ライブハウスへと辿りつくまでに最適な走行距離

        【浅井 2】



 ウェブサイトは万能ではない。

 浅井は仮想現実技術の発達によって下火になったウェブサイトを眺めながら、改めてそう感じていた。自室の壁には投影されているのは登録式のコンテンツ配信サイトだ。あらゆるジャンルを網羅する節操のなさから生存競争を勝ち抜いたそのサービスにはこの国で作られた娯楽・芸術作品がすべて保存されている――それが事実かどうかはともかく、その謳い文句に恥じぬだけの利用者を獲得していた。


 だが、どれだけ優れていたとしてもウェブサイトとして利用しているうちはデータベースとしての価値しかない。現在、主流となっているのは俗に「ウェブルーム」と呼ばれている方式である。平面から立体へ、文字媒体や画像媒体から体験型へと、人々のネットワークは移り変わった。目や耳だけで情報を得るよりも全身を用いた体験としたほうが学習効果や広告効果が高いそうだ。あまりにも高評価だったため、猫も杓子も、といった具合で方式の転換が進んだ。たとえば古典文学の配信ですら図書館を模した仮想空間で行われているほどである。況んや音楽をや、だ。


 問題は浅井がその方式を好まないことだった。

 この国では楽で便利な仮想空間はもはや生活の中心となっている。現実と区別できないほど精密であるならば情報空間も虚構ではない、その見解の元、大多数の人々はあらゆる労働や娯楽を仮想空間で行うようになった。デスクワークや営業、あらゆる趣味が代替可能とされると「目を覚ます」人も減る。そのうちに生存に必要な食事や排泄などだけが肉体の役割と捉える者も現れ始め、今では物理的空間に根ざして生きる人間はよほどの物好きか時代遅れの堅物と看做されるようになっていた。


 結局、人間は物理的なものなのに。

 危機感より淡泊で違和感より濃密なやるせなさを押し殺し、浅井は壁を注視する。投影された画像の上を、視線と連動したポインタが移動する。「あなたにお勧めの新着曲!」と書かれたリンクを開くと、まばたきの間に結果が表示された。


「げ」と、思わず喉から声が漏れた。


 視界を埋め尽くしているのは数え切れないほどの文字だ。タイトルや投稿者、ジャンル、BPM、押し寄せてきた情報の洪水に溺れながら、一つでも曲を聴こうとする。が、踏ん切りがつかない。そのうちにページが自動更新され、すべての文字が塗り替えられてしまった。

 秒単位で更新される作品たちはその自重により押し潰されていく。創作支援ソフトの流通は裾野を広げるのには一役買う以上の成果を収めたが、一方で玉石混淆の具合を日に日に深刻にする副作用を持っていた。特に最近では出来そのものよりもどれだけ多くの作品を発表できるかが重要になりつつあるため、吟味もままならない。


 まるで生鮮食品か消耗品のセールだ。

 品質よりも公開日こそがコンテンツの良し悪しを決定しているのではないか、と錯覚しそうにもなる。まずもって浅井には学生時代、頻繁に耳にした「昨日は忙しくて新しい作品を全然消化できなかったよ」などという言葉が気に入らなかった。消化! 咀嚼もせずに作品を消化することができるものか。

 しかし、その主張は級友たちに理解されるはずもなかった。「面倒臭い」「時間をかけて探した挙げ句、つまらなかったどうするんだ」「責任は取れるのかよ」と口々に責め立てられたことを覚えている。それほど強く主張したつもりはなかったが、彼らの圧力たるや糾弾の様相を呈しており、浅井はたじろいだ。四面楚歌とはまさしくこのことだと震え上がり、浅井自身もその歌を口ずさまなければならないほどだった。「そうだよね、実は俺もそう思ってた」反省を装いながら歯噛みした日々は忘れられない。


 浅井はコンテンツの激流を呆然と眺める。こうして音楽を漁り続けて長くなるが、価値観を揺るがすような美しい音楽とは出会えていない。限界だ、と内なる自分が告げる。うるさい、と叫ぶ。

