〈エイブラハムの樹〉

 浅井? 知り合い? と滝に集まる視線をよそに、滝はぴょんとステージから飛び降りる。そして、小走りに浅井の元へと駆け寄ってきた。


「浅井さん、何してるんですか、こんなところで」


 それまでの力強い演奏とはほど遠い少女らしい仕草に、感嘆したものか赤面したものか、悩む。「何って」自分の装いを目にしてさらに悩んだ。

 汗まみれのスポーツウェアで訪れる場所ではなかった。店内に備えつけられたステージや機材から察するに小さなライブハウスとして使用されているのだろう。醸成された音楽の香りに羞恥がこみ上げてくる。


「えーと」しどろもどろになりながら、言葉を探す。「偶然、看板を見つけて」

 すると滝は喜色を満面に浮かべて「あれで入ってきてくれたんですか!」と歓声を上げた。それからステージへと振り返り、弾んだ声を出す。

「ほらあ、効果あるんだって!」

「三日で一人じゃねえかよ」楽器の群れからようやく抜け出た金髪の男が苦笑する。

「それは効果があるというのか?」ギターの男が首を捻る。

「ないよりはマシだろうけどさあ」ボーカルの少年は座り込んで眉を上げる。

「装飾をちゃんとしてたら、もっと人、来てたかも」とドラムを叩いていた長髪の女が擁護すると「そうだよー、やっぱりやるべきだったよ」と滝が悔しそうに唸った。

「効果はあったんだろうけど、あまりにも無愛想な看板だった」


 浅井は店の前の看板を想起して、頬を掻く。あの看板では客よりも悪戯好きな子どもを引き寄せるほうに一役買いそうではあった。


「それで、滝」長髪の女が椅子から立ち上がり、言う。「知り合いなの?」

「うん、この前〈ヤーン〉に来たお客さん、の、浅井さん」

「バイト先に来た客が知り合いに含まれんのかよ」

「滝ならあり得るだろう」

「滝は認定ラインがおかしいから親友に数えてる可能性もあるよ」

「自己紹介して話して、また会ったんだからじゅうぶん知り合いだと思うけどなあ」

「わかったわかった」


 あちこちから飛び交う会話のあと、金髪が降参という具合に両手を挙げた。彼が「じゃあ、任せる」と言って楽器の森の奥へと帰って行くと滝が「はあい」と快活に答えた。「浅井さん、こちらにどうぞ」と手を掲げて歩き始める。

 彼女の歩の先、店の隅には猫の額ほどの、とってつけたようなカウンターがあった。奥と手前に簡素な折りたたみ椅子が、これも申し訳程度に二脚だけ置かれていて、浅井は手前に座るように促された。カウンターが小さいせいで鼻先が触れ合うような距離で滝と顔を突き合わせる形となる。どこで手に入れられるのだろうか、古ぼけたディスプレイが卓上を占拠していたため、より狭く感じた。


「それで」演奏を中断して休憩に入った他の面々を横目で見て、浅井は訊ねる。「ここは何の店?」

「見ての通り、ライブスペースとして営業してるんですけど、それだけじゃなくてですね」

 はにかみ、ぴんと指を立てている滝に壇上から野次が飛ぶ。

「使うの俺たちしかいないし、店かどうか疑問だけどね」

「もう、うるさいなあ」彼女はボーカルの少年に声を返したあと、小さく咳払いをした。「あとはなんていうか、カウンセリングというか」

「カウンセリング?」


 音楽とはかけ離れた言葉に面を食らう。


「カウンセリングって言葉がちょうどいいのかはわからないんですけど、お客さんの好みの音楽を聴いて、その人が好きそうな曲を紹介したりだとかをやってるみたいです」

「みたい、ってことはきみがここで働いてるわけじゃないのか」

「お客さん来ないですし、掛け持ちだと学校もあるから練習できないんですよ。ここで働いてるのは美波みなみ良志りょうし桐悟とうごくんだけです」

「えっと」


 美波というのがドラムの女性であることは予想がついたが、他の二人を判断する材料がない。滝もそれを承知していたようですぐに説明を始めた。


「良志がギターの愛想のない人で、桐悟くんは鉄琴を弾いてた金髪の人です。美波がドラム、で、さっきうるさかったのがしゅんって言います。隼は〈ヤーン〉で一緒に働いてるんですけど、覚えてません?」

