大和起つ ~五王の憂悶~

朱里井音多

すべての物語はここから始まり、やがて、ここへ帰ってくる。

熊野の森にて


 私の記憶違いが無いとするなら……。


 出雲国の王太子くにつぎのみこを称する若者が、私の前に現れたのは、大泊瀬幼武大王おおはつせわかたけるのおおきみの在位四年の秋であった。

 

 大陸流に云えば、北魏朝の太和四年にして南済朝の建元二年。朱利安ユリウス暦の四八〇年に相当する(本来、王が変わる度にうつろう人の世の暦法は好まないが、物語りする上での便宜を考え、言い添えておく)。則ち、この海洋国に暮らす人間たちが、まだ、『』を名乗っていた時代である。


 他方、我ら、この国の原生の神々——氏神うじのかみ産土神うぶしなのかみ九十九神つくもがみ御魂みたまもの、狐狸妖怪の類——は、既にその頃、未開の深山幽谷や人里離れた樹海の奥へこもるようになって久しかった。

 人間の仕業でなく、半島より渡り来た外妖どもに出生の地を追われた為だが、それについては改めて詳説しよう。ともあれ、私自身、戦いを避けて熊野国へ逃げ、那智の森の巨樹に憑依して隠棲を始めてから、百有余年の歳月が経っていた。


                 ◆


 その朝……。

 いつもの如く、那智大滝の水音で目を覚ました私は、全身全霊を以って新しい日の出を迎え入れた。

 樹木と同化してからというもの、森に注ぐ陽光は私にとって何にも勝る御馳走である。虫鳥の囀る中、幽玄の森の澄み切った空気に枝を広げ、土に張った根の先々に精気を巡らせると、身体からだの芯から生きる悦びが湧き上がってきた。


 そこへ、かさかさと木の葉の擦れる音が聞こえ、近くの藪から人間の男が現れた。

 

 私は全ての眼の蓋を閉じたまま、密かに男の様子を観察した(我らの眷属は姿形を観ずに気配を読むことを得意とする)。

 辺縁の地にそぐわぬ高貴な身なりの若者で、女の如く痩せた腰に大剣をいている。王都の旅人が迷い込んだかと静観していると、男は私の足元まで来て、蹲踞そんきょの構えをとった。

 それから、我が体幹みきの一番太い辺りを見つめ、大音声だいおんじょうで云った。


「お初にお目にかかる。これに参りしは出雲の王子みこにして、先の大王・大兄去来穂別尊おおえのいざほわけのみことが嫡子、磐坂市辺いわさかいちのへのオシハと申す。出雲国は意宇郡おうのこおりより、山野を踏み越え、はるばる来たる者なり。不躾ぶしつけながら、ご老樹殿。百百目隠どどめおぬと申す化生けしょうの宰相は貴殿なりや」


 また面倒な——と私は思った。誰に教えられたのか、私の事を知っているらしい。

 この地に移り住んで以降、人間の訪問を受けるのは初めてではないが、関わり合って良い思いをした覚えは一度もない。多くの場合、願掛けの神と取り違えてやって来て、勝手に落胆しては口汚い罵りを吐いて去っていく。迷惑千万な連中だ。ここは無視を決め込むのが最善と判断した。


 呼び掛けに答えずにいると、男の視線が宙をさまよい始めた。内心の戸惑いがありありと伝わる。私が押し黙っている限り、傍目には、ただの老木としか映らないのだから無理もない。

 尚も、凡庸な森の一樹を装っていると、甲高い笑いが場を駆け抜けた。


「まあ、隠翁いんのおう様ったら。知らぬ振りとは余りでございますわ。こう見えて、こちらの市辺のオシハ殿は、この鴉女からすめの連れ合いでございますのよ」

 耳慣れた女の声が間近で云った。

 気が付けば、藍の薄衣うすぎぬまとった美しい化生の娘が、男の隣に立っている。紅の差した唇をころころ綻ばせて、

「さ、もう、おとぼけは止めになさって。隠翁様」


「……おまえの手引きだったか、八咫烏やたがらす

 私は、渋々、旧友の名を呼び、

「最初から、そなたが出て参ればよいものを。いったい、何の真似だ」

 私の発した唸り声が木霊した瞬間、男の顔に緊張が走るのが見てとれた。

 一方、八咫烏は悪びれた様子もなく、

「ほんの戯れでございますわ」

「何故、ここへ人間を連れてきた? 外妖どもに知られたらどうするのだ」

「昔語りを聞きたい、とオシハ殿が申されますもので。我ら地祇ちのかみが滅びに瀕している訳を伝えれば、善い策を案じてくださるかも」

「伝えてもどうにもなるまい。人間ごときに何が出来る」

「オシハ殿はひと味違いますわよ」

 八咫烏はすっと口の端を吊り上げ、

「なにしろ、黄泉方様よもつかたさまのお墨付きがありますから」

伊賦夜いふや姫のご推薦だと? では、まさか、この男が——」


 驚嘆の余り、私は全ての眼蓋まぶたを一度に開いた。

 突如、巨樹の全身に咲いた百余の目玉を仰いで、出雲の王子がよろめき、後ろへ倒れた。

「な、なるほど……これが百百目どどめと謂われる由縁なのか」

 尻餅をつきながら、生意気な事を抜かしている。

 こんな男が、黄泉の姫君の御告げの人物だと云うのか。天に立ち込める暗雲を打ち払い、国の行く末を切り拓くと云う、ニニギの末裔の……。八咫烏が信じ込んでいる理由は解らないが、にわかに納得し難い話だった。


