厳密に確定された落下地点

        【屋代 6】



 最後の仕事が終わった。

 幾度となく進めた作業――道路を開き、重機で食料供給管を引き上げ、爆弾を取り付けた管と入れ替える日々の連続が、終わった。これですべての〈蜘蛛の糸爆弾〉がこの国の地中に埋められたことになる。それを知らない非正規雇用の労働者は「お疲れさまでした」と溌剌とした笑顔で屋代をねぎらった。


 会社へは寄らなかった。翌日の市民大会に向けて壮行会が開かれている頃で、わざわざ水を差そうとも思わなかった。社員の入れ替えが激しいとはいえ、工事責任者の一人が任期途中で退職するのはそうあることではない。特にエラに見つかると面倒な事態に発展する予感がしてならなかった。口の軽さに比例して彼女は耳が早い。屋代が退職したことも伝わっているはずだった。


 自宅に帰り、空っぽの部屋を軽く掃除してから起爆プログラムを確認していると耳元で骨伝導装置が喧しくがなり立てた。予期していたとおり、エラからの着信だ。音を消して彼女が諦めるのを待つ。

 根比べは三分ほども続いた。コールがなくなり、安堵したところで今度はメッセージが届いた。諦めの悪い奴だ、と舌打ちをする。視界の端で手紙を象ったマークが明滅するのを見て、そのまま削除しようかとも思ったが、結局開くことにした。


『明日、会場で』


 彼女にしては簡潔な文章に目を滑らせ、返信をせずにウインドウを閉じる。

 市民大会の会場に行くつもりなどなかった。

 会場に赴くことで決意が変わるはずもないが、だからといって、積極的に楽しめるわけもない。彼らは「こうなりたかった自分」の一部だ。理想と現実の間に横たわる絶望的な隔たりを突きつけられるのが屋代には恐ろしくてならなかった。

 時期の悪さと保てなかった一貫性を悔いる。

 もし明日にでも起爆装置を作動させたら、市民大会のために東奔西走してきたエラの努力が水泡に帰してしまう。彼女と関わりさえしなければ懊悩する必要などなかったが、その事実は覆せない。せめて彼女に迷惑をかけないよう、市民大会終了後に計画を実行するのが最低限の礼儀にも思えた。


 屋代は溜息を吐き、推敲したプログラムをチェックソフトにかける。挙動には問題がなく、通信装置にも不具合はない。

 準備はすべて整った。

 あとは時期を待つだけだ。

 小さく笑い、屋代はキッチンへと向かった。街には食品の販売店がない以上、これに頼るしかないのだ、と食料供給機を睥睨する。おもむろに操作し、ほどなくして届いた食材を切り分けて夕食の調理を始めた。


          〇


 翌朝、ドアを叩く音で目が覚めた。

 夢と現実の判別ができず、幻聴と思い込もうとしたが、音は一向にやまない。オートロックのマンションでなぜ扉がノックされているのか、理解できず、悪い予感が急速に膨らむ。警察が計画を嗅ぎつけたのか、と怯み、居留守を決め込むとそのうちに聞き覚えのある声色が響いた。


「おい、屋代、朝だぞ」


 遠慮のない声量に屋代の思考から錘が取り払われる。時計を確認する。九時前だ。社会人たちが労働に勤しみ始める時間ではあったが、誰かを訪問するにはいささか早いとも言える。


「早く出てこいって」


 外にいる波多野はドア越しにも明瞭な輪郭を保って聞こえる大声で叫んだ。迷惑という言葉を知らない態度に閉口し、屋代は身を起こした。

「いったい何の騒ぎだ」とドアを開き、波多野の装いを目にして、固まる。

 彼はお世辞にも似合っていない恰好をしていた。夏らしいスポーツウェアだ。胸には仮想現実製作会社のマークが刻まれている。思考を巡らせるが、現状を把握できない。訊きたいことはいくつもあったが、波多野はそれを許さないような、これ以上ない笑みを浮かべていた。


「遅刻だぞ。もう開会式が始まる」

「何を言ってるんだ」付き合いきれず、腕を引こうとしたところで咄嗟に掴まれる。振りほどこうとしたがびくともしなかった。「波多野、お前、運動は愚か者のすることだって学生の頃に言ってただろ。なんで市民大会なんかに参加してるんだ」

