第二章
データ人間
【屋代 3】
「なあ、浅井、俺たちがおかしいのか? それとも他の奴らがおかしいのか?」
校舎裏の日陰でぽつりと漏らした呟きは遠い喧噪に攪拌された。穏やかな昼下がり、雲が微睡みのさなかにあるような速度でたゆたっている。級友たちから逃げるように教室を飛び出し、自分で作った弁当を食べ終わったところだった。隣に座る浅井は支給された食料をのそりのそりと口に運んでいる。彼は咀嚼しながら、さあなあ、と鷹揚に答えた。
「この国はさ」浅井は茶を飲んで、再び箸を動かす。「五十万人くらい人がいるだろ」
「どんどん減って、そのざまだ」
「そのうちの九割以上が仮想現実の中で暮らしてるわけだろ」
「まずそれがおかしい。結局俺たちは物理的存在で、メシを食ったり、小便したり、セックスなり、そういった生理的な行動からは逃れられないのに、どうして中途半端に肉体と精神を切り離そうとしてるんだろうな」
この国だけが、ねじ曲がっている。屋代は常々そう思っていた。
他国は発展する科学と人間らしい生活を天秤にかけて釣り合うように苦心した。しかし、技術立国を掲げていた日本だけが科学をよりよく生きるための方法として活用することができなかった。それは、この国の前身となった自治体を生み出してしまったからかもしれない。過ちであると思い知らされた頃にはもはや引き返す道はなかった。日本にできたのは膿を一点に集め、己を凝縮し、身を遠ざけることくらいだった。
人面瘡という単語が黒々と浮かぶ。
何かの拍子にできた傷が、菌と化した科学によって化膿し、意志を持つ。治癒することを諦めた当時の日本政府は地方分権の名の下にこの街を管理下から切り離した。それ以来、この国は科学という人面瘡に支配されている。
第一次産業への従事を撤廃し、オートメーションによる安定した食料供給と高効率の資源再利用を謳った科学由来の夢の国は一部の熱烈な科学信奉者たちから大いに持て
「俺はさ」浅井は視覚補助デバイスに映し出されているのだろう、バーチャルコンソールを操作しながら語る。「お前と違って仮想現実に出入りしてるからそこまで偉そうなこと言えないんだけどさ、結局、方向性の違いだと思うんだよ」
「方向性の違いで国家はここまで拗れるのか」音楽性の違いを理由に解散するバンドじゃあるまいし、と屋代は唾を吐く。
「国家の話じゃなくて、人の集合体の話」
「同じようなものだろ」
「そうかもしれない」
「それにしたって、目指すべき場所が違うからって人は簡単に決別できるか?」
「できるよ」と浅井は断言した。「結束が強いなら人は同じ場所を目指す。考え方一つで人は簡単に他人を排斥するよ」
自信に溢れた物言いに、屋代は「話が違う」と反論しようとしたが、遮られた。彼は数学が苦手なくせにまるで我が理論とでも言うような口調で「対偶もまた真なり」と付け加えた。あまりに甘い論理性だ。「命題が真ならな」と指摘すると、発言がずれていると気付いたのだろう、浅井は一度顔を伏せた。それから、言いにくそうに口にする。
「なんというか、お前がいい例だ」
「……確かにそうだな」
今度は同意し、鼻で笑う。親交を深める苦悩に比べれば周囲に
「で、『どうして中途半端に肉体と精神を』って質問の答えだけどさ、動物って進化するだろ?」
「進化とは大きく出たな」
「この国の人は進化するために必死なんだと思う。物質からの解放だよ。もし、人間をデータで再現できたなら大きな進化じゃないか」
「それは生命の定義から外れないか? いいことだとも思えない」
「定義なんて言ったもん勝ちだよ。それにいいことだってたくさんある」
「たとえば?」
「仮想現実にはバグがない」
それは冗談にしては看過できない言葉だった。現状とも、心情とも異なる。
「それこそ数え切れないだろ。エラーの話はたびたび耳にする」
「でも、内部にいる権利者の手で修復されるだろ。それに比べて現実は修復できないバグに溢れてる。あんまり言いたくないけど、医学と技術が進歩しても遺伝子性の疾患は完全にはなくなってないし、後天的に煩う病気だってある。矛盾だらけの人間関係だとか社会制度もバグと言えばバグだ」
「わからなくはないが、それが進化なら生殖はどうなるんだ?」
「データだから不老不死もできるんだろうけど、子ども作るなんて簡単だよ。特定の二人のデータからある要素を抽出して合成させればいい」
「データが消失したらどうなる? サーバが物理的に破壊されたら絶滅じゃないか」
「そんなの避難先を確保すれば問題ないし、それに、たとえそのすべてがなくなったとしてもどこかで俺たちには見えない世界で生き続けると思うよ。見えなくたってきっと彼らは存在している」
「おいおい、話が見えなくなってきてるぞ。哲学的な話になってるじゃねえか」
「あれ」と浅井は呟き、それから「本当だ」と大笑した。行き当たりばったりもほどがあると屋代は憤慨する。彼の突き進むような態度は美点であると誉めた覚えがあったが、それにしてもすべてが手探りに過ぎる。浅井には思いつきを過信する傾向があり、「これだ」と信じれば犯罪行為にすら手を染める予感がして、気が気ではなかった。
「どっちにしてもさ」浅井は食べ終えた弁当の容器をまとめながら言った。「今はどっちが正しいのかわからないけど、ずっと未来になれば答えが出るよ。進化の道筋が合ってるのか、それとも見当違いの方向に舵が切られてるのか。だから、俺らがおかしいのか、他の奴らがおかしいのか、きっと今はわからない。それでいいと思う」
「そんなの保留じゃねえか」
隣にいる浅井は深く息を吸い込みながら空を見上げた。天頂で輝く太陽に目を細め、彼は「あの空がなければ何か変わったのかな」と呟く。「爆破でもできればいいのに」
そこで違和感が生まれる。
浅井はこんな発言をしていたか? 今はいつだ、と自問する。高校生の自分はこれほど大人びていたか、浅井はこんな性格だったか、そもそもこんな会話をしたことがあったか?