「いや、ごめん……でも、それなら接客はここで働いてる彼らがすべきなんじゃないの?」

「そこはほら、わたし下っ端ですし……あと寂れてるから自由っていうか」


 確かに店内には他の客の姿はない。音楽的カウンセリングを行うというカウンター付近も雑然と物が積み重ねられていて使用されている気配はまるでなかった。机に置かれたディスプレイにもうっすらと埃が被っている。

 その視線を誤解したらしく、滝の顔が綻んだ。


「珍しいですよね、今どき。わたし、教科書くらいでしか見たことなかったです」

「ほとんど使わないからね」


 今や物理ディスプレイなど前時代の遺物と言っていい。そのような骨董品を後生大事に使っているのは中央管制塔くらいのものだった。ほとんど建前の節約意識と上辺だけの倫理観で中央管制塔は、特にほとんどシステム化している天候管理局は未だに物理コンソールを使用している。天候管理局の業務内容は取るに足らないものではあるが、職員としては煩わしいことばかりだった。

 とにかく、その役所を役所たらしめている体質のせいで、浅井は物理的ディスプレイに慣れてはいる。しかし、わざわざ誇示することでもなく、適当な相槌を打って会話を流した。


 滝は上機嫌でディスプレイの画面に触れる。光が灯り、稼働が再開したディスプレイに表示されているのは浅井も会員登録しているコンテンツ配信サイトだった。ランニング前に垣間見た情報の激流が甦り、喉の奥から咳が漏れる。しかし、その一方で需要はあるかもしれないと思った。情報が氾濫はんらんし、大海を形成している世の中において先導者なしで嗜好に合致する作品と出会うのは難しい。どんなコンテンツであれ、紹介という仕事は成立する気もした。

 とはいえ、浅井は自身が欲しているものを、訊ねずとも自覚している。

 たった今味わった彼らの曲が欲しい。ここで彼らの曲を手に入れなければ一生後悔するぞ、という予言じみた声が胸の中で反響していた。

 それを知らずに、滝は画面を操作している。


「でも、浅井さん、わたしよりも詳しそうだから何を紹介すればいいんでしょうね。桐悟くんとか美波はロックからクラシックから民族音楽からジャズとかブルースとか、雑食甚だしいんですけど」

「前も言ったけど、俺は聴くほうが専門だし、大したものでもないよ」

「昔はやってたんですよね」

「かじってただけだよ」

「あらら」

「四方八方に手を出したけど、何かを作ることは諦めたんだ」


 滝の動きが止まる。視線がぶつかる予感がして浅井は咄嗟に目を逸らした。

 自分の不器用さや芸術的才覚のなさは学生時代に染みいるほど痛感していた。楽器を演奏しても奇妙な音の連なりにしかならず、絵を描いても同情混じりに一笑に付されただけだった。あれでもない、これでもない、と創作と呼ばれる行為はあらかた試したが、そのどれもが熱意に伴わない結果に終わっている。

 報われない努力に煩悶し、やりきれない気持ちになったことは数え切れない。


「……反応しづらい話にしちゃったな、ごめんごめん」滝が返答に困っているのは明白で、浅井は気にしていないように装い、謝罪して、続ける。「でも、嫌いにならないでよかった。こうしてきみたちの音楽に出会えたんだから」

「え?」

「お世辞じゃないよ。掛け値なしに本当に素晴らしかったと思ってる」


 真正面からの賛辞に慣れていないらしく、滝はあからさまに照れる。「そんな、未熟者です」その謙遜を無視して、浅井は言った。


「なあ、きみたちの音源ってないの? 俺もこのサイトに登録して結構漁ってるけど遭遇したことがないんだ」

「あー……」


 滝は答えにくそうに唸り、ステージ上で佇むバンドメンバーを一瞥した。それから隠すようにディスプレイの角度を変える。浅井はなんらかの事情を察して身を乗り出し、画面を覗き込んだ。