「それで——私にどうしろ、と?」私はいた。「不意に訪ねて参って昔語りしろとて、いったい、何を語ればいいのだ」

「先ずは、オシハ殿の御尋ねに、答えて差し上げて下さいませ」

 云いながら、八咫烏は男の方を見た。

 私は、地面に最も近い一枝の先端を顔形に変異させ、蛇のように伸長させて男の鼻先に突き出した。口に見立てたうろを上下に動かしつつ、

「何が訊きたいと申すのだ、出雲の王子。私の気が変わらぬうちに云うがいい」


 男は唖然としていたが、やがて、袴の土埃を払って立ち、蹲踞の姿勢に戻った。

おそれながら、百百目穏どどめおぬ殿。貴方の全身に開いた百の眼には、森羅万象、地の果てまで見渡す力があると聞き及びますが、それはまことですか」

 枝先の顔形を操ってうなずかせると、男は童子のように目を煌めかせた。

「おお。言い伝えは本当であったのですね。まさに人智及ばぬ精霊ちひの業。しかし、如何にして国中の出来事をお知りになるのですか。ここにある百の眼を以てしても、広大なる辺土の端々まで睨みを利かせるのは至難に思われますが」


「人に理解できるよう、話をするのはむつかしい」

 と、全身の目玉を瞬かせて私は云った。

「人間の心魂・精神は、肉躰にくたいの殻に閉じ籠り、己と他者を切り離して物事を掴もうとする。それでは、自らの耳目を頼って見聞する他ない。しかし、我が同属の心魂は皆、宙に放たれ、渾然として大気と混じり合っている。天地あめつちと一体が故、この場所に居ながらにして、別の地にいる仲間と意識を分かち合い、彼らの見聞を我がものとすることが出来る。なれば、私がこの世を見つめる眼差しは、この樹に咲いた百余の目玉に限らぬ。各地に散らばる同属千万の眼が、則ち、我が眼となり、地の果てまで見通してくれる。世の出来事の記憶などもまた同じ。千万の繋がりが無限の智識をもたらし得るのだ。解るか?」


「解ったような、解らぬような……」

 王子は不思議そうに首をひねった。

 巨躯のを前に、取り繕う余裕もないのか判らないが、率直な態度はかえって好感が持てる。傲岸不遜な人間が多い中、彼は幾分ましな類であるらしい。


「それで良い。我らと人間とは、存在の成り立ちからして違う。全て解ろうはずもない。我らは個々の存在に止まらず、もっと大きな流れの中で生きている。兎に角、私がひとたび望めば、この国の誕生から今に至る間に起こった事で、知り得ぬ事はひとつとしてない。大気に心魂を伸ばし、同属千万の意識に触れればいいのだ。百百目隠の名前の由来でもあるが……それを行うには、求める知識がどのようなものか、明白かつつまびらかでなくてはならない。一概に昔語りせよと云われても困る。なんじは歴史の何が知りたいのだ?」

「何故、このような時代になり果てたのか。経緯いきさつを知りとうございます」

「このような、とは?」

「いまの世は、風紀の乱れ甚だしく——為政の者どもは不正に勤しんで私腹を肥やし、民は重税と天災旱魃に喘いでおります。田畑は荒れ、人心は病み、国は滅びつつあるやに映ります。貴殿ら地祇ちのかみが辺境に潜むようになった訳とも、密に関りのある事と鴉女殿から聞いております。則ち、全ての元凶は『媛帝』なり、と」


 身を乗り出すようにして王子が云った。その隣で八咫烏が頷いている。

 私は、枝先の顔形をはすに傾げさせてから、

「如何にもそうだが——その因果を過不足なく語るには、膨大な時を必要とするぞ。私の話が終わる頃には、汝はとお以上も老けているだろう。なにしろ、三百年分の国史を語らせようというのだからな」

「十歳も……」

「こうしては如何いかがです?」

 と、逡巡する王子の脇から、八咫烏が助け舟を出した。

「倭国を形作る人間たちの五王国にて、各々、媛帝への叛意の芽が育ちつつあると聞き及びます。そのの歩みの物語りをお聞かせ下さい、隠翁様。それらを通して、オシハ殿の求める知識のほとんどは学べるでしょう」


 私は全身の目玉を男に注いで、「それで良いのか? 出雲の王子」

 すると、男は無言で頷いた。

「では、耳をそばだてて聞くがいい」

 心魂の腕を天に伸ばしながら私は云った。

「始まりは、穴穂大王あなほのおおきみの治世。今より七年の歳月を遡りし時代の事になる——」




【続】


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