「昔の会社のやつに頼まれたんだよ。それでチーム表を眺めてたらお前がいるじゃねえか。面白くなって会いに行ってみたら来てないって言われてな」

「だからどうした」

「うるさい女と話して、なんやかんやあって、俺が連れてくることになった」

「正気ではない」全身を呆れが包む。

「だいたいな、島田には別れを告げたくせにこの俺に大した挨拶してないのが不満なんだって。早く準備しろよ」


 波多野は身体をドアの隙間に滑りこませ、屋代を奥へと追いやる。どれだけ拒んでも引きそうにない圧力に負け、着替えを開始する。


          〇


 この国にこれだけの人がいたのか、と屋代は会場の外を賑わせる市民を目にし、たじろいだ。集まっているのは労働に従事するほど活動的な人間たちだ。付近は祭の様相を呈しており、ちょっとした料理や菓子を提供する屋台までもが出店していた。普段の街にはない喧噪があちこちで生まれている。芋を洗うようにごった返す人の群れに酔いそうになるほどだった。

 波多野の生み出す間隙を縫うようにしてついていく。試合予定がない者がこぞって外にいるだけで会場内は大したことがないかもしれない、と高をくくっていたが、すぐにその予想は裏切られた。

 笛の音、喝采、応援、怒濤のように押し寄せる音が身体を押し返す。

 少年時代に参加したこぢんまりとしたイベントとはまるで違う光景がそこにはあった。観客席は応援団と観客で埋め尽くされており、その身じろぎで波ができている。階下にある三つのコートでは選手たちが縦横無尽に駆け回っていた。


「こっちだ」


 先導され、観客席の中央にある階段を降りていく。手を伸ばせば左右の壁に届きそうなほどの狭い通路は静寂と喧噪の中間にあり、冷房のせいか、空気が冷たく感じた。上から降ってきた歓声がピンボールのように跳ね、鼓膜を忙しなく揺らす。

 選手控え室、と表示された扉の前に到着すると波多野はノックもせずに扉を開けた。試合を待ち構えている選手たちが熱気を発しているのか、暖められた空気が頬を撫でる。


「あ、屋代くん遅いよ! 開会式、すごかったのに!」


 和気藹々と談笑する元同僚の中央でエラが手を振り、入り口まで駆け寄ってきた。ウォームアップを済ませてあるのか、額が汗ばんでいた。


「……来る気なかったでしょ」

「会社を辞めたずぶの素人を本当に駆り出すとは思ってなかったんだ」

「会社を辞めるほど来たくなかったの?」エラは冗談めかして、目を細める。

「そうだよ、こっちも必死で逃げようとした」

「言ったでしょ、私からは逃げられない、って」


「考えが甘かったよ」と認めると彼女は微笑み、屋代の手首を掴んで戻ろうとする。その途中で「波多野くん、ありがとう。約束通り、今度そのお店連れて行ってね」と頭を下げた。波多野は「感謝しろよ」と恩着せがましく言って、自分のチームメイトのほうへと歩いて行った。

 目の前には数えるほどしか会話をしたことのない同僚たちがいる。彼らは全員が全員、拒絶することなく屋代を迎えた。囃し立てられ、輪の中に加わる。誰かが「最後の仕事だな」と言うのが聞こえた。


          〇


 一回戦の相手は強豪チームである。らしい。入念な作戦会議の様子から、屋代は出場機会が与えられるはずもないと肌で感じていた。そのため、試合開始前の練習への参加はほとんど形だけにし、既にベンチの端に腰を下ろしている。

 居心地が悪い。

 屋代はエラに渡されたボールを膝の上でいじくりながら、隣に座る女を一瞥した。試合に出場する気もないのにベンチにいる不相応さにはそれほど気後れしない。気まずさを増大させているのは見知らぬ女が横にいる圧迫感だった。


 静謐な雰囲気を持つ女だ。意志を感じさせる冷たい瞳と、長い黒髪が印象的ですぐに社員ではないと判断することができた。表情が薄いながらも鼻筋の通った彼女は良くも悪くも人目を引く存在で、社員であるならば覚えていない理由がなかった。


