子、何処で何をしておられたのですかっ」

 涙を流しながら怒鳴る武彦をかわし、ハツセは、出迎えに現れた海部氏の面々に挨拶した。当主代理の海部志理都彦あまべのしりつひこは、絵に描いたように鷹揚おうような人物で、遅参の顛末てんまつを聞いてころころと笑い、その後、取り乱した兵たちを宥める側に回った。


 その夜、志理都彦しりつひこは宴を開き、ハツセらを大いにもてなした。高坏たかつきや丸底の壺に盛られた色とりどりの料理は、その材料を産出する土地の豊かさとともに、海部あまべ氏の権勢を物語っているかに見えた。

 志理都彦しりつひこは、ハツセの隣に坐し、その盃に酒を注ぎながら云った。


酌女しゃくめなどはべらせ、みこと無聊ぶりょうをお慰めしたきところなれど、生憎あいにく、祭事の為に、皆、出払っておりましてな。せめて、トヨでもこの場に居れば、少しなりと宴に華やぎを添えましたものを……」

「トヨ殿、と云うのは何方どなたです?」

 と、ハツセは訊いた。

「これは失礼。尊の御前おんまえなるに、つい、その名で呼んでしもうた。トヨと云うのは、本年、十四になる我が娘・竹野たかの姫の事です」

成程なるほど。姫君の呼び名でしたか」

「我が一族の父祖に、眉目秀麗で名を馳せた同名の姫がおり、幼き頃より、神がかりの力を示したと云いましてな。それ故、神の恵みたもうたたからと云う意味で、天豊姫あめのとよひめと呼ばれていたらしいのです。親の私が申すのも恥ずかしいが、娘・竹野は器量に恵まれており……先の竹野姫に重なるものがあると周囲が申し、トヨの名で呼ばれるようになった次第」

 余程、大事に思っているのだろう。娘自慢に勤しむ当主代行の姿に、ハツセは微笑をこぼし、

「それは是非とも、お会いしてみたかった。折悪おりあしくご不在とは残念です」

「実は、病床にある私の父が、あゆが食べたいなどと騒ぎましてな。祖父思いの ゆえ、自分が山へ行って鮎を捕えてくると申し、一昨日、出かけたきり帰らぬのです」

「姫君お独りで出歩かれて、危なくはないのですか?」

「あれに限って、その心配は無用かと。ま、そう遠くへは行かぬでしょうから、お発ちの前には戻るやも知れませぬ」

 

 その夜、離れの御殿に宿を与えられたハツセは、皇都を発って以来、久方ぶりの安穏な眠りに就いた。


                  ◆


 参陣の要請について、海部志理都彦あまべのしりつひこは快く承諾した。

 とは云え、軍備に二日かかるとの事で、当面、ハツセたちは海部氏の居館に滞在する話になった。この先、強行軍になる為、英気を養っておくよう自分の兵に云い、ハツセ自身も肉躰にくたいの休息に努めた。


 大倭の都より早馬の使者が着いたのは、翌日のひる前の事である。

 使者はハツセ宛ての書状を携えており、送り主は穴穂大王あなほのおおきみと記してあったが、内容を読むと、神の宮の女官・氷奴ひのなからのものと察せられた。

 使者を労い、都へ送り返した後で、ハツセはぼそりと云った。


「少しばかり、急いだ方が良いかも知れぬ」

「なんぞ、困り事でも出来しゅったいしましたか?」

 と、近くに控えていた武彦が訊ねた。

八釣白彦やつりのしろひこ王子追討の為に、大倭やまとより増援を送る旨、しらせてきた。都の警護を務める大帥たいすいらの軍を糾合し、遣わす旨書いてあるが、大将は物部目もののべのめ殿だと云う」

「ああ、あの赤鬼の如き豪傑の——」

 と、武彦は遠い目をしながら、

「あれが敵に回れば地獄でしょうが……。味方となれば頼もしいではありませんか」

 ハツセは、ほうっと嘆息し、

「問題は白彦王子の事よ。出来る事なら、わしは王子と対座して話がしたい。何を以って、逆心有りとされたかも知らぬうちに、王命が故と追討するのは我が意に沿わぬ。たとえ、御諚ごじょう(上意)であろうとも、事情に納得して戦いたいのだ。しかし……物部目もののべのめ殿が参ったら、有無を云わせず王子を討ち滅ぼしてしまうだろう。その事につき案じておるのだ」

