設定スパイラル
多田七究
第一章 現実ハッキング
第1話 置き去りにされた現実感
モノクロームの世界。
厳密にいえば、白と黒が存在する。ふたつは混じり合い、じょじょに色が変化している。
グラデーションが複雑化していくにつれ、輪郭が鮮明になる。景色が現れた。
金属片や木片が散乱した事故現場。
動くものがない。バラバラになっているものは、どれも原形をとどめていない。事故現場を表示するだけの限定された景色。それが閉じていく。
せまい世界。立ちつくす少年。
「また、この夢か」
少年の姿が消えて、青年が現れた。
景色が広がっていく。一面の白。
五歳くらいの少女が突然現れた。無表情。おかっぱ頭がきれいに整えられている。
目を見つめる青年。
「約束は忘れてないよ」
カーテンの向こうから明かりがもれている。室温はそれほど低くない。
押しのけられる、うすい掛け布団。ベッドの右側で、人影がもぞもぞと動く。
せまい部屋の主である青年が、照明をつけずに着替えはじめる。薄暗い中でうかがえる身長は、約165センチメートル。体つきはすこし貧相。
着替え終わったケンジが部屋から出ていく。建物のそとから、人々の話し声や自動車のエンジン音が聞こえてきた。
部屋に戻る人影。照明がつけられる。
きれいに片付いている部屋、というよりは物がない。生活感のあるものは木製家具で、ベッドと、机と椅子。木製でフローリングの床には、携帯用の情報端末が転がっている。
ほかにも物があった。机のうえ、右奥の、情報処理をおこなう電子式の計算機。
白いタワー型で、縦にながい。入力と出力をおこなう機器は、うしろから伸びる線で繋がっている。本体を直接操作するわけではない。
PC(パーソナルコンピュータ)とよばれる物に近づくケンジは、電源を入れない。ボサボサの黒髪。格子柄のシャツに茶系のパンツという部屋着で、手には栄養補助食品。
椅子に座って、朝食が始まった。口の周りに無精ひげが伸びていて、表情は晴れない。
夢の内容を思い出そうとして、はっきりと思い出せず、ケンジは考えるのをやめた。
ようやくPCの電源が入れられる。
演算の順番を制御し、記憶するための装置。それは人の入力によって血がかよう。
入力機器であるキーボードが、キーの文字や記号を見られることなく次々と押されていく。横長に100以上あるキーの半分以上が、押されてはすぐに離される。
目まぐるしく動きつづける、まるで楽器を奏でているような10本の指。成人男性にしては大きくないものの、力強さがある。
出力機器であるディスプレイに、文字と数字と記号が横書きでつみ重なっていく。ななめ下をむく視線とほぼ平行に立つ、胸のはばよりも広い横長の画面。
音が突然止んだ。
「歯磨きを忘れるところだった」
ディスプレイに表示されている時刻は、午前7時30分を過ぎている。
PCをそのままにして、部屋を出るケンジ。
5分以上が経過して戻ってくると、再び椅子に腰をかけた。
現実感にとぼしい普段とは違い、デジタルデータを扱っているときは生き生きとしている。
右手を伸ばして、マウスをにぎる。二次元的な動きがPCへと伝えられ、ディスプレイのアイコンが押されて画面が切り替わる。
マウスは、ネズミに似ていることからその名がつけられた、ポインティングデバイス。おもに人差し指でボタンを押し、画面のポインタやアイコンを直感的に操作するために用いられる。
ケンジが立ち上がり、床の情報端末を拾い上げた。入れられる電源。
画面を見て、指で触れていく。
タッチパネルによる画面を直接タッチ操作する方法は、さらに直感的といえる。
ルータを介した情報がモデムにつながり、インターネット回線へと流れていく。
机の上の機器が、データ送信の合図を点滅させた。まわりには、無数に伸びるコード類。まるで血管のように、コンセントや壁の中へとつながっている。
いじり終えた情報端末は、机の左はしへ無造作に置かれた。
PCの画面に、一通のメールが表示されている。件名は、セキュリティチェックの依頼について。
「仮想コンピュータを使っているといいけど」
メールのウィンドウが閉じられる。ウィンドウは、アプリケーションごとに与えられる領域。窓のように見えることが名前の由来。
続いて、別のアプリケーションが立ち上がった。データの流れを視覚的に分かりやすく表示した、ハッキング専用のプログラム。
ひし形がいくつも重なって魚の形になったアイコンが、ネットへと潜っていく。
ハッキングとは、本来コンピュータに熟知した者がおこなう行為。だが、悪意あるクラッキングと混同されることも珍しくない。
魚が、いくつもの壁で仕切られた通路を進む。まわりが光で照らされたように明るくなり、とおった場所の情報が取得される。黒かった地図が白に染まっていく。
回転する壁や、不定期に出現する壁をやりすごし、進み続ける。
企業に依頼されているため、侵入の痕跡であるログを消す必要はない。
にもかかわらず、システムに足跡を残さないよう徹底した作業が続く。べつの場所にいる小魚を同時に操作し、ログを消す。見え始める全体図。
