起爆
【屋代 7】
感情の総量は一定なのではないかと考えるときがある。
質量保存の法則が感情にも適用されていて、個人の枠を越えた中で幸福や喜び、悲嘆や辛苦を足し合わせるといつだって釣り合いが取れるのではないか、と。そうだとしたら空もその枠の中に含まれるのかもしれない。感情が沈んだとき、いつだって太陽が強く輝いていたようにも思えた。
正午前の公園、屋代は芝の上に大の字になっていた。陽光に温められた草が肌をくすぐり、その隙間から土の冷えた感触が伝わっている。空には雲一つない。じりじりと青空を移動していた太陽が間もなく南中に身を置こうとしている。
芝生に寝転んでからもう二時間あまりが経過していた。
一週間前に味わった酩酊しそうなほどの喧噪は痕跡すらもない。時期を見極め、寝床から這い出て力の限り騒ぎ、幻のように消える姿は蝉にも似ている。
屋代は視界の端に表示されているアプリケーションに視線を送った。単純なプログラムだ。ボタンをクリックして特定のジェスチャを示せば作動する。作動と同時にネットワークを通じて食料供給管に取り付けられた爆弾へと指令が発せられ、起爆する。
正午になり、屋代がプログラムを発信させたらもう止めることはできない。ゆっくり五つ数えるまでにこの国の地中に張り巡らされた管という管は封鎖される。大勢の市民たちが憤り、喚くだろう。膝を抱えて、恐怖と空腹に震える者もいるかもしれない。
そのとき、何も知らない子どもたちが笑い声を上げながら頭の近くを横切っていった。微かに聞こえた会話から、彼らが食事を摂りに自宅へ帰ることがわかった。おそらくは機械によって作られた食料を摂取するために。
「そろそろか」
小さく呟いて身を起こす。肌に貼りついた芝がぱらぱらと翻りながら落下する。尻を叩き、空を貫いて聳える中央管制塔へと向かい合った。
――生きる才能が、自分にはなかった。少なくともこの国においては。
境遇を嘆くつもりは毛頭ない。孤独感に懊悩し、腹の中で恨み言を叫ぶ人間は掃いて捨てるほどいるだろう。自分が特別な存在だと思ったことは一度もなかった。
「人が大好きすぎて持て余してるんでしょ」とエラの声が鮮明に耳の中でこだまする。自分がなぜこんな犯罪に手を染めたのか、その指摘がすべてを表している気がした。浅井と話して彼女の言葉が正しいと思い知った。
ただ、居場所が欲しかったのだ。
無条件で存在を許される、そんな居場所が。
もしかしたら、と思わないわけではない。島田や波多野、エラがそういった存在になり得た予感はあった。浅井とも関係性を取り戻せるかもしれない。このまま何食わぬ顔で生きていたら望んでいたものが手に入る可能性は十分にある。
だが、結果が残るのと同様に行動も消えはしない。爆弾を仕掛け、大勢の人の生活を脅かそうとした事実は誰に知られなくても、他ならぬ自身の胸に打ち込まれたままになる。こびりついた心の錆は緩やかに侵蝕し、いつの日か堪えきれない苦悩をもたらすだろう。十年後、より強い苦しみに喘ぐぐらいならば、今、潔く去るべきだと屋代は考えていた。
波多野の声が響く。「お前は、他人に期待しすぎだよ」彼は発破をかけていたのか、生き方を諭していたのか。その言い回しからは意図を読み取れず、また、反論もできなかった。
言葉にしなくても相手が自分の心を察してくれるのではないかと期待していたのは事実だったからだ。コミュニケーションに制限があった時代は表情や仕草から相手の感情を読み取る能力が重要だったが、しかし、金銭の負担なくいつでも誰とも繋がれる現在では伝達する能力が、あるいは伝達しようとする意思が何よりも必要になっている。
その方法を教えてくれなかった両親を責めようとは思わない。学ぶべき関係性の中で学べなかっただけに過ぎないのだ。
「何かを作るってのはこの上なく素晴らしい」と島田は断言した。今からでも新しい自分を作り上げるべきなのか? だが、凝り固まった思考を作り直すにはもはや手遅れとなってしまっている。
だからせめて痕跡を残そうと考えたのだ。もし、これから行う爆破によって人々の生活が一変し、幻想に近い風景が取り戻されるのだとしたらきっとその中の誰かが自分の存在を許し、冗談交じりに評価してくれるのだろう。
屋代が欲していたのはそれだ。
誰かに必要とされたかった。
親に見捨てられ、周囲に溶け込めなかった屋代は誰からも求められない劣等感と知識や能力に由来する優越感、その相反する自己評価の間で揺れ続けてきた。そして、歪んだ価値観は際限なく自己増殖を続ける。
浅井、お前に出会っていなかったのならこんな気持ちに苛まれはしなかったのか?
屋代は目を瞑り、彼と過ごした日々を思い出す。
必要とされる喜びに気がついてしまったのは彼の存在がきっかけだった。他人にとっては取るに足らない出会いなのかもしれないが、屋代にとって、浅井との出会いは衝撃的な出来事だった。彼は偽らない屋代という存在を受容し、評価した。もし、彼がいなかったら屋代は孤独という事実すら認識することなく生きていたはずだった。周囲を見下し、自己を省みることのない内面世界に沈み込んでいたに違いない。
なあ、浅井――屋代は胸中で問いかける。
お前がどうして連絡してこなかったのか、もう訊こうとも思わない。お前にはお前の理由があったのだろう。ただ、お前は俺の行動をどう思うだろうか。あのときのように俺を受容してくれるだろうか?
十年ぶりに再会した友人は何一つ変わっていなかった。直感と閃きを尊重し、よいと感じたものを懸命に他人に理解してもらおうと努力する。この社会の象徴である天候管理局に勤めていながら、決して迎合せず、突き進む姿勢を崩していなかった。
屋代は浅井のおかげで最後の決心ができていた。
間違っているのは俺たちじゃない、と呟く。この国が間違っていたのだ、と。
そして、ここにいる限り、まともに生きることなど出来はしない。
――自分は、彼のようにはなれないのだ。
身体が震える。肺が微細な振動を続け、筋肉が意味もなく弛緩と硬直を繰り返す。鼻の奥につんとした異物感を覚えた。細く長い息を吐く。皮膚がざわつき、後頭部が熱くなった。
あとはこの行動に意味があることを信じるだけだった。
ゆっくりと瞼を上げる。
時間が来ていた。屋代は視界に表示されている起爆アプリケーションをクリックする。ジェスチャしてください、という文字が躍った。
真っ直ぐ腕を空に伸ばし、南中で輝く太陽を隠すように手を広げる。
浅井とした他愛もない会話を思い出す。かつて、彼は頭上に広がる屋根、そこに映し出された空を指さしながら「爆破でもできれば」と言った。あのとき考えていたとおり、青春はどこからも飛来してこなかった。
屋代は太陽を掴むかのように拳を握りしめた。ゆっくりと腕を降ろす。意図せず、唇を噛みしめる。最後のジェスチャを行う瞬間、浅井と食事する約束を果たせなかったな、と思い出し、小さく苦笑したところで視界の文字表示が明滅した。
――ジェスチャを認識しました。
これであの空がない場所に行ける。あの空さえなければ、自分だけは変えられる。
どこかで苛烈な爆発音が響いた気がした。妄想に過ぎないが、足下が揺れる。
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