宝物庫の予約番号
【浅井 4】
一夜明け、さあ、本格的な活動の開始だ、ともいかない。
日付が一つ進み、四半周しても調べ物をしていた浅井は全身に絡みつく睡魔を引き摺りながら出勤していた。中央管制塔に到着したのが業務開始の直前だったせいで、天候管理局のフロアまで昇るエレベーターが普段よりいっそう遅々としたものに感じられ、大いに焦らされる。もったいつけるように増えていく階数の表示に何度も身体が揺れ動いた。
甲高い合成音声が頭蓋を叩き、扉が開くとすぐに浅井はエレベーターから飛び出した。早足で引き継ぎを待機しているだろう同僚の元へと向かう。途中で別の部署の人間にぶつかりそうになり、奇妙な踊りを舞うかのように身体を翻した。
「すみません、遅くなりました」
到着と同時に頭を下げると化粧の濃い女性職員はこれ見よがしに溜息を吐き、明瞭に不機嫌さを噴出させた。公職者としての自覚はあるのか、人に迷惑をかけてどう考えているのか、と忠告を一滴混ぜただけの罵声がスコールさながら強かに降り注ぎ、浅井は途方に暮れる。
幸いだったのはスコール女史が他人の出社時間に口うるさいのとおなじくらい、自分の退社時間を厳守することに対しても精魂を傾けていることだった。身を竦ませるほどの金切り声を出した後、彼女は挨拶もせずにフロアを去って行った。雨雲が離れ、罵声の濡れ鼠になった浅井だけがだだ広い部屋に残される。
まだ出社して間もないというのに疲労を感じながら浅井は所定の位置に座った。九時を少し回ったところではあったが、波多野の姿はない。いつも通りだ。
浅井は身体を伸ばしながら、今日の天気を確認する。
天気は晴朗、南西の風四メートル、軟風の吹く穏やかな日だった。立ち上がり、正面に設置されている大きな窓から外を覗く。まだ気温が上がりきっていない午前の街には運動に興じる、もしくは勤しむ市民の姿がまばらに動いていた。青々とした木々が陽光を反射して眩しくすらある。
天候管理局の職務はその大仰な名称とは裏腹に退屈である。
数値の確認と微調整が勤務時間の大半を占め、それ以外の仕事と言えば天候管理計画書に記入するか、市民の苦情や要望を精査するくらいしかやることがない。この日は例年雨が降っていたけど今年は晴れにしませんか、であるとか、この日の翌日はサッカーの大会が開催されるから競技場の土を少し湿らせてください、であるとか、そういった些末なものだ。本来プログラム任せでも滞りなく運営できるシステムへ無理に人間を介入させているだけに業務内容は鼻白んでしまう程度のものばかりだった。
浅井は席に戻って計器を確認しつつ、七月の行事予定に目を通していく。多くは恒例となった行事ばかりで、目を引くものはさほどない。大々的に催されるイベントといえば屋内競技の市民大会くらいだった。参加者の家族や友人なども併せて屋台が出店するほどの規模ではあったが、屋内競技であるだけに天候の変化が影響するイベントでもない。
「ういーっす」
柔らかな椅子の上でじゅうぶんにふんぞり返り、地域毎の湿度を漫然と眺めていたとき、扉のほうから暢気な挨拶が響いた。ようやく来たか、と浅井は目の端で捕らえた波多野に批難の視線を送り、壁に表示されている時計を指さした。
「たまには俺より早く来てくださいよ」
「お前には遅刻に見えるだけだよ」悪びれる様子もなく、波多野は浅井の隣に勢いよく腰を降ろす。手には炭酸ジュースの入った缶があった。「俺は時間通りに出社してる」
「そんなわけないでしょ」
真に受けず、証拠を突きつけるために、浅井は塔内ネットワークに繋がったコンソールを操作する。セキュリティ従事者でなければアクセスできない場所も多々存在するが、勤怠管理表は独自のネットワーク内のセキュリティが緩い部分に格納されているため、閲覧くらいなら役員でなくても可能だ。
指先のインターフェイスで個人認証を終えると間もなく人物別に並べられた勤怠管理表が表示された。浅井は波多野の名を探し、最新の、つまり、彼が今日出社した時間まで指で辿る。午前八時三十分と記載されている。
「……嘘だろ?」
間の抜けた声が、喉ではないどこかから、漏れた。時刻通りに所定の場所にいて初めて出社と記録されるのではなかったのか。試しに自分の出社記録も確かめてみたが、備考欄には赤々と遅刻の文字が刻印されていた。
どうなっているのだ、と浅井は地団駄を踏む。スコール女史も波多野が姿を現していないことへの不満を露わにしていたというのに。
「な、言った通りだろ」
「機械の不具合か、波多野さんが工作を行ったか」
「俺は何もしてねえって」
言葉とは裏腹に、彼はいかにも事情を知っているかのようなしたり顔をしていた。追及するが的を射た回答は返ってこず、ちぐはぐなごまかしが浅井の苛立ちを募らせる。波多野は優雅な朝だと言わんばかりに大きな欠伸を一つ、見せつけるように披露した。