「高対話型ハニーポットか。リスクが高いな」
ハニーポットとは、あえて不正アクセスを受けるシステムのこと。いわゆる罠。高対話型は実際のアプリケーションを使っているため、クラッキングの被害を受ける。そのかわり得られる情報は多い。
罠にかからず、システムを把握したケンジ。最深部に足跡を一つ残して立ち去った。
悪意があれば乗っ取りができた、という意味を込めて。
「ガードできないなら、ネットに繋がないほうがいい」
切り替わる画面。追加料金でセキュリティを改善する、という内容の定型文をコピーし、メールの本文にペースト。企業へ送った。
たくさんの部屋が並ぶ、集合住宅の一室。
その二階。ケンジがディスプレイから目をそむける。大きく伸びをした。
机の近くにあるカーテンは閉まっている。とはいえ、東からの光は防ぎきれていない。
PCの電源を切って、椅子に座ったまま柔軟体操をおこなう。眠そうな表情。部屋から出ていくと、電動シェーバーの作動音がブーンと鳴りひびいた。
部屋に戻ってきた青年。ひげは剃られている。机の上にある情報端末が、無造作に胸のポケットへ突っこまれた。服を着替えることもなく、髪型を整えようともせず外へ向かう。
玄関で靴をはく。西側にある鉄のドアを開けようとすると、女性の声がした。
「わっ。びっくりした」
声に驚いたケンジは、びっくりしたのはこっちのほうだ。とは言わなかった。ゆっくりとドアを開ける。
「こんにちは。なんですか?」
日は高く、すでに昼前。時間に対応した挨拶が選択された。
女性の身長は、約170センチメートル。部屋の主よりわずかに高いものの、童顔のため威圧感はない。内巻きにまとまったセミロングの髪がなびく。手には箱を持っている。
「偶然だね。隣に引っ越してきたよ。ケンジ」
「表には、
むねを確認するまでもなく、学校指定の体操服を着ていないことは一目で分かった。ちなみに、すでに卒業している。
「制服じゃないと分からないかな? 同じ学校だった、チホだよ」
白いワンピースの、スカート部分についているフリルが揺れる。悪くない体つき。夏を控えた春らしい装い。胸元からのぞく部分とグレーの長袖も含めて一つの服になっていることを、ケンジは知る由もない。
「ああ。思い出したよ。それじゃ、ウォーキングに行くから」
「よろしくお願いします」
差し出された手土産。包装紙つきの品物に、のし紙がかかっている。上側に御挨拶、下側に菊間と書いてある。
「えっと。ご丁寧に、どうも」
「タオルだから、さっそく使って。わたしも一緒に行く」
「えっ」
ケンジは眉を下げた。真剣な表情でチホを見つめる。女性から、微笑が返される。
「誰かと約束してるの?」
「いや。軽くだから、タオルは置いていく」
「じゃあ、いこう」
眩しい笑顔を向けるチホ。ケンジは首を縦に振る。相手の目は見なかった。
ドアが閉まる。
南へ向かい、階段を下りる二人。コンクリートの材質にも、くの字に折り返す場所が広いことにも、ケンジは興味がない。
クリーム色の建物から出た。
さらに進んで、集合住宅の敷地から足をふみだす。
人であふれる街。といっても、都会のど真ん中ではない。肩がぶつかるほどの密度はなく、のんびりと歩みを進める。ネコが民家の屋根から見下ろしていた。
コンクリートの歩道をならんで歩く、男性と女性。
二人は北に進む。はしに等間隔でならぶ街路樹のおかげで日差しが軽減され、汗がふき出すことはない。邪魔にならないよう枝を手入れされた落葉樹は青々と茂る。夏まではまだ遠いものの、じょじょに近付いていることを感じさせる。
アスファルトの道路をはしる自動車がすくないのは、バスを利用する人が多いため。地下鉄は南の市街地にしかない。
ケンジから話題が提供されることはない。普通に歩くよりもおそい速度で、ちらちらと横目で様子をうかがっていた。女性は小さな鞄を持っている。
「もうお昼だね。予定あるの?」
「あー。あったような気がする」
「そっか。残念だね」
チホの言葉に、そっけなく返すケンジ。
その視線が前方に固定された。交差点にかかる、大きな横断歩道。歩く人々の中で揺らめく、異質な存在に。
全長、約30センチメートルの白いぬいぐるみ。
リスのような後ろ姿を見ることができるのは、長身の男性が左肩にのせているため。後ろからその顔を知ることはできない。隣には、ツインテールの小柄な女性が歩いている。
何も言わないチホ。
まわりの人々も、気にしていない様子。横断歩道の先で散歩中のイヌも、ゴミ箱の上のカラスも、見ていない。
流行に疎いケンジは、特におかしな出来事ではないのかもしれないと考えた。子供のぬいぐるみを代わりに持っているだけだと。
ぬいぐるみが振り返ったように見えたのも、見間違えに違いない。
赤に変わった歩行者用の信号で止まっているあいだ、横断歩道の先を見つめていた。
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