「確かに」武彦は首肯しゅこうして、「様子が目に浮かぶようですな」

「幸い、物部殿の軍はまだ川内におり、別の乱を鎮めておる最中さなかと云う。三、四日で川内を発ち、合流を急ぐ——とある故、久比岐くびきへ着くのに半月近くはかかろうと思う。先んじて久比岐くびきに入り、白彦王子に会っておかねば、二度と機会は無いかも知れぬ」

「では、道を急がれますか?」

「海部殿の執事殿の話に拠ると、明日のひるまでには、戦の備えが整う見通しと云う。出立は、明後日みょうごにちの朝のつもりでいたが、明日の昼過ぎに発とうと思う。その旨、兵たちにも伝えてくれぬか?」

「承知しました。早速、知らせて参りましょう」


 武彦が出て行くのと入れ替わりに、志理都彦しりつひこがハツセの元へ現れた。ご機嫌伺いの口上を述べてから、

「何やら、慌ただしい空気でしたが……都のお使者は何と言って参られました?」

「近々、援軍を寄越すそうです」

 と、ハツセは簡潔に云った。

「それは朗報ですな。みことと我らの軍に、都の援軍が加われば、一時の乱など立ちどころに収まりましょう。海神を祀る祭礼の儀がなければ、私も同道したのですが……」

「神を祀るも大事な務めと存じます。兵をお貸し下さるだけで十分です」

「都と申せば、穴穂大王あなほのおおきみは、ご清祥にてあらせられますかな? 践祚せんその儀以来、お目通りの機会を得ぬまま、打ち過ごしておりますが」

 今は化け物をしておられます——とも云えず、ハツセは曖昧な返事をした。

 大王の変容した姿があの影の怪物なのか。

 それとも、怪物が大王と入れ替わっているのか。

 実際のところは、彼自身にも解らない。後者が真実だとした場合、本物の大王は何処へ行かれたのだろう……。

 志理都彦しりつひこが立ち去った後も、尚、ハツセはその事を考えていた。


                  ◆


 そうした諸事に心を惑わされた為か、その夜は、まったく寝付けなかった。

 ハツセは、密かに寝所を抜け出し、周囲を散策する事にした。

 門をくぐり、館の敷地を出ると、土塀沿いに点々と並ぶ篝籠かがりかごの炎を頼りに歩いた。

 外郭の西南の角まで来た時、猫と思しき小ぶりな影が、行く手の藪へ入って行くのが目に映った。

 興味を示し、傍まで駆け寄ろうとした時、何者かがハツセを突き飛ばした。

 地に手をついた彼は、瞬時に体勢を整え、横っ飛びに跳んで館側へ移動した。

 背を外塀に着けて守り、腰にいた小刀を抜いてはすに構える。

 夜陰に乗じた奇襲と視て、第二撃に備えたのである。


 しかし、物陰から現れたのは、華やかな薄紅色の衣をまとった女だった。

 富貴な恰好かっこうから察するに、海部氏の血縁の者であろう。

 その女がおもむろに歩を進め、正面に立った時——。

「あっ」

 篝火に照らし出された白い顔に、ハツセは思わず声を上げた。

 身形みなりや髪結いの仕方は変わっているが、淡海あわみ国で会った少女に瓜二つだったのである。

 言葉を失い、呆然と眺めていると、女は小さく頷き、

「藪の先に進まれてはなりません。その向こうは池でございます」

「池だと……」

「ええ。危うく落ち込まれるところでした。御服みふくを濡らさずに済んで、本当に善うございました。ハツセの尊」


 ハツセは半ば放心しつつ、

「そなたは、あの時の……?」

「申し上げましたでしょう。縁あらば、また、お会いするやも、と」

「しかし……いったい、何故、ここへ?」

 少女はくすくす笑って云った。

「ここがわたくしの家ですもの。貴方様にお会いした時は、祖父の頼みを聞き、近淡海ちかつあわうみへ鮎を捕りに行っていたのです」

「では……そなたが、海辺あまべ殿の——」

志理都彦しりつひこが娘、竹野たかのと申します。先日は、薪刈まきがりの子などと嘘を申し上げた事、どうか、お許し下さいまし」

 にこりと笑った彼女は、淡海あわみで見た時より大人びて見えた。

 ハツセの二つ歳下らしいが、同い年と云われても信じただろう。