「というか、おい、お前だって遅刻してるじゃねえか」
「お前だって、ってことは自分が遅刻してる自覚があるんじゃないですか」
「おっと、まっとうに出社していた人間を理由なく詰るお前自身が、遅刻してるじゃねえか」と波多野は浅井の正面に投影された画面を覗きながら饒舌に訂正する。「うわ、あの口うるさい女が前の時間かよ。いろいろ言われたろ」
「大目玉ですよ。先輩ならためにフォローして欲しいんですけどね」
「あのなあ、お前が遅刻したことと俺はなんの関係もないだろ」
「先輩は後輩の責任を取るために存在してるんじゃないんですか」
「俺はお前を責任ある人間にするために存在してるんだよ」
そう言う波多野はやはりこの世の責任という責任から解放されたかのような出で立ちをしている。今からバカンスに赴くんですか、と訊ねられてもおかしくない恰好だ。フォローを期待するのは間違いであるかもしれない。
「だいたい、高い時計持ってるんだから活用しようとは思いません?」どこで手に入れたのか、以前波多野がつけていた高級な腕時計を想像する。「全然つけてこないですけど」
「俺ほどあの時計を活用してる人間はいねえって。あの時計は、あれだな、思い出の品として最適だな」
「物の価値がわからないほど悲しいことはないですね」
「なあ、お前、なんで遅刻したの?」
唐突な話題転換に浅井は「なんで、って」と口ごもった。改めて説明しようとするとうまく言葉にできない。自分と〈エイブラハムの樹〉の関係を端的に表現するとどうなるのだ? 出資者というには活動的で、プロデューサーと呼ばれるのはおこがましい気がする。
浅井は「なんというか」と居住まいを正し、概略を述べることにした。自らのことながらあまりに衝動的すぎて、藪から棒というよりも密林から棒程度の様相を呈しており、浅井にとってもそう感ずるほどなのだから、一通り話し終えたところで波多野が当惑するのも無理はなかった。「絶対ステップ抜け落ちてるよな」と彼は会話の重要な断片を探すかのようにわざとらしく周囲を見回した。
「俺もそう思いますけどね、一度聴いてみたらわかりますよ」
「是非そうさせてくれよ、俺は音楽なんて詳しくないけどな」
「音源作ったら教えます。ただ、機材の調達をしなきゃいけないのが面倒で」
「機材ねえ」
波多野は興味なさそうにコーラを呷り、おうむ返しをする。先輩なら困難に突き当たった後輩を助けてくれ、と軽口を叩こうとして、止まった。
ぱっと視界が急激に明るくなる。
あ、と、思わず声を上げていた。
高額な報酬と検閲まがいの確認作業を要する政府直轄の輸入事業を利用せずとも問題を解決する術があるではないか。この国の市民たちも建国当初から仮想現実の中で生を謳歌していたわけではないのだ。資源不足に困窮した政府が音楽機器を回収したという刀狩りめいた逸話も耳にしたことがない。
隣で訝しげにしている波多野に、浅井は正対し、綻ばせた顔を近づけた。
「人脈のK2」
「なんだよ、その異名」波多野は苦々しげに顔を逸らす。「どうせ言うならエベレストとかにしろよ」
「いや、ほら、波多野さんって変な知り合いが多いじゃないですか」
「人の知り合いを変と罵るのは不届きすぎだろ」
「その中に音楽機器を取り扱ってる方っていますか? 一時期流行ったじゃないですか、中古品を扱う業者」
仮想現実上に意識を移動させ、まるで身体を動かしているように脳を騙す技術は市場に出ると同時に爆発的に富裕層へと広まった。国の誕生過程に基づく「新しい物が好き」という国民性が一役買い、乾いた砂山に水を溢したように浸透していったという。
その中で雨後の筍のように生まれたのが中古品売買業者だった。物質的生活からいち早く離れた富裕層が所有物を売り払おうとしたため、需要が急増したというわけだ。中流以下の家庭で育った民衆たちにとっては垂涎物の商品が突然流通を開始したことで消費活動が活発化し、この国は空前の好景気に見舞われた。
その風潮は教科書に記載されるほどの出来事になったが、隆盛の終焉もまた早かった。五年もすると今度は一般層が仮想現実空間へ移行を始め、彼らも手に入れた物をあっさりと放流したのだ。そうなると顔を青くするのが中古品販売業者の経営陣で、彼らは売った端から買い取りをしなければならなくなり、増加し続ける在庫に咽び泣いたそうだ。
にっちもさっちも行かなくなった商人が取る選択肢は二つしかない。すなわち二束三文で在庫を処理するか、倉庫を埋め尽くす梱包から目を逸らして店を閉めるか。そして、業者の多くは後者を選択した。悪化する業績に心身ともに疲弊して現実から逃避したのか、無責任に投げ出したのか、知る術はない。だが、この国には彼らの残した財宝があることは断言できる。
