第一部 其の二

 宴の前夜。

 遂に入京を果たしたハツセらの一行は、大倭の外れに立つうじの公館に宿を求めた。特使である吉備宮仕きびのみやつこ職が常駐する吉備国の出先機関であり、宮廷と故国を繋ぐ外交の拠点である。

 明日に備える為、直ぐに床を延べさせて休まねば——そう考えて門をくぐったハツセは、館の中で予想外の人物に出迎えられた。上毛野某かみつけののなにがしと云うその男は、中級の貴族らしかったが、自ら皇宮の使者を名乗り、次のように述べた。

「何としても、本日中にハツセのみことにお会いしたく、こちらにてお待ちしておった次第。突然の事にて恐縮ですが、至急、統之皇すめるのみことのもとへお昇り戴きたいのです。明日の祝宴より前に、王子みこにお伝えしたき儀あり、との統之皇の御言葉でございます」


 ハツセはすっかり面食らって、

大王おおきみわしをお呼びと? それは、また、何故……」

 武彦も不審に思ったらしく、

「畏れながら、上毛野様。お話は今の今からと云う事でしょうか。既に深更の刻なれば、早や、おかみもお休みなのでは……。宴の前にお召しをと云う事なら、明朝一番にて昇殿つかまつるが最善と存じますが」

 しかし、上毛野卿は首を横に振った。

「いいえ、統之皇はまだ御就寝ではありませぬ。吉備の王子がお着きになったら、直ぐに我が宮へお連れ申せ。夜通し起きて待っておる故、何時なんどきでも構わぬ。そう仰せられて私を遣わされたのです」

「左様でしたか……」

 寝耳に水の話だが、叡慮えいりょ(皇帝の意志)と云われれば断れない。何事ならんと考えつつ、ハツセは上毛野卿について館を出た。

「では、ご家来衆はこちらにてお待ちを。宮までの道程は、我が手の者がお守りする故、ご案じめさるな」

 そのようにして、お供を断られた武彦は、心配で堪らないと云う顔で主君を見送った。その狼狽うろたえぶりが、幼子を奪られた母親のようであったので、ハツセは道々思い返して笑ってしまった。


                   ◆


 ハツセが上毛野卿に連れて行かれた先は、皇宮のある橿原かしはらではなく、それより少し北の石上穴穂宮いしがみのあなほのみやであった。橿原宮が国事を執り行う代々の宮城であるのに対し、後者は謂わば穴穂大王の私的な棲まいである。

 豪奢で広大な皇宮と比べ、石上穴穂宮の造りは至って素朴に映った。ハツセの父でもある大鷦鷯大王おおさざきのおおきみが民の貧困を憂い、居館の屋根の破れさえ修理させなかった、と云う逸話にいわれがあり、以来、大王の居館は簡素に建てるのが伝統になっていた。


 上毛野卿は門の前で待つと云い、ハツセは一人で宮の中へ進んだ。篝火かがりびの灯る前庭を通って昇殿すると、傍仕そばづかえの女官が現れて奥の一室へ通された。部屋の中には、白の麻衣あさぎぬを着た短躯で太鼓腹の人物が、床几しょうぎ(坐具)に腰掛けて来客を待っていた。

 これが本当に当代の大王なのか——というのが、最初にハツセの抱いた感想だった。五年前に拝した前大王の神々しい姿とはまるで違い、覇王の威厳と云うものを一切感じない。無冠で、寛いだ格好かっこうの所為もあるだろうが、大路ですれ違っても見過ごしそうである。


 大王とは、雲の上の存在にして、目も眩むような神がかりのお方と心得ていたが……、わしの思い違いであったのか……。


 落胆の念を振り払いつつ、ハツセは床に楽坐し一礼した。

「やあ、参られたか。吉備の御子殿。首を長くして待っていましたぞ」

 と、穴穂大王は妙に砕けた調子で云った。

「晴れがましき門出の前日に拝謁を賜り、恐悦に存じ奉ります」

 期待とは随分落差があったが、それでも、眼前の相手がやんごと無き方であるのは間違いない。慶賀の挨拶を述べた後、ハツセは床に額をつけて遅参を詫びた。

「ああ、これ、お手を上げられよ。礼節を論ずるなら、このような時刻に呼び立てた私こそ詫びねばならぬ。今宵は堅苦しい事は無しとしよう」

「はっ」

「憶えておらぬだろうが、実のところ、そなたと会うのは初めてではないのだ。五年前、前大王が年始の儀を催された折、私も川内国の氏上うじのかみ(氏族の代表者)として参列しておってな。母君に手を引かれて参ったそなたと、挨拶を交わした記憶がある。当時は、腕白な童子と云う印象であったが……このような偉丈夫に成長されて、亡きお父上もきっとお喜びであろう」

かたじけなき御言葉、痛み入ります」

 と、ハツセは身を固くして云った。

「ときに、当代の彦命ひこのみこと殿(現吉備国王)はご健勝か? 私が大王の位を継いでからは、まだ、一度もお目にかからぬが」

「叔父は病がちなれば、吉備を離れられずにおりますが、政務は恙無(つつがな)く務めておるやに存じます」

 ハツセの表情がわずかに曇るのを見て、穴穂大王はおもむろに手を振った。

「なに、ご参列無きことを責めているのではない。懐かしさから訊いたまでのこと。宴の事は、そなたが参られたのだから十分だ。……さて、もっと昔話に興じていたいが、夜も更け過ぎている故、本題に入ろう。今宵お越し願ったのは、どうしても訊いておきたい事があったからだ」