 煩悶が身体を覆い尽くし、居ても立ってもいられなくなる。


          〇


 地面を蹴る。ももを前方へと上げ、腕を振って、推進力に変える。景色が流れ、呼吸が荒くなり、汗が噴き出す。強く大きくなった鼓動が血流の確かさを感じさせた。

 仮想現実が人間の五感を再現していると言っても未だ完璧なものではない。その代表的なものが運動だった。流れた汗が頬を撫でるこそばゆさであるとか、乳酸とともに筋肉に蓄積される気怠さ、じわじわと上昇する体温など、現実でしか知覚できない感覚は数多く残されている。

 だからというわけではなかったが、浅井は走るのが好きだった。

 汗や呼吸とともに身体の内部に溜まった毒素が排出されていくようで心地よく、鼓膜のそばで感じる心拍数の増加が気分を高揚させた。

 十七歳の夏、体育の授業で実施されたマラソン大会を思い出す。

「弁明としてはあまりにつたない」という言葉が脳内で、響く。


      〇


 当時の天候管理局職員も波多野のような人物だったのだろうか、滴る汗がそのまま蒸発するのではないかと錯覚するほど暑い日の話だ。その頃から浅井は身体を動かすことに大して忌避感を持っていなかったが、他の参加者は別だった。遠慮なく上昇した気温は容赦なく参加者のやる気を溶かしていた。

 級友の誰もが中止を望み、しかし、全員が「やるの?」「やりたくないけど」「やらなきゃだめなんじゃない」と消極的な規範意識に操られた末、結局、マラソン大会は予定通り決行された。号砲が鳴らされると、若者の塊が、若者らしくない緩慢さで動き始める。


 炎天下、だらだらと走る級友たちを尻目に、浅井は先頭でゴール地点を通過した。

 呼吸は乱れに乱れ、教師たちのまばらな拍手に這々の体ながらも手を挙げて応える。と同時に力尽き、浅井は草むらに倒れ込んだ。胸いっぱいに吸い込んだ青い空気もむせかえるほどに熱せられており、まばたきと視界の遮断がずれているような違和感を覚えた。

 体勢を何度か変え、大の字になって呼吸を整えているとそこに友人の屋代が現れた。質実剛健を地でいく彼も上位だったようで、周囲にいる生徒は数えるほどしかいなかった。


「浅井は足だけは速いな」

「負けたくせにその言い方はないんじゃないの」


 喘ぎながらもなんとか反駁する。実際、彼の言うとおり、成績やその他の競技では敵わないもののほうが多かったが、積極的に認めるのは勇気を要した。


「それもそうか。足だけじゃない」

「……あのさ」


 呼吸すべきか反論すべきか、身体と思考がぶつかり、わずかな間が空いた。すう、はあ、とそのどちらもなだめるべく深く息を吸い、吐く。


「それ、誉めてないよね」


 屋代は浅井が同級生と談笑する姿を見るたびに「手が早い」と囃した。初めは女子と交流している自分への僻みかと勘ぐったが、そうではないとすぐに分かった。男子と会話していたときでさえ、彼は似たような台詞を口にしたからだ。その後もしばらくは意図を掴めなかったが、ある日彼が呟いた一言でなんとなく理解した気分になった。


 ――どうすれば、それほどすぐに人と打ち解けられるんだ?


 気安く自分の領域を侵されたくないと思う人間がいる。そして、その類の人間は得てして自分からも他人の領域に踏み込もうとしない。意図してかせざるかは判然としないが、屋代は積極的に他人に心を開かない人間で、そのせいで友人は少なかった。揶揄や侮蔑ではなく、事実として。

 級友たちには屋代の思慮深さが暗さに、真面目さがつまらなさに受け取られているらしい。仲良くなれば居心地がよいものだが、若者は往々にしてスピードに第一義的な価値を置く。手の込んだ繊細な料理より味の濃いファストフード、月刊連載より週刊連載だ。そのどちらにも優劣はないが、少なくとも屋代を理解するには一朝一夕では足りず、そして何より彼自身が理解されようとしていなかったため、学校の中で敬遠されていたのは間違いがない。浅井も打算がなければ話しかけようとは思えなかった。