「何か用?」


 視線を感じたのだろうか、彼女は言葉を発する。その澄んだ声は歓声にかき消されることなくするりと鼓膜に浸透する。心地よさを伴う凜とした発音だった。


「いや、別に」屋代は大げさに手の中でボールを回す。「知らない顔だったから見ただけだ」

「私も場違いだってわかってる。見て行け、ってエラに言われただけだから」


 弁解めいた口調ではなく、だからこそ合点が言った。おそらくは彼女がエラの妹分なのだろう。外見からはまったく繋がらないが、疎んじながらエラの要求に従う様子には慣れたものがあり、同情と共感を抱いた。

「ん」と、その瞬間、屋代は声を出していた。

 ならば、彼女がエラの言っていたバンドのメンバーということになる。熱狂や騒々しさとは結びつかない彼女の静けさに違和感を覚え、ボールを弄る手の動きが止まった。思い浮かべていた、傲慢を絵に描いたような若者像とは似ても似つかなかった。


「もしかして」と屋代は確かめる。「開会式に演奏したとかいうバンドの?」

 ぴくり、と無表情な彼女の細い眉が動く。

「聴いてくれたの?」

「いや、聴いてはないんだけどな」

「そう」と女は平坦に返す。「それは残念」

「興味はあったが、もっと、なんというか、勘違いした若者の集団だと思っていた」

「的外れではないかな。勘違いしているのは当たっているかもしれない」


 コートではエラがスリーポイントシュートを放っていた。高く上がったボールが緩やかに回転し、そこが居場所であると認識しているかのように、リングの中央に吸い込まれていった。ベンチに向けてVサインを作っている。なかなかやるでしょ、と彼女は胸を張った。


「自分で言うことではないな」

「そうね」

「エラだけじゃなくて、あんたも」屋代は再び隣に座る女に目を向ける。「勘違いって考えているなら、どうして他のやつらみたいに仮想現実でやらないんだ?」

「そうできればよかったんだけど」


 彼女は曖昧に濁し、それ以上の弁明はしなかった。他の誰かに何度となく指摘されていたのかもしれない。そして、その口ぶりからはなんらかの事情が窺え、屋代は彼女の言う勘違いがそこにはないと悟った。


「遊離症か」それ以外には考えられなかった。「面倒だな」

「まあね。もうしばらく仮想現実に潜ってないからなんとも思わないけど」

「それでもよく続いたな。大抵の人間は諦める」


 コートではシュート練習が続いている。一つしかないゴールを目指してさまざまな方向からめいめいばらばらに飛んでいった。誰が放ったのか、直線的に宙を進んでいくボールが目につく。リングの内側を回転した球はやがて勢いに弾き出され、床へと落ちていった。


「信じていたから」


 女は正面にあるステージを愛おしそうに見つめた。一時間ほど前に行われた彼女の演奏がどのようなものだったか、屋代には知る術がない。だが、おそらくは素晴らしいものだったのではないか、と想像した。人々が手を振り上げ、身体を震わせ、興奮を叫ぶ映像がはっきりとした輪郭を持って浮かび上がる。


「私の信じていた運命がそこにあった」

「運命?」


 その単語に屋代は顔を顰め、気を抜けば漏れそうになる溜息を堪えた。まさか目の前の女がロマンチシズムを押しつけるような、使い古された言葉を使うとは考えていなかった。その気もないのに皮肉が声に滲む。


「運命とはずいぶん陳腐だな」

「そうかもしれない。けど、私は確信してるから」

「運命を?」

「ええ……私たちの行動だとか、未来は決定づけられている」

「それは」屋代は苦々しい物を噛んだ気分に陥った。「寂しい考え方をするな。決定論とか予定説、カルヴァンとかスピノザだろう?」

「誰それ、どこのバンドの人?」

「ミュージシャンじゃない、中世の神学者だ」

「良志が好きそうね」

「良志?」

 知らない名前に訊き返すと、女は臆面もなく「うちのバンドの人」と答えた。「そういえば似たようなことを言っていた気もする」

「だろうな」

「でも、私にはそれがわからない。運命が決まっていることのどこが寂しいの?」


 女はじっと屋代の目を見つめる。そこにあったのは純粋な疑問だった。まるで理解できない、と批難されているような気分になる。答えられればそれも消え去ったかもしれないが、咄嗟には彼女を納得させる論理的な解答は出てこなかった。