「こういうのに関しては便利だ」

「ですね」


 滝は鈴を転がすような声で笑い、文字を入力した。彼女たちのバンド名である〈エイブラハムの樹〉が検索ボックスに現れ、ボタンを押すと簡素なページが表示される。画像もなく、曲の一覧も空白のままだった。


「浅井さんに会った次の日、思い立って作ったんです……内緒で。仮想現実で活動してないからこっそり録音とかも難しくて、本当に作っただけ、なんですけど」

「なんでそっちで活動しないの?」


 当然の疑問だった。仮想現実内では高価な機材も難しい操作もほとんど必要ない。物質世界で音楽活動に没頭する人間などとうの昔にこの国から消え去ったと思っていた。


「こっちでやるなんて」

「普通じゃない、ですよね」彼女は噛みしめるように、言った。「現実で演奏することに価値を感じているわけじゃないんです。あっちは便利ですしね。ただ、やっぱり、こっちで始めちゃったので微妙な違和感もあったりとか」

「聞いたことはある」


 さらに言えば、体感したこともあった。たとえばギターを弾く指の感触であるとか、サックスを吹く肺の膨張であるとか、そういった肉体的な感覚はまるで違う。聴衆にとっても同様だ。ウェブルーム上の音楽体験では先ほど感じたエネルギーとしての音は削ぎ落とされ、単なる情報と変わってしまう。


「それに」

「それに?」

「えっと、美波と桐悟くんが遊離症に罹っちゃって」


 遊離症。

 浅井は意図せず呻いていた。

 発症率一パーセントほどの現代民族病の一つだ。特に若者に多く現れる症状で、仮想現実へのアレルギーと言い換えてもよい。罹患すると仮想現実内での幻覚や幻聴、感覚の消失が起こり、重度になると意識や記憶の混濁などが起こる。ごく稀に現実でもその症状に悩まされる者もいた。

 原因は諸説あるが、ある医学者の言った「気のせい」が有力なものとされている。遊離症には科学的根拠はなく、また、症状が出たとしても仮想現実に触れなければ問題が起こることは少ない。それゆえ現実で生活している人間にとっては縁遠い存在ではなかった。


 しかし、それでも楽曲が公開しない理由としては薄い。荒削りな部分もあるが、勢いがあり、軽快で爽やかな彼らの音楽は大衆に広める価値があり、広まる必然性に溢れているように思えたのだ。パフォーマンスや供給速度が持て囃される世の中ではあるが、それは必ずしも音楽性の優劣には繋がらない。そして、彼らの音楽には世間を黙らせるだけの力強さがあった。

 どうしてだ、と詰め寄りたい気持ちが、弾けそうなくらいに膨らむ。


「仮想空間に活動を移さないにしても楽曲の公開くらい」

「ですよねえ」滝の反応には明確な意志が込められていたが、弱々しい。「わたしも少しくらい誰かに聴いてもらいたいとは思っています」

「じゃあ、なおさらだ」

「でも、大昔みたいに売れなければ食べていけない時代じゃないですし」

「……確かに、継続に価値を置く人もいるけどさ」


 言いながら、浅井は心中で「でも」と強く叫ぶ。継続はこの上なく尊いかもしれないが、滝たちの年齢と熱意でそれを主目的とするのはあまりに性急に思えた。


「それでいいの?」


 自分の言葉に熱がこもり始めていると気がつく。

 悪い癖だ、と自戒しながらも止められない。彼らは浅井とは違い、好きなもので他者に認められるだけの力がある。それを放っておくことはできそうになった。


「誰にも知らないまま終わっても」

「誰にも、って……浅井さんに見つけてもらったじゃないですか」


 滝の言葉には清々しさが滲んでいる。

 その声色に浅井の胸は痛いほどきつく締めつけられた。諦めの混じった清々しさが伝播し、身体が押しつぶされそうになる。

 だめだ、と声なき声を叫び、首を振る。


「いや、俺の存在なんて誤差の範囲だよ」


 自分の賞賛には幾ばくかの意義もない、その偽りのない心情が滝に伝わっている様子はなかった。これほど近くにいるのに、彼女に届くまでにメッセージの中核が削りとられ、当たり障りのない謙遜へ濾過されているようだった。


