第8話 なぞの難病に抗う者たち
キッチンで料理をする女性。金属的な輝きを放つ台と違って、天井の照明はやわらか。
まな板の上で、よどみなく動く包丁。ごぼうが細長く切りそろえられていく。
セミロングの髪は、後ろで一つに縛られている。エプロン姿。
「楽しいですね。
「なんで、そんな、喜々として料理ができるんだ。チホ」
いつもと同じ髪型。エプロン姿で、呆然と見つめている。着々と料理が完成していく。
部屋を区切るドアが基本的にない建物。
例外となるのは、トイレとお風呂。それに主の暮らす二階。現在、みんな一階にいる。ほとんどの場所がフローリング。
「休日に、
やや崩した七三分けの男性が、廊下から口を出した。
「あいつ、勝手に材料買っといて。トネヒサの責任だ!」
もじもじするウタコ。チホの料理を手伝い始めた。慣れた手つきで、しいたけの柄を切っていく。柄とは、キノコの傘の下についている円筒状の部位。栄養があるので、料理に使う。
廊下から見ているのは一人ではない。体つきがすこし貧相な男性も見ている。
「忘れてたよ。料理って、こんな風に作るものだったな」
チホとウタコに、いまは亡き母と昔の自分を重ね合わせていた。目を細める。
料理の完成まで見守ったケンジ。調理器具の片付けも見る。手伝わない。うしろに立つ男性に促されて、ダイニングルームへ入った。
床も壁も木のあたたかさに包まれた場所で、四人が席に着く。
テーブルに昼食が並ぶ。ごぼうと人参のサラダ。しいたけ肉詰め。鰆のてりやき。ソフトブレッド。
「白米は準備できませんでした。そもそも、炊飯器がありません」
「料理をする気がないからだ。しろ」
「うまくいってなかったら、ごめんなさい」
「いただきます」
ケンジに続いて、三人も同じ言葉を言う。
食事を口に運んだ。
「どうかな?」
「久しぶりに、丁度いい味付けのものを食べたよ」
「もっと、言いかたってものがあるだろ」
「健康のためには、薄味がいいという話です」
ちゃんと味はついている。ケンジには、肉汁のうまみと砂糖のあまさの区別が難しいだけのこと。全員、完食した。
食器洗いを手伝ったケンジ。上着から取り出した歯ブラシで、歯を磨いた。よく水を切ってケースに入れたあと、トネヒサに告げる。
「用事を思い出したので、帰ります」
「誰かさんがいない間に、頑張ってくれましたからね。いいですよ」
返事を聞くと、すぐに出ていった。
「仕方ないな。午後からは、私がチホの指導だな」
「よろしくお願いします」
ウタコもチホも、楽しそうに笑った。
食事時。
街には人影が少ない。走り去る自動車の数も多くない。
自宅に戻るケンジ。
上着を衣類用ハンガーにかける。下に着ていたのは、黒地に白い格子柄のシャツ。
カーテンが閉められて薄暗い部屋が、さらに暗くなる。きゅうに空が曇ってきた。春の空は荒れやすい。黒い傘を持って玄関を出る。
コンクリートの歩道を南へと歩いていく。灰色の空がひろがる南西には、遠くにそびえる電波塔。
白い大きな建物が見えてきた。
ガラス製の自動ドアを抜け、シイナギ病院のロビーへと入る。ならぶ長椅子には、あまり人が座っていない。
壁の色のおかげで、やわらかい印象の内部。受付には行かない。すぐ左にある、面会予約用の装置にふれる。ディスプレイを指で操作して、面会可能と表示された。
開いた自動ドアの向こうから、雨の音が聞こえる。地上と上空の温度差により起こる、にわか雨。外を見ようとした男性が、別のものへと目を向けた。暗い表情をした少年へと。
三角巾で左腕を固定した少年は、ケンジに気付いて明るい表情になった。近づいてくる。
「また会ったね。おにいさん」
「ケンジでいいよ。って、言ったよな? レイト、一人か?」
再び自動ドアが開いて、スーツ姿の女性が入ってきた。ヘアバンドをつけているため、ショートヘアはあまり揺れない。高い靴音を鳴らす十九歳の女性が、十四歳の少年へ近づく。
「一人で行かないでください。わたくしの目の届く範囲に――」
「恥ずかしいよ。一人で大丈夫だから」
シオミの言葉を遮ったレイト。ケンジの後ろへ隠れるように移動した。
「そのくらいの年齢のときは、恥ずかしいよね。そうだ。お見舞いに行かないか?」
「ひょっとして、ぼくと同じ病気って言ってた、知り合い?」
「うん。同じくらいの歳だから、気が合うかも。って、今思った」
談笑する二人に、女性がにじり寄る。かかとの高い靴を履いているため、ケンジよりすこし背が高い状態。目に力が入っている。
「同行しても、よろしいですね?」
「ああ。はい。心配なのは分かります。一緒に行きましょう」
男性の横を離れない少年。女性の表情は、仮面のように固まっていた。ほかの人や受付を気にすることなく歩く。
エレベーターのドアが閉まる。
上に向かい、四階で開く鉄のドア。三人が降りて、廊下を進む。足音以外が聞こえないほど静まり返っている。管理責任者と書かれた部屋の前にやってきた。
「入っても、いい?」
「やけに優しい口調だね。構わないよ」
