レクリエーション、自転車のかご
ロッカールームを出てすぐに帰ろうと決めていたはずだったが、知らず足を止めていた。
会社地下の体育館ではバスケットボールが行われている。コートの中を走っているのは同僚たちだ。だが、そこには普段のレクリエーションのような雰囲気はなかった。興じるというより競っていると表現したほうがいいような真剣さがあり、気付けば屋代は近くの椅子に腰を下ろしていた。
彼らの攻防はまさに一進一退という具合だった。一方が得点すればもう一方が返し、思いもよらぬところでボールを奪えば粘り強く防ぎきる。懸命さと合わせて飽きさせない展開だった。
じっと観戦しながらわずかに懐かしむ。勝負の中にある熱気が自分から遠くなってずいぶんと経った。高校時代、浅井と競い合った日々が懐かしく、そこで〈ヤーン〉の厨房に立ったとき彼が症状に表れたことを思い出す。だから足が止まったのかと納得する。コートの中には懐かしい熱が充満していた。
試合は終了の間際だったのか、数分もするとけたたましいブザーが鳴り響いた。
壁に投影された残り時間にはゼロが並び、その下には十分間に積み重ねられた得点が表示されている。どうやら同期の女のいるチームが接戦を制したらしく、コートにいる面々は肩で息をしながら健闘を讃え合っていた。勝ったほうはもちろん、負けたほうも表面上悔しがりながら、爽やかで満足げな表情をしている。
コートに経っている社員たちが休憩に入ったのを見て、そこでようやく屋代は自分が「らしくない」ことをしていると気がついた。この会社における屋代という人間はスポーツなどには興味を持っていないのだ。反省し、立ち上がろうとする。
そのとき、括った髪を揺らして駆け寄ってくる女が視界に入った。同期のエラだ。フロアの端で水分補給をしている面々とは異なり、活力の削げた気配はなく、彼女は何を思ったのか、屋代のほうへと向かってきている。
「屋代くん」
声をかけられるのは覚悟していたため、驚きはなかった。「なんだ?」
「熱心に見てたから、一緒にやらないかな、と思いまして」
アメリカ系の家庭で生まれ育ったらしい彼女は百七十センチメートルを越える長身で、肌が白く、目鼻立ちがくっきりとしている。明晰な頭脳や有り余る体力ではなく、積極性で世の中を渡るタイプの女性で、何度か言葉を交わした記憶があった。
あまり得意な性格ではなく、屋代は断るための言葉を慎重に選ぶ。
「俺があの中に混じれるとは思えない」
「大丈夫だって。適当にやってれば他の誰かがなんとかしてくれるから」
「それは一緒にやってると言えるのか?」
言えるんですよ、とエラは無責任に断言し、屋代の腕を引こうとする。それをさっといなし、立ち上がる。
「用事があるんだ」
咄嗟に嘘を吐いた。
ここでエラたちとともに汗を流したらこの数年間変人を気取った意味をなくしてしまう。変人は疎まれ、遠ざけられるのが自然で、少なくとも仲睦まじくスポーツに興じるのは定義から外れる気がしてならなかった。
なんのためにわざわざ他人との接触を減らしていたと思っている。
しかし、エラはその自戒に目もくれない。
「いいじゃんいいじゃん、仕事を終えた屋代くんに大事な用事があるとは思えないよ。工具箱を置いたってことは工具とのチークタイムはないんでしょ?」
「失礼にもほどがあるな」
「失うほどの礼を教えてくれない親でさ。そんな邪険にしないでよ」
「俺の親も礼儀を教えてくれなくてな」
「じゃあ無礼者同士仲良くしましょうよ。どうせ運動量クリアしてないんでしょ」
指摘通り、政府推奨の運動量を達成する見込みはなかったが、多くの者が遵守していない目標に過ぎず、屋代にとってもどうでもいい数字だった。何より、帰宅前の無為な十分間のために日が暮れるまで拘束されるのは堪えられない。
工具の整備はなくとも、やらなければいけない作業は多かった。次回以降に設置する予定の〈蜘蛛の糸爆弾〉の点検をする必要があり、また、気が向けば〈ヤーン〉に足を運ぼうかとも思っている。緊急性のある用事ではないが、経験者の群れの中で所在なく右往左往するよりは比較にならないほど有意義ではあった。
「エラ、勘弁してくれ」
そうは言ったもののの屋代はエラが引かないことを知っている。半端な嘘を吐くよりもよほどいいと判断し、半端な真実を口にした。
「今日は副業のほうに行かなきゃいけないんだ」
「副業?」エラは大きな目を殊更に丸くし、繰り返す。「え、屋代くんが? 副業? 何してるの? お金目当て?」
一気呵成に捲し立てられる質問に閉口する。
答えるとより面倒な事態へと発展しそうな危惧が渦巻いていたが、いつの間にかエラに腕を握られていて逃げられそうもない。屋代は苦々しい顔を作り、小声で答えた。