「そんなことないですよ、嬉しかったです。こうやってみんなと一緒に演奏して、たまに浅井さんみたいに誉めてくれる人がいて、その誰かに聴いてもらうだけで、結構満足だと思うんです、みんな」

「みんな?」料理店での会話が甦る。「きみは?」

「え」

「きみは、そうじゃないんだろ?」


 浅井の指摘に滝の笑みから柔らかさが消えた。彼女は肯定も否定せずに「えっと」と呟いて目を逸らし、仲間たちの顔色を確認するかのように、ステージを一瞥した。


「きみは、誰かに聴いてもらいたいんだろ? 今、そう言ってたじゃないか」

「それは……」と滝はわずかに俯く。「それは、そうですけど、でも、言ったってどうせ却下されますし、別にこのままでいいんです。本当に浅井さんの言うとおりにわたしたちの音楽がいいものならいずれそのときが来ますよ。誰かが聴いてくれます」


 いずれ?

 その一言に、苛立ちにも似たやるせない感情がじわりと滲んだ。

 噴き出したもやが胸を覆い尽くす。不透明な息苦しさが充満している。抑える暇もなく、感情が喉を通った。


「『いずれ』なんて、ないんだ」


 ――この国は距離を失っている。仮想現実システムの発達と食料の自動供給により人々は一日のほぼすべてを自宅で過ごすようになった。距離や資産という制限が取り払われたら人は自分の見たいものだけを見て、聴きたいものだけを聴く。付き合う相手も話が合う人間だけだ。価値観は多様性を保ちながら閉塞的になる。古臭いと揶揄される類の音楽など選択肢にすら入らないのだ。

 その状況下においては「いずれ」など起きないだろう。もしかしたら少なくない人数が彼らの音楽を楽しむかもしれない。しかし、それでは浅井には納得できなかった。


 彼らの音楽は今すぐこの国の、すべての人に愛されなければならない。


 趣味の音楽漁りも限界を迎えていた。真新しさのない新譜、流行すら生まれない淀んだ現状、人々は音楽を味わうことすらせず単なる情報として処理している。飽き飽きと過ごしていた日常はもはや色褪せていて、その中で彼らの音楽はどうしようもないほど色彩に溢れていた。〈エイブラハムの樹〉に出会うために今まで過ごしていたと思えるほどの長い空白の期間だった。

 人生を変える出会いがあるのならば、それが今なのではないか?

 きっとこれは紛れもない転機なのだ。彼らならこの世界を変えられる。

 そして、ふと、波多野が口にした言葉が脳裏を過ぎった。


 ――美しさに出会ったとき、人はしまい込むか、広めるかのどちらかだ。


 浅井は立ち上がり、滝を見据える。彼女は豹変とも呼べる浅井の変化に狼狽し、困惑していた。


「浅井、さん?」


 いずれ、なんてない。

 この茫洋ぼうようたる作品の大海はかすかな光など容易に飲み込むほど暗く、広い。その中で誰もが引き上げてもらおうと必死にもがいている。その波は容赦なく努力を浚っていき、発見を待つ猶予など存在しないのだ。

 浅井は唇を噛む。誰からも認められず、感情を偽って波風の立たないように振る舞う生活がどれだけ辛いか、彼らはまだ理解していない。心が削られていく感触がどれだけ痛く、切ないものか。何をやっても認められなかった人間にとって彼らの悠長な姿勢は腹立たしくすらあった。


「なあ」と浅井はステージに佇む〈エイブラハムの樹〉へと問いかける。「きみたちは、きみたちの音楽を誰かに届けたいとは思わないのか?」


 青春はこの地中の国には飛来しない。

 空を覆う屋根が無慈悲に青春を叩き落とすのだ。かといって、かつてのように違う国の、知らない誰かが偶然〈エイブラハムの樹〉を発見するなど期待するだけ愚かだった。この街にあるネットワークはこの国だけで完結してしまっていて、他の国に発信することもできないのだから。

 猪突猛進と指摘されても構わない。

 浅井は現状を把握し切れていない他のメンバーに大して、朗々たる面持ちで懇願する。


「きみたちが探していた『誰か』を俺にしてくれないか?」

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