部屋から聞こえてきた声に従い、ケンジが扉を開けた。中はやわらかな色合い。壁には、一周ぐるりとついた手すり。左奥にはベッドが置かれている。どう見ても病室だ。
「へえ。サプライズのつもりかい? 彼女、ではなさそうだね」
椅子に座る少女が言った。入り口のほうを向いている。ボブカットの髪は、あまりまとまっていない。痩せぎみで地味な服。入り口から見て左手の壁の近く、PCがある机の上に、両腕を置いていた。
「もちろん。エミカ。紹介するよ。この男の子が……」
「
話の途中で、すたすたと歩いていった少年。少女のすぐそばに立った。あとを追いかけた女性が口を開く。
「
「なるほど。あまり過保護なのは感心しないね」
にやにやと笑うエミカ。名を告げようともしない。女性の表情は変わらず、冷たい視線を送る。ケンジが三人の近くへ向かった。うなり声を上げる。
「悪い子じゃないんだよ。病気で、気持ちが落ち着いていないだけだから」
「分かるよ。でも、すごいね。ぼくより病状がよくないのに、システムを管理してるなんて」
右手で三角巾を外したレイト。ゆっくりと左腕を動かし始めた。途中で止めて、力なく下ろす。
「おや? この私に興味があるのかい? そちらの女性が嫉妬しているよ」
少女の言葉の途中で、女性は少年に近づいていた。三角巾を取る。結び目をほどいた。再び左腕を固定するため、レイトの首のうしろで結ぶ。
「わたくしたちは、これで失礼します」
「もっと話したかったな。エミカさん、またね」
二人が部屋を出る。扉が閉まって、シオミとレイトの話し声が聞こえなくなった。
「やっぱり、レイトだけのほうがよかったな」
難しそうな顔のケンジ。大きく息を吐き出した。すぐにだらしない表情になる。
エミカは、すこしだけ表情を緩めた。
二人だけの部屋。
管理責任者という名のついた、エミカの病室。
PCのディスプレイに向かう少女。横に、男性が立っている。すでに、締まりのない顔ではない。
「同じ病気の子供からデータが取れるかと思ったけど、邪魔が入った」
「怖いね。人体実験でもするつもりかい?」
無表情なケンジに、少女は苦笑いを返した。眉をさげて言葉を続ける。
「症例が少ないといっても、無理はしないほうがいいよ」
男性の表情は変わらない。顔が、少女の横顔に近づく。横からキーボードを操作して、ディスプレイに情報を表示する。
「PCの扱いに長けている者が侵される難病。だが、発症しない者のほうが多い」
情報を見ずに、すらすらと説明する男性。
染色体異常による運動障害。くわしい原因は不明。じょじょに体の自由が奪われていく。症状がもっとも強く現れるのは、手。
ゆっくりと歩いて、ベッドに座る男性。うしろを振り返らない少女。
「統計は、原因とは必ずしも一致しないよ。能力の高さなら、まず君が発症するはずだからね」
「人間のゲノムには、多くのダミーデータがある。メダルのおかげではっきりした」
ゲノム(全遺伝情報)は、膨大な量のデータで構成されている。使われていない情報も多い。解析が済んでいても手を出しにくい理由の一つ。
ケンジは、クリエイターによる枷だと説明した。書き換えを制限しているのだと。
「有効な手段ではあるよ。暗号化のようなもの。いや、複合的な手段だね」
「データだけでは足りない。ソフトウェアテストが必要だ」
「相変わらず、データとして見ているようだね。自分も含めて」
少女の声色は普段と変わらない。
「いざとなったら、メダルを奪ってでも病気を治す」
強い口調で断言したケンジ。
ゆっくりと振り返って、エミカが微笑む。
「いまの地位を捨てるなんて、正気とは思えないね」
少女を見て、男性の表情がゆるんだ。本人は気付いていない。話に集中している。
「夢でハッキングを教えてくれて、救われた。借りは返さないといけない」
「どうでもいいことに、こだわるね。それに、メダルならここにもある」
「知ってるよ。でも、それは君が使うべきものだ」
雨音がしない。いつの間にか、止んでいた。
一面の白。
ちがう。比較対象がないため、灰色が白く見えている。
黒色が炎のように燃えて、飛び散った。黒い輪郭。景色が現れていく。
モノクロームの世界。
散らばる金属片は、かつて乗り物だったことがうかがえる。バラバラになった合成樹脂。座席の一部や天井の残骸。くだけた木材は、頑丈な入れ物だったと推測できる。
現在の出来事ではない。夢。見ている者は、状況を把握していた。
「久しぶりに見た気がする」
ケンジがつぶやいた。右を向く。
事故現場からすこし離れた荒野に、十歳の少年が立っている。年齢がわかるのは、当時の自分とそっくりなため。
「これは、本当にあったことなのか?」
すべてが歪んでいく。灰色で塗りつぶされた。
十五歳の少女が現れた。華奢で、ボブカット。笑みを浮かべている。
「夢を使って会いに来たわけじゃないな。こんな笑顔のわけがない」
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