「私たちの行く末は決定されているけれど」と女は続ける。「結局それを知ることなんてできないんだから同じでしょ? 馬鹿みたいに信じて努力するしかないじゃない」

「行動が決定されているならその努力も運命の範疇なんじゃないか?」

「そう。だから、努力している運命を信じてその通りにすればいいだけ」

「すべてが決められていると思うと意気消沈しても不思議ではないがな」

「なんで?」

「え」

「たとえば、映画の登場人物は結末が決まっているからって自棄やけにならないでしょ」

「それとこれとは」屋代は女の迷いのなさにたじろぐ。「……話が違う」

「同じだと思うけど」


 彼女は強く断言する。その口調には一分の隙もなく、反論すら許されないような気がした。女が言う「運命」とは哲学や宗教的な概念ではない、と気付く。

 それは彼女の信念だった。


「少なくとも私はずっと待ち望んでいた結果の途上にいる。信じていたからこそ、チャンスを与えてもらうことができた」

「……物好きなやつがいるものだな」

「浅井が物好きであることは否定しないけど」

「……浅井?」


 漏れかけた苦笑が消え、反射的に、言葉を反復している。

 個人を特定できるほど珍しい名字ではなかった。だが、音楽を演奏する人間からその名前が出たならば話は違う。ずっと連絡を取っていなかった無二の友人との日々が、確かな質感を伴って目の前に沸き上がってきていた。

 校舎の裏に降り注いだ日差し、疲労感と出会いがあったマラソン大会、他愛のない会話、郷愁が血管を通り、全身に充満していく。奇妙な確信に「嘘だろ」と声に出さず、呟いていた。

 嘘だろう、何をしているんだ、浅井。


「浅井を知ってるの?」

「いや……俺の知っている浅井と同じか、わからない」


 本心ではないくせに屋代はそう答える。現実で、ロックバンドの世話をする向こう見ずな「浅井」などそう何人もいるはずがなかった。しかし、そうだと信じるあと一歩の勇気がない。期待すればするほど落胆は大きくなる。余計な行動を起こして胃に沿わぬ結果に直面するのはもう十分だった。

 だが、彼女は、屋代の諦念をいとも簡単に払いのけた。


「話してくれば?」

「え」

「確認すればすっきりするでしょ?」それが当然とでも言うかのように彼女は首を傾げる。「主催者にお礼しに行くって言ってたから、たぶんそっちに」


 女が喋り終える前に、屋代の身体は動いていた。立ち上がり、出入り口へとフロアを駆け抜ける。後ろからエラに呼び止められたようだが、内容ははっきりと聞こえなかった。

 自分でもなぜ行動を起こしたのか、言葉にできない。だが、これが最後の機会だとは感じていた。今を逃せば、きっと、彼との間にある隔たりが確固たるものとして修正できなくなり、後悔として刻みつけられてしまう気がしたのだ。

 心残りがあった。

 躊躇と自分勝手な決めつけが積み重なり、身動きが取れなくなってしまった。「爆破でもできれば」などという彼の思いつきを現実にしようとしていたせいだろうか、もし浅井が変わってしまっていたとしたら恐ろしく、彼と会うことを必要以上に避けていた。


 だが、と屋代は唇を噛む。

 浅井こそが自分にとっての始まりだったのだ。

 なあ、浅井。お前は何をしているんだ? 音楽にしがみついて、自分の好きなものを広めようと四苦八苦しているなんて、あのころとまったく変わっていないじゃないか。

 ――立つ鳥後を濁さず、だ。


 案内表示に従い、屋代は大会本部へと走り続ける。人とぶつかり、息が切れ、会えずにいた友人が本当にいるかもわからなかったが、足を止めなかった。これがもし彼女の言うところの運命であるのなら逃してはならない。信じるしかないではないか。

 そして、屋代は大会本部から退出する旧友の姿を、捉えた。

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