「はい。何なりとお尋ねを」

「そなた、大王になりたいか?」

「は……?」

 藪から棒の質問に、ハツセは答えられなかった。穴穂大王はやや語勢を強め、

「吉備の王子・ハツセのみことは 血気盛んにて、年若ながら勇猛目覚ましく、民の信望篤く、帝王の器を持つ人物と聞き及んでいる。されば、ゆくゆくは諸国の上に立ち、天下に号令する志を持っておるのかと思ってな」

「お、おかみ、何の戯れでございましょう……」

「戯れでこのような事は聞かぬ」

 穴穂大王の眼光が鋭く変わったのを見て、ハツセの額に冷たい汗が滲んだ。

 

 ——これは、手の込んだ意趣返しではなかろうか。我らの遅参について、やはり、大王は腹を立てておいでなのだ。宮廷への侮りから出た行動と見做みなされ、我が国を誅するおつもりかも知れぬ。

 

 決して、自分に弐心ふたごころ(叛意)のない旨、慌てて、ハツセが申し開きしようとしたところ……。

「そのような事で咎め立てする気はない」

 穴穂大王はさも可笑しそうにわらった。

「ただただ、そなたの心づもりを尋ねている。則ち——大倭やまと学寮がくりょうへ通う意志がありやなしや——と」

「学寮? そ、それは、つまり……」

「そなたは、今年で十六と聞く。年に不足はあるまいと思う。強いて事を進めるつもりはないが、明後日(みょうごにち)の朝までに返答をもらいたい」

 ハツセが真意を問うより前に、穴穂大王は床几しょうぎから立ち上がり、

「話はそれでお終いだ。長旅でお疲れのところ、お呼び立てしてすまなかった。宿所に戻り、ゆるりと休まれるが良い。明日は心行くまで楽しもう」

 云い残して、宮殿の奥へ消えていった。


                   ◆


 上毛野卿の家来に送られて氏の公館に戻ると、武彦が寝ずに主君を待っていた。

 ハツセの姿を認めるや、犬のように走り寄って来て、

王子みこ、統之皇は如何なる御用向きでしたか」

 と、引きった顔で云った。

 遅参の叱責を受けたのでは、と心配しているのだろう。ハツセは大仰にかぶりを振り、

「案ずるな。悪い話ではない」

「と云うと?」

「大倭の学寮に入ることを勧められただけだ」

「なんと」

 武彦は目を丸くして、

「学寮と申さば、行く末、大王と成られる方に帝学を施し、治世の心得を授ける為の施設。統之皇は、王子を日嗣御子ひつぎのみこ(皇太子)に立てると仰せなのですか?」

「儂(わし)も意表を突かれたが……あくまで、候補の一人に、と云う事だろう。実際、立太子(皇太子に擁立すること)に相応しい人物をお決めになるのは媛帝ヒメノミカドだと云うことは、そなたもよく存じていよう。学寮の教育を受けた後、素養無しと思われればそれまでの話だ」

「それで、王子は何とお答えになったのです?」

「祝宴明けに回答せよとのこと故、都の美酒でもたしなみながら考えるつもりだ」

「くれぐれも、酒に呑まれて、お忘れにならぬように」


 お定まりの小言を口にしつつ、内心、武彦は喜んでいた。この利かん気の主君の中に、早くから英雄の素養を見出していた彼としては、自らの思いが認められた気がしたのである。

 当代の大王は見る目をお持ちのようだ——そう口にしたい気持ちを堪えて、武彦は云った。


「お会いしてみて如何でした? どのようなお方か、道中、ずっと気にしておられたでしょう」

 ハツセは長い間を置いてから、

「なかなか、むつかしいな」

「むつかしい、とは?」

「前の雄朝津間稚子宿禰大王おあさづまわくごのすくねのおおきみ大王の如き、仰ぐだに、ひれ伏したくなるような覇気は感じなかった。しかし……お言葉を交わすうちに、また、別種の畏れを抱いたのだ。飄々として映る一方で、底知れぬところがあるようにも思える。間近に向かい合っていても、どのような気質のお人かまるで読めない」

「ほう。王子の眼を以てしても、ですか。珍しいこともあるものだ」


 ハツセの人を見抜く能力に並外れたものがある事を、武彦は長年の付き合いで知っていた。

 それは、洞察とか推量のような、経験に拠って磨かれる分別の力とはまったく違う。他人の感情が色付きの影となって視えたり、心の迷いが白い靄となって視えたりと云う、彼のみに具わる天稟てんぴんである。

 理屈を超えた不可思議な力だが、それが往々にして真実を言い当てるのだ。

「あのお方と話している間、雨降りの後の濁った川を眺めている心地がした」

 と、ハツセは云った。

「底が浅いのか、深いのか。水の中で何が起こっているのか。表面を眺めているだけでは見当もつかない」

                   ◆

 

 その二日後——。

 穴穂大王に拝謁したハツセは、申し出を受ける旨を伝えた。

 大王は大いに歓び、石上穴穂宮より南に位置する城郭を彼に与えた。

 これ以後、ハツセは皇宮に出仕するとともに、大倭の学寮に通い、次期大王候補としての教育を受ける事になったのである。




【続】

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