「それにしても」と浅井はうめく。「行動が迅速だ、って言い直して欲しい」

「覆水盆に返らず、だ。吐いた唾は飲み込めないとも言う」

「それは訂正を拒否するためのことわざじゃないよ。俺としては覆水を盆に返して欲しいし、吐いた唾を飲み込んで欲しい。勝ったのに詰られるのは理不尽だ」

「詰っているわけじゃない」と彼は言いにくそうに、呟いた。「詰ってるわけじゃないんだ」


 その口調に、普段と違う神妙な雰囲気を感じ、屋代の言葉を待つ。だが、彼は一向に二の句を継ごうとはしなかった。今思えば、その時間の経過も夏の暑さと疲労から大した時間ではなかったのかもしれないが、とにかく浅井は痺れを切らし、訊ねた。


「いったいどうしたって言うんだ」

「……お前は猪突猛進でいいな」

「ほら、やっぱり詰ってるじゃないか。猪突猛進は褒め言葉じゃない」

「どっちにしたって認めるだろう?」

「それは」と浅井は言い淀む。「それは、認めるけどさ、でも、他の人が考えすぎなんだよ。考えすぎてチャンスを失ってる」

「考えもなくマラソン大会で全力疾走するのは猪突猛進の証明だ」

「人間らしさと愛嬌のある、美点だ」

「浅井、それは、弁明としては、あまりに拙い」


 その堅苦しさと大仰さに浅井は呆け、それから噴き出した。

 当時放映されていたニュース番組でコメンテーターが発した言葉だった。セキュリティを無にするようなコンピューターウイルスがばらまかれそうになった事件があり、その作成者が逮捕されたのだ。事件は結局未遂で収束したが、作成者はこの国の最高刑である追放刑に処される運びとなった。その男の釈明に対してコメンテーターが言い放ったのが「弁明にしては」だ。断言というよりも断罪といったニュアンスに近く、当時の浅井たちにとっては新鮮な響きを持っていたため、ことあるごとに真似ていた。


「でもまあ、美点ではあるかもしれないな」

「え?」突然、手のひらを返した彼の態度に泡を食う。

「お前は手が早いんじゃなくて、行動が早い」

「なんだよ、急に」

「俺が数年かけて準備したことを、お前は数日とか数週間でやってみせるからな、そのぶん迂闊うかつあらが目立つし、計画性がないし、詰めが甘いけど、それでも行動が早いことはすごいと思う。俺にはできないことだ」

「あのさ、何が言いたいわけ?」


 追及すると次第に屋代は赤面し、ゴール地点に駆け込んでくる女子生徒を指さした。

「あの子、紹介してくれよ」

 一拍呆けて、これのどこが暗い人間なんだ、と浅井は笑った。笑いながら言い放つ。

「いいけど、懇願にしてはあまりに拙いぞ」


          〇


 きっとその行動の早さが、足を止めた理由だった。

 公園を出てぐるりと街を回っている途中、路地の奥に見慣れない看板が設置されているのが目についたのだ。電子看板ではない。今の世には珍しく、質量のある看板だった。腰ほどまでの高さ、茶色の木枠に囲まれた暗緑色の立て看板には手書きの掠れた白い文字が踊っていた。


『音楽売ってます』


 女性的な丸みを帯びた文字には装飾もなく、無造作に置かれていて、看板というより粗大ごみのような印象を受けた。目を引くが、客を招く意図は感じられない。

 しかし、その言葉を捨て置くことができず、浅井は弾む息を整えながら、往来のない路地へと入り込んだ。傾き始めた太陽が辺りを橙に照らし、影が長く伸びていた。

 データコンテンツを実店舗で販売するなど正気の沙汰ではない。


 浅井はいぶかり、無機質な自動ドアに顔を寄せる。防音対策なのだろうか、半透明のガラスの向こうにもう一枚、扉があることが辛うじてわかった。

 そして、そのとき、迎え入れるようにドアが開いた。

 触ったつもりはなかったが、いつの間にか自動ドアの接触式センサーに指をつけていたらしい。視線を下にやると確かに浅井の腕は前方へと伸ばされていた。

 開いてしまった、という事実が足を動かす。


 二メートル四方ほどの狭い空間には見覚えのあるポスターが所狭しと貼りつけられていた。その多くが二十世紀や二十一世紀初頭に聴衆を沸かせたロックバンドのものだった。年代物のポスターをじっくりと鑑賞してから、浅井は手動開閉式の扉に手を伸ばした。音楽をわざわざ物質世界で売ろうなどという酔狂な試みに高揚していた。