足場が揺らぐ感覚にこの風景が虚像なのではないかと思案する。「浅井」と呼びかけようとしたとき、脳が揺れた。睡眠から叩き起こされたかのように視界がぼやける。明滅する風景を必死に手繰り寄せ、我に返った。
屋代の周囲にあるのは見慣れた工事現場だった。重機が唸り、道路に空いた穴から灰色の食料供給管を取り出している。クレーンが軋む音、かすかに舞う砂塵の臭い。近くで部下が戸惑いを露わに屋代の名前を連呼していた。
遊離症による記憶と意識の混濁だと気付く。
〇
会社のエントランスに一ダース分の子どもたちが並んでいた。
無理に習慣としている工具の整備はつい先日行ったばかりで、また、改めて爆弾を補充する必要もなく、屋代は工具箱をロッカーに戻すために会社へと立ち寄ったところだった。広々としたエントランスの一画には会社の歩みを展示するスペースがあり、そこに小学生と思われる少年たちが立っている。その目線の先には引率の教師と広報の社員だろうか、女性が二人いて、投影された画像を見せながら事業の説明をしているようだった。
この会社が社会科見学の目的地となるのは珍しいことではない。多くの場合、公益性の高い企業が選ばれるため、食料供給管の保全事業や街の緑化事業を手がけているこの会社はうってつけであるのだ。とはいえ、実際に出くわしたのは久しぶりだったため、どうにも落ち着かない。通り過ぎる際、そうするつもりもなかったというのに聞き耳を立ててしまっていた。
「このようにして、皆さんのおうちにごはんが届くわけですね」広報の女性はすらすらと台本を読み上げるようにして言う。「このシステムは皆さんのお父さんやお母さんが皆さんと同じ歳くらいのときにはあったんですよ」
生きるために食事が必要となる――その意味が後退し、義務としての側面を孕み始めたことがすべての発端なのではないか。屋代はそう考えていただけに子どもたちの冷たい反応を予測した。しかし、上がったのは素直な感嘆だ。それがなぜだか少し嬉しく、同時に寂しさも覚えて、屋代は顔を伏せ、エレベーターへと乗り込んだ。笑っているのか、嘆いているのか、自分でもわからなかった。
一人で乗ると広いエレベーターは地下へと向かっていく。
食事を楽しみにすることができる幸せな子どもたち。彼らも、彼らの親も羨ましく思う。女性との交際経験は何度かあったが、その先に待ち受ける結婚生活は屋代にはどこまでも非現実的なものだった。他人とともに暮らし、子を為し、育て、年齢を重ねていく――この国で暮らし続けたとしてその営みをまっとうできる自信などない。正解も模範も知らない以上そんなものはもはやおとぎ話と言ってもよかった。
そして、それはきっと特別な厭世観ではないだろう。
昨今の人口減少は著しく、合計特殊出生率が一.〇〇を切って久しい。そのため子どもを産むだけで金銭的な援助を受けられる制度があったが、逆用する者も当然いる。換金するかのように子どもを産み捨てる人間さえいるのだ。屋代は両親がそうだとは考えていなかったが、それでも一つの確信を持っていた。
結婚や家族という幸福をどれだけ薄めても自己の体験とは重ならない。
自嘲気味に笑う。それから、両親が今どのように暮らし、どのようなことを考えているのか、それを気にかけていることに気付き、自分の甘さに苛立ちを覚えた。じわじわと自己嫌悪が体内で沸騰し、喉が詰まる。硬く擦り合わされた歯の音が頭蓋に響く。
もう彼らの線と自分の線が交わることはないのだ、そう言い聞かせるように心中で反復したが、あまり効果はなく、そのうちに到着を知らせる合成音声が甲高く耳を刺した。
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