「飲食店だよ」
「飲食?」とボリュームが一つ上がる。「何それ、屋代くん料理しそうにないのに」
「ひどい偏見だな」
「だって、いっつも工具工具って喚いてるじゃん」
「喚いてはいない」
「どこで働いてるの? 恰好いい人いる?」
目を輝かせ、というよりも鼻息を荒くして詰め寄ってくるエラの迫力におののき、屋代はわずかに後ずさる。慰安の強制なのか、同僚への牽制なのか、先日、恋人と別れたと社内で吹聴していただけあって、その勢いは凄まじかった。
「恰好いい人って言ってもな」困惑しながらも想像する。好みは分かれるが島田はそれなりに整った顔をしているし、バンドマンだというウェイターも眉目秀麗とはいかないが垢抜けていた。「雇ってる料理長とか」
「ちょっと待って!」
突然、会話を遮ったエラは衝撃を受けた様子を隠そうともせず、怪訝な顔をして覗き込んでくる。
「雇ってるって、何? お店経営してるの?」
「副業をしてると言っただろう」
「経営者とは思わないじゃないですか」
彼女は心底仰天したらしく、「えー」とか「はー」だとかいった感嘆を、重複なくいくつも並べた。労働人口が激減している現在、仕事を掛け持ちしていることに驚かれるのは無理もなかったが、彼女の驚愕の原因は他にもあるのだろう。まじまじと食い入るように屋代を見つめる視線がそれを物語っていた。
「ねえ、屋代くんのお店、どこにあるの?」
しまった、と屋代は舌打ちを堪える。適当な場所をでっち上げたとしても問題を先延ばしにするだけだ。あるいはこの場で検索し、整合される可能性もあった。彼女ならやりかねない、と心に諦念が浸透していく。
結局、溜息を吐き、屋代は正直に場所を白状することになった。懸念したとおり、エラは宙で手を蠢かし、検索を開始する。島田の手によってレストランランキングにも登録されているため、情報を得るのは難しくない。彼は屋代を厨房へと戻そうと画策している節があり、わざわざ書かなくてもよいオーナーの名前が丁寧に記している。
「オッケー、わかった。今度友達連れて行きますね。サービスしてよ」
「来なくてもいい。どうせ俺が顔を出すことはほとんどない」
「別に屋代くん目当てに行くわけじゃないし」
「食い物目当てか」
「代わりと言ったらなんだけどさ、今度、市民大会があるんですよ、バスケとかの。もしよかったら見学に来なよ。私、実行委員やってるんだよね」
「本当に代わりと言うにはおこがましいな」
呆れが心中の大半を満たしていたが、一方で得心もいった。大会が喫緊に迫っているのであれば社員たちの熱の入りようも説明できる。改めてエラの誘いに乗らなくてよかったと胸を撫で下ろす。プレイの未熟さで顔を赤くするならまだしもチーム内の不協和音になって顔を青くするのはごめんだった。
「じゃあさ」エラは跳ねるような調子で続ける。「地図とか開始時間、送るね」
「おい」と声を発する間もなく、彼女は掴んでいた屋代の手首を持ち上げ、人差し指に埋め込まれている通信デバイスを触れ合わせた。その瞬間、頭蓋骨側面、乳様突起に癒着した骨伝導システムから、メッセージの着信を知らせる機械音が響く。
促され、屋代は渋々、視覚補助デバイスに表示されたコンソールを操作した。メッセージには会場までの地図とタイムテーブル、そして、彼女の連絡先が添付されていた。
「おい」と今度は声に出す。「なんのつもりだ」
「だって、来てもないのに来たって言い張られても
「俺から会場に行く気配を感じられたとしたら驚きだ」
「友達じゃないですか。こうやって連絡先教えたし」と彼女は指を突き出す。
「宇宙人か」
「かもね、自転車のかごにでも乗ってあげようか?」
映画の中でもクラシックな話題ではあったが、通じるとは思っていなかったため、屋代は気勢を削がれた。同好の士に遭遇した喜び混じりの驚きをひた隠し、「いいから離せ」と腕を握っていたエラの手を引き剥がした。
「約束ですからね」
「してないって言ってるだろう。はっきり言うが、俺はお前が苦手だ」
「なんで?」エラは嘘を見透かすかのような瞳でじっと屋代を見ている。「私は屋代くん、結構話しやすいと思いましたけど」
「馴れ馴れしいにもほどがある。そのくせ、人を馬鹿にするみたいに時々敬語を交ぜるだろう。なんのつもりなんだ」
「敬語くらい使えますアピールだったら?」
「明らかな失敗だろ、それ」
「私の妹分もちょっと真似してるから失敗ではないんじゃないかな」
「姉妹揃って失敗してるんだ」
「まあ、私はこんな性格だからさ、本気の言葉のときは目印をつけようと思ってまして」
エラはおどけるように眉を上げ、「じゃ、またね」と言い残してチームメイトのもとへと戻っていく。彼女の走る姿はとても躍動的で爽やかさに溢れていた。盛り上がる