 ドアノブに手をかける。

 その瞬間、指の腹にかすかな振動が走った。

 びくん、と身体が反応する。まだドアノブは捻っていない。内側だ。店内から扉越しに振動が伝わってきていたのだ。動きを止める。息を殺し、耳を澄ませた。規則的な低音のリズムが扉の向こうで脈動している。

 パッケージングされた音楽が再生されている、とは微塵も思わなかった。級友たちが好んだ出来合いの音楽にはない、明らかな躍動感が扉の奥で渦を巻いている。浅井は理由もなく、店内にある小さなステージを想像し、その上で身体を揺り動かしながら演奏するロックバンドの存在を確信していた。


 抑えることが、できなかった。

 好奇心が油の注ぎ込まれた炎さながら熱と勢いを増し、身体を押す。ドアノブを捻る。抵抗なく回り、押し込む。

 大きな塊が、全身にぶつかった。

 心臓を鷲づかみにされたような気分に陥る。


 低く唸るベースが地を這って足下に絡みつき、鼓動のリズムがドラムの音に追従する。ギターが奏でるメロディが皮膚を貫いて筋肉を硬直させ、遠くで響く鉄琴の音色が身体を浮遊させた。力強い、幾重にも重なった歌声が脳髄の奥の奥で乱反射し、ぶつかり、弾け、浅井の思考をまっさらにする。

 言葉が出なかった。

 ほんの一瞬でどうしようもないほど心を奪われていることに気がつく。それから、ふと野獣の姿が脳裏に浮かんだ。森林の木々の合間を縫うようにして駆ける、しなやかな野獣だ。複雑で、滑らかな疾走感に、呆けることしかできない。ボーカルが吼えるようにして歌うと、それを四つのコーラスが包み込み、次第に溶け、渾然一体となり、背骨を揺らす。ステージ上にいる五人の男女が放つ演奏と歌声はばらばらになる寸前で不可思議な調和を保っていた。


 浅井は立ち尽くし、聞き惚れていた。動けば彼らの演奏がやんでしまうのではないかという危惧に扉の前から足を踏み出すことができない。せいぜいできたのは血管や皮膚を駆け巡る衝動に身体を揺らすことだけだった。

 いったい、なぜ、これほどまでに心を躍らせる音楽を知らなかったのだ。

 浅井は自分を恥じ、うつむこうとしたが、それもできない。激しさと美しさを両立させた音楽に、身体は否応なく反応する。俯く時間が惜しかった。


 演奏は次第に終局へと向かっていく、その予感にもどかしくなる。やめないでくれ、とともすれば漏れそうになる声を必死に抑えていると激しいドラムの音が消え去った。声を上げる間もなく歌声がなくなり、ベースの低音が沈み、ギターのうねりが潜まって、鉄琴の音が宙に弾けた。

「ああ」と飛び出しそうになる感嘆を必死に堪える。


 演奏が、終わった。

 漂う余韻を味わうかのようにバンドの面々は深く息を吸い、それが伝染して、浅井も止めていた呼吸を再開した。音楽の柔らかな残り香が肺に満ちた、気がした。


「あ、客、来てんじゃねえか」


 ステージ上から響いた声にばつの悪さを感じ、会釈を返す。声を発したのは鉄琴を叩いていた二十代前半と思しき金髪の男だった。周囲に置かれたさまざまな楽器に四苦八苦しながら壇上を降りようとしている。浅井はその合間に他のメンバーにも目を向ける。ボーカルをしていた少年、ギター担当の長身の男、ドラムセットの奥に座っている長髪の女性、とそこまで見たところで喉から声が押し出された。


「あ」


 その声にベースを降ろしていた少女が顔を上げる。彼女もこちらを見て同じように声を発した。


「あ」そこには料理店〈ヤーン〉で働いていた滝の姿があった。「浅井さん」

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