 その美貌は——例えば、衣通姫そとおりひめのような——人形めいた美ではなく、朝日に開花する蓮の蕾の如く、活き活きとしたものに感じられた。

「成程、貴女がトヨ殿であったのか……」

 志理都彦しりつひこが褒めそやすのも道理だ、とハツセは思った。

 姫は上衣うわぎぬの袖で口元を押さえ、

「まあ。その呼び名をご存知なのですか。父上ったら、御客人にまで仰るなんて」

「トヨと呼ばれるのがお嫌いですか?」

「嫌いとは申しませぬが、時によっては、不都合が。うんざりする事もございます」

 ハツセは妙に共感して、

「そのお気持ち、解る気がします。わしがまだ吉備で悪童をしていた頃、その荒っぽい振る舞いを揶揄やゆして『若武わかたける』などとはやされました。吉備王家の父祖たる倭武尊やまとたけるのみことが、若き頃に暴れ者であった事に因んでの事です。今となっては、上手い事を云うとも思うのだが、当時は、そう呼ばれるのが嫌で仕方なかった」

「それは、何故でございましょう?」

「何とも座りが悪いと云うか。勝手に別人の名を宛てられ、喜ぶ者はおらぬか、と」

 すると、竹野姫は微笑して云った。

「面白いお話でございますが、私が云うのは少し違います。みことの御言葉を変えて申すなら、別人でない故、困るのです」

「は……?」

 その時、少女の瞳が煌めき、燐火りんかの如く夜に光った。

 天豊姫と呼ばれた先代の竹野姫には、神がかりの力があった——志理都彦しりつひこの言葉がハツセの脳裏に蘇る。

 その姫に瓜二つと云う眼前の少女も、同様に、神がかりだと云うのか? 姫の云った、別人でない、とは如何なる意味なのか?

 咄嗟とっさしんの向きを探ったが、何の色も映らなかった。代わりに、まばゆい光が射かかるように両眼を焼き、ハツセは思わず視界を塞いだ。


「……私の事は宜しいのです」

 と、閉じた目蓋の向こうで姫が云った。

気懸きがかりは貴方様の事。それ故、ここに参ったのです。貴方様は、ご自分を見失っておられます。淡海おうみに迷い込まれたのもその証拠。今、何処におり、何処へ向かわんとされているかもお解りでない。嘆かわしき事と存じます」

「な、何を……」

 いまだ闇中にいるハツセに向かい、姫の声は、一層、険しく響いた。

「何故、大倭やまとをお出になったのです? 何故、久比岐くびきへ行こうとされるのです? 何故、その眼力で物事を見定め、悪しき流れに逆らおうとしないのです? 折角の天稟てんぴんを不意にして打ち過ごされるなら、亡き御父君もきっとお嘆きでしょう」

「あ、貴女に何が判りますか……」

 父王の事を云われ、ハツセは苛立ちを覚えた。自分より年下の少女が、生前の父を知っている筈もない。

「いずれ、何もかもお解りになる事でしょう」

 と、姫の声は悲しげな響きを湛えて云った。

「その時に至って、悔恨の念に駆られぬよう、今宵の事を、深く胸に刻みおき下さいまし」

 それきり、沈黙が場を覆った。

 しばらくくして、ハツセが視界を取り戻す頃、竹野姫の姿は何処にも見えなかった。

 

 ——只今ただいまの事は、すべて幻であったのか?

 

 自分自身を疑った。

 闇に視線を走らせる彼の耳に、少女の声が鈴の音のように木霊していた。


                  ◆


 翌日の午後、ハツセは予定通りに丹波を発った。

 海部あまべ氏の兵を傘下に加えた軍勢は、優に六百を越えている。

 道行きは概ね順調であり、そのまま進めば、十余日で久比岐くびきへ至る見通しであった。


 再び、都からのしらせを受け取ったのは、出立の二日後。

 若狭わかさより角鹿つぬが(福井付近)へ渡らんとしていた頃である。

 物部目もののべのめ軍の動向に関する続報かと思われたが、使者のもたらした書状の内容はまったく違った。

 

 ——坂合さかあいの黒彦王子、都より出奔しゅっぽんし、行き方知れず。兄、八釣白彦やつりのしろひこに合流し、謀叛に加担せんと企てたるおそれあり。合わせて追討すべし。




【続】

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