「波多野さん、知ってるでしょ、宝物庫の管理人」
「決めつけるなよ」
「もしかして、あの時計もその知り合いにもらってたりして」
「……そうだとしたらどうするつもりなんだ」
その返答には浅井も泡を食った。「え、当たってるんですか? 紹介してくださいよ」
「あー、うるせえな、わかったよ」
波多野は面倒そうに宙を叩き、「ほらよ」と指先を差し出した。浅井が彼の人差し指に触れるとデータが送られてくる。「どうも」
睨んでくる波多野を愛想笑いで流し、浅井は身体に埋め込まれた外部記録装置に宝物庫管理人の連絡先を登録した。やはり持つべき者は信頼できる友人だ。
そこでふと、屋代のことを思い出す。湧いてきた疑問を口にする。
「――波多野さん、娯楽だとか音楽で、人を変えられると思います?」
〈エイブラハムの樹〉は浅井の生活を変えようとしている。物質世界で暮らす浅井がこうなのだ、もし、仮想現実で暮らす人間が〈エイブラハムの樹〉の音楽に触れたらどうなるだろうか。かつて自分と屋代が望んだ人間らしさを取り戻すのだろうか。
波多野は曖昧に返事をし、「天岩戸もあるけどなあ」と呟いたあとでこう言った。
「変わろうとしているやつの腕くらいなら引っ張れるんじゃねえの? でもよ」
「でも?」
「変わろうとしないやつを変えるのほど難しいことはねえよ。俺は今まで失敗してきたやつをたくさん見てきた。それこそ、この街を爆破しようってくらいの心意気がねえと何もできねえよ」
〇
宝物庫の番人は厳つく、盗人を、あるいは近づく者すべてを許さない威厳と風格に満ち、恵まれた体躯をもって仁王立ちしている。そう決めつけていたわけではなかったが、声を聞いた瞬間に拍子抜けした。
「珍しいねえ、構わないよ全然構わない、お金もいらないよ」
電話の向こうで容器に受け答えする男の背格好が浮かぶ。ひょろ長く、猫背で、目が垂れた、無表情と笑顔の境目の曖昧な顔が明確なイメージとして固まる。
彼はモーリッツと名乗った。ファーストネームか、と訊ねると、よくぞ聞いてくれたと言わんばかりに「どっちもだよ」と自慢げにした。
「どっちも?」
「名字が
韻を踏むかのようなリズムのよさでそう言ったあと、森津は「ドイツ系の母親が日本系の父親と再婚してさあ」と聞いてもいないことを滔々と語り始める。森津の弁は止まらない。会う前に彼の人生を知り尽くしてしまうのではないか、このままでは森津モーリッツ学の権威になってしまうぞ、と恐れていると彼は唐突に「しまった」と声を張り上げた。
「もう時間だ、待ち合わせに遅れる」
「すいません、忙しいときに電話して」
「大丈夫だよ大丈夫、大した用事じゃないからさ。そうだ浅井くん二日後でいいかな」
ようやく終わりの見えた会話に浅井は胸を撫で下ろし、快諾した。二日後はちょうど休日だ。問題は〈エイブラハムの樹〉の誰を連れて行くかだが、事前に了承を得なくても一人くらいは捕まるだろう。
「じゃあ、二日後に。何時頃伺えばいいですか?」
「ここだって思った時間でいいよ、暇だしね」
「なら十四時頃に伺います。何かあれば連絡しますので」
「うん、待ってるよ」
よ、のすぐあとに通話が切れる。のんびりとした口調にも関わらず相手に気を使わない姿勢はぼた雪のような風情に溢れていた。わざわざ許可を取って私的通信をしなくてもよかったかな、と受話器にしていた手を下ろし、親指と小指をくっつけて浅井も通話を終了させる。すると、机の上に脚を乗せていた波多野が笑い声を漏らした。
「愉快な男だろ」
「マウンテン波多野、恐るべしですよ。強烈すぎ」
「あれで参っているようじゃこの先もっと苦労するぞ」
その予言めいた口調に、森津とともに狭い室内に放り込まれる光景が脳裏を占拠した。延々と彼の話を聞かせられる自身の姿を想像し、浅井は顔を引き攣らせる。
「勘弁してくださいよ」
「まあ、そう言うなよ」
波多野は薄笑いをして、目の前に投影された画面へと視線を戻した。何を熱心に見ているのか気にかかり、覗き込むと、緊急時に自動配信される首長声明が映し出されていた。平静を保つように呼びかけるだけの、暫定的な映像だ。
「なんでそんなの見てるんですか? 昔、相当馬鹿にしてたじゃないですか」
「予習だよ、予習」
国家の危機に瀕したとき、現実や仮想現実の区別なくこの国のあらゆる視界媒体にこの臨時映像が流される。その中では国旗を背景に恰幅のよい髭面の壮年が「落ち着いてください」と力強い眼差しを向けてきていた。
森津のことを頭に浮かべ、「落ち着け」と言われても、と肩を落とす。
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