第一部 其の二
宴の前夜。
遂に入京を果たしたハツセらの一行は、大倭の外れに立つ
明日に備える為、直ぐに床を延べさせて休まねば——そう考えて門をくぐったハツセは、館の中で予想外の人物に出迎えられた。
「何としても、本日中にハツセの
ハツセはすっかり面食らって、
「
武彦も不審に思ったらしく、
「畏れながら、上毛野様。お話は今の今からと云う事でしょうか。既に深更の刻なれば、早や、お
しかし、上毛野卿は首を横に振った。
「いいえ、統之皇はまだ御就寝ではありませぬ。吉備の王子がお着きになったら、直ぐに我が宮へお連れ申せ。夜通し起きて待っておる故、
「左様でしたか……」
寝耳に水の話だが、
「では、ご家来衆はこちらにてお待ちを。宮までの道程は、我が手の者がお守りする故、ご案じめさるな」
そのようにして、お供を断られた武彦は、心配で堪らないと云う顔で主君を見送った。その
◆
ハツセが上毛野卿に連れて行かれた先は、皇宮のある
豪奢で広大な皇宮と比べ、石上穴穂宮の造りは至って素朴に映った。ハツセの父でもある
上毛野卿は門の前で待つと云い、ハツセは一人で宮の中へ進んだ。
これが本当に当代の大王なのか——というのが、最初にハツセの抱いた感想だった。五年前に拝した前大王の神々しい姿とはまるで違い、覇王の威厳と云うものを一切感じない。無冠で、寛いだ
大王とは、雲の上の存在にして、目も眩むような神がかりのお方と心得ていたが……、
落胆の念を振り払いつつ、ハツセは床に楽坐し一礼した。
「やあ、参られたか。吉備の御子殿。首を長くして待っていましたぞ」
と、穴穂大王は妙に砕けた調子で云った。
「晴れがましき門出の前日に拝謁を賜り、恐悦に存じ奉ります」
期待とは随分落差があったが、それでも、眼前の相手がやんごと無き方であるのは間違いない。慶賀の挨拶を述べた後、ハツセは床に額をつけて遅参を詫びた。
「ああ、これ、お手を上げられよ。礼節を論ずるなら、このような時刻に呼び立てた私こそ詫びねばならぬ。今宵は堅苦しい事は無しとしよう」
「はっ」
「憶えておらぬだろうが、実のところ、そなたと会うのは初めてではないのだ。五年前、前大王が年始の儀を催された折、私も川内国の
「
と、ハツセは身を固くして云った。
「ときに、当代の
「叔父は病がちなれば、吉備を離れられずにおりますが、政務は恙無(つつがな)く務めておるやに存じます」
ハツセの表情がわずかに曇るのを見て、穴穂大王は
「なに、ご参列無きことを責めているのではない。懐かしさから訊いたまでのこと。宴の事は、そなたが参られたのだから十分だ。……さて、もっと昔話に興じていたいが、夜も更け過ぎている故、本題に入ろう。今宵お越し願ったのは、どうしても訊いておきたい事があったからだ」
「はい。何なりとお尋ねを」
「そなた、大王になりたいか?」
「は……?」
藪から棒の質問に、ハツセは答えられなかった。穴穂大王はやや語勢を強め、
「吉備の王子・ハツセの
「お、お
「戯れでこのような事は聞かぬ」
穴穂大王の眼光が鋭く変わったのを見て、ハツセの額に冷たい汗が滲んだ。
——これは、手の込んだ意趣返しではなかろうか。我らの遅参について、やはり、大王は腹を立てておいでなのだ。宮廷への侮りから出た行動と
決して、自分に
「そのような事で咎め立てする気はない」
穴穂大王はさも可笑しそうに
「ただただ、そなたの心づもりを尋ねている。則ち——
「学寮? そ、それは、つまり……」
「そなたは、今年で十六と聞く。年に不足はあるまいと思う。強いて事を進めるつもりはないが、明後日(みょうごにち)の朝までに返答をもらいたい」
ハツセが真意を問うより前に、穴穂大王は
「話はそれでお終いだ。長旅でお疲れのところ、お呼び立てしてすまなかった。宿所に戻り、ゆるりと休まれるが良い。明日は心行くまで楽しもう」
云い残して、宮殿の奥へ消えていった。
◆
上毛野卿の家来に送られて氏の公館に戻ると、武彦が寝ずに主君を待っていた。
ハツセの姿を認めるや、犬のように走り寄って来て、
「
と、引き
遅参の叱責を受けたのでは、と心配しているのだろう。ハツセは大仰に
「案ずるな。悪い話ではない」
「と云うと?」
「大倭の学寮に入ることを勧められただけだ」
「なんと」
武彦は目を丸くして、
「学寮と申さば、行く末、大王と成られる方に帝学を施し、治世の心得を授ける為の施設。統之皇は、王子を
「儂(わし)も意表を突かれたが……あくまで、候補の一人に、と云う事だろう。実際、立太子(皇太子に擁立すること)に相応しい人物をお決めになるのは
「それで、王子は何とお答えになったのです?」
「祝宴明けに回答せよとのこと故、都の美酒でも
「くれぐれも、酒に呑まれて、お忘れにならぬように」
お定まりの小言を口にしつつ、内心、武彦は喜んでいた。この利かん気の主君の中に、早くから英雄の素養を見出していた彼としては、自らの思いが認められた気がしたのである。
当代の大王は見る目をお持ちのようだ——そう口にしたい気持ちを堪えて、武彦は云った。
「お会いしてみて如何でした? どのようなお方か、道中、ずっと気にしておられたでしょう」
ハツセは長い間を置いてから、
「なかなか、むつかしいな」
「むつかしい、とは?」
「前の
「ほう。王子の眼を以てしても、ですか。珍しいこともあるものだ」
ハツセの人を見抜く能力に並外れたものがある事を、武彦は長年の付き合いで知っていた。
それは、洞察とか推量のような、経験に拠って磨かれる分別の力とはまったく違う。他人の感情が色付きの影となって視えたり、心の迷いが白い靄となって視えたりと云う、彼のみに具わる
理屈を超えた不可思議な力だが、それが往々にして真実を言い当てるのだ。
「あのお方と話している間、雨降りの後の濁った川を眺めている心地がした」
と、ハツセは云った。
「底が浅いのか、深いのか。水の中で何が起こっているのか。表面を眺めているだけでは見当もつかない」
◆
その二日後——。
穴穂大王に拝謁したハツセは、申し出を受ける旨を伝えた。
大王は大いに歓び、石上穴穂宮より南に位置する城郭を彼に与えた。
これ以後、ハツセは皇宮に出仕するとともに、大倭の学寮に通い、次期大王候補としての教育を受ける事になったのである。
【続】
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