再会、約束、ブザー
【浅井 6】
部屋を出た直後、「浅井」と呼びかけられた。
その声色は耳の奥にあった記憶と瞬時に結びつき、一切の思考を経ずに旧友の姿を思い起こさせた。振り返る前に彼の名前が口を突いて出ていた。
「屋代」
「……やっぱりお前だったか」
高校卒業以来、およそ十年ぶりの再会だった。懐かしさよりも驚きが湧きあがる。浮上した困惑は沈み、喜びが跳ねた。以前よりも険のなくなった友人を目にし、笑みを止めることができない。浅井は彼に歩み寄り、幻でないことを確かめる。
「屋代、お前、今まで何してたんだよ」
「それはこっちの台詞だ」肩で息をしている屋代は相好を崩し、言った。「いろいろ、やってるみたいだな」
「聴いてくれたのか」
〈エイブラハムの樹〉の演奏は時間にして十分かそこらのささやかなものではあったが、素晴らしい結果に終わっていた。観衆の反応や実行委員たちの賞賛からもそれは実感できている。開始直後こそ観客を困惑させていたものの一音一音奏でるたびに周囲を飲み込み、覆い尽くしていくさまが脳裏に焼き付いており、未だ肌が痺れるような感覚が残っていた。
それだけに浅井は、どうだったか、驚いたか、と誇りを胸に屋代がその中にいたことを期待する。しかし、彼は申し訳なさそうに返答を躊躇するばかりで、言葉を返さなかった。その反応に浅井は彼が別の場所にいたと察し、言葉を続けた。
「そうか」残念ではあるが、落胆はない。自分でも予想しなかったほど落ち着いた声が喉から漏れた。「仕方ない」
「聴きたかった、と後悔はしている」
「まあ、聴く機会はあるからな」
「だといいけどな」
含みのある言い方で首肯する屋代に、浅井は長い息を吐く。「なんだよ、他人事みたいに」
「そう聞こえたか?」
「そうとしか聞こえなかった」
「気のせいだろう」
「まあいいや、次、機会があったらちゃんと聴けよ」
「……わかった。機会があったら、必ず」
「お、
「機会があったらな」
歯切れ悪いな、と浅井は顔を顰める。だが、うまくいかない。再会の喜びが悪態の邪魔をしており、また、その事実が照れくさく、半ば強引に話題を戻した。
「それで、屋代は今、何してるんだ? 連絡も寄越さないで」
「連絡をしなかったのはお前もだろう」
「認める、けど、さ」
「……昨日までは土建業だった。ああ、今日まで、か」
そこで挙げられたのが公職者としてはなじみ深い社名だっただけに、浅井は疑念の混じった驚きを禁じ得なかった。あれほど食料供給管を諸悪の根源として
「辞めたのか。次の仕事は決まってるのか?」
「仕事に生きて仕事に死ぬ時代じゃないだろ」
「それはそうだけどさ、なんかお前らしくないんだよ。次、何をしたいってのはあるんだよな?」
屋代はそこで少し考え込み、それからとっておきの冗談を思いついたかのように顔を輝かせた。
「そうだな、テロリストかな」
「笑えない冗談を言うなよ」
「確かにそうだ」
「ああ、冗談にしてはあまりに拙い」
その発言に屋代は毒気を抜かれたかのようにぽかんとし、すぐに顔を伏せて笑った。ともに過ごした日々への懐古の念が浅井にも甦り、笑い声を立てる。懐かしいな、と言い合ったあと、屋代は大仰に頷く。
「冗談なら笑えるべきだ。対偶もまた真なり」
その言葉の意味が咄嗟には理解できず、浅井は「どういうことだ?」と訊き返したが、彼は答えを返さなかった。
「しかし、音楽にかまける若者を世話する、なんてお前らしいが……大変だろう。そういうことをしていたら金も稼げないんじゃないか?」
「それが金なら困ってないんだ」
「裕福な大人の道楽か」
わざわざ嫌みたらしくされた口調に、浅井は頭を掻く。斜に構えていた当時を再現しようと努めているような声の調子だった。嫉妬や羨望から生まれた安上がりな皮肉ではなく、友人を囃す雰囲気に満ちている。
それに改めて追懐の情に火が灯った浅井は食事にでも誘おうと思い――
――そこで、喉が詰まった。ともすれば見落としそうになるほどわずかではあったが、屋代の表情が
「それで、いったいどうやって稼いだんだ? 人を出し抜いて金を稼げる人間じゃなかったよな」
「あ、ああ、まあ、そうだな」どうにかして頷く。「投資と仕事だよ」
「お前が投資か。浅井が評価した物は大概、他の全員に馬鹿にされたのに」
「大概だろ、全部じゃないし、全員じゃない」
「それもそうか……それで? 仕事は何をしてるんだ?」
表情を和らげた屋代に、一瞬の逡巡のあと、できるだけ感情を込めないようにして答えた。
「天候管理局だよ」
「天候管理局?」
反復された単語の裏側に、先ほど覗いた寂寞が、今度は明瞭とした輪郭を伴って表出した。浅井は目を逸らすように俯く。負い目を感じる必要などないのだろうが、それでも彼の顔を真っ直ぐ見ることができなかった。
「お前が」と屋代は言う。「公職者か。しかも、天候管理局」
「なあ、屋代」
「勘違いするな、深い意味はない。ただ、何と言うか……意外ではあったな」
高校時代、口を揃えて中央管制塔を罵倒していた日々を思い出す。心の底から公職者を憎んでいたつもりはない。嫌いだったのはもっと漠然とした存在で、それはきっと屋代も同じだったはずだ。だが、心変わりをしたと看做されても不思議ではなかった。当時の二人にとってこの国は倒されるべき怪物だった。技術か制度か国民性か、あるいはそれらすべてが牙となり、人間らしい生活を噛み砕いていたと信じていたのだ。それによって苦しんでいたのは他ならぬ浅井であり、屋代だった。
公職者を選んだ確固たる理由がなかっただけに、息が詰まる。
「どうだ、浅井。中央管制塔で働いて何か景色は変わったか?」
「それは」
言葉が途切れる。
肯定も否定もできなかった。屋代の手前という理由ではない。ただ、確信を持てるほどの価値観の変化があったとは思えなかった。今でもずるずるとあのころの延長を生きている気がする。近くにいる人間が屋代から波多野へと移っただけだ。環境は違うが、自分の行動の本質は依然として変わりがなかった。
「……悪い、うまく答えられない」
「そうか」
屋代はその言葉をどのように捉えたのだろうか、愉快そうに相好を崩し、浅井の肩を強かに叩いた。痺れるような痛みが皮膚を這いずり、骨が熱を持ったかのように疼く。失望されるのではないかと不安になり、言葉を発することさえできなかった。
「なあ、浅井」屋代は静かに、芯にぶつけるような口調で言った。「昔、話したことがあったよな……俺たちが間違っているのか、それとも他のやつらが間違っているのか。今なら、今のお前ならどう答える?」
晴天の午後、校舎の裏で嗅いだ草の青臭さが頭蓋骨の中に満ちた。尻のあたりに柔らかな芝の感触すら感じる。
あれから十年が経った。自分自身が誤っていると認められるほど謙虚ではなく、他人がおかしいと決めつけるほど傲慢ではなかった当時、浅井はその場で答えを出すのが恐ろしく、必死にごまかしていた。解答を保留し、時間に任せ、どうなったというのだろう。俺も大人になったよ、どちらも間違いではないのだ、と知ったような顔をするのは当時の自分たちへのこれ以上ない侮辱にも思え、できそうになかった。
「……正直、まだわからない」
「そうか」と言った屋代の表情は安穏としている。予想していた侮蔑とはほど遠い達観が、そこにはあった。「安心したよ」
「え」
「たぶん、お前は何一つ変わってないんだ」
「……それは誉めてるのか? 成長がない、って言われてるような気がする」
「そうじゃない、気にしすぎだ。俺はただ、お前があの頃を否定しなかったから嬉しかっただけだ」
「十年、か」その数字の重みに嘆息する。「なんか、屋代は変わったな」
「そうか?」
「昔のお前はもっと硬かったよ。角が取れたっていうか、ふっきれたというか」
「四六時中音楽だ、映画だ、ってうるさい奴がいたからな。そろそろ落ち着いているかと思ったらまだうるさかったみたいだが」
「お前はお前で料理料理って喚いてただろ」
そう指摘すると屋代は虚を突かれたのか呆然とし、「だからか」と長年抱いていた疑問が氷解したかのように噴き出した。
「だから、俺はあいつを突き放せなかったのか」
「何のことだ?」
「似たようなことをこの前言われたんだ。工具工具って喚いてる、ってな」
「工具?」何を言っているのか、やはり、浅井にはわからない。
「ここ数年、工具に愛を傾ける変人を装っていたんだ」
「なんのためにそんなことを」
「なんでだろうな」屋代の声は問いかけるようでもある。「誰も近づかないように、って考えていたが、もしかしたらお前みたいなやつに声をかけられたかっただけなのかもな」
「おい、屋代、どうしたんだ? お前、変だぞ」
浅井の困惑に、屋代は満足げに「なんでもない」と首を横に振った。だが、浅井にはその穏やかな表情を「なんでもない」ものとして捉えることはできない。連絡を取らなかったこの十年でいったい彼に何があったのか、浅井には想像することすら覚束なかった。
「浅井」と屋代は言う。「どうして、お前は俺に連絡をしなかったんだ?」
彼の声は柔らかかったが、冗談めかして冷やかすようだった先ほどの声色とは異なり、明確に答えを求めている感触が伝わった。
胸の奥が冷える。訊かれたくない質問だった。
浅井は答えられない。打算に塗れた本心を告げられるはずがない。
屋代との間には地鳴りのような遠い歓声だけがあった。責め立てるようなその音に唾を飲み込む。理解されるとは到底思えない幼稚な本心が後ろ暗く、ごまかすように頬を引き攣らせて笑みを作ると、屋代は小さく息を吐いた。
「まあ、俺が言えた話でもないな」
そう言って、彼は背中を向ける。
「きっとそんな自分も含めてリセットしたかったんだろうな。結局は自分のことだけだ」
リセット? 浅井は屋代の言葉に不穏な気配を感じ、問い詰めようと足を踏み出したが、声は出なかった。じゃあな、と簡素な別れを告げ、歩を進める屋代の後ろの姿に焦りが募る。このまま会えなくなるのではないか、という予感に足下が揺れた。
――俺から思いつきを取ったら何が残るんだ?
断絶を回避する言葉を必死に探す。一歩ずつ屋代が遠くなっていく。浅井は焦燥に支配された思考に追い立てられ、慌てて叫んだ。
「屋代! ……今度、メシ食わないか。立ち話じゃなんだろ。いい店があるんだ」
その呼びかけに、屋代は曖昧に微笑んだだけで答えを言わず、去って行った。
けたたましいブザーが聞こえる。試合が終わったのか、それでもハーフタイムを告げる音なのか、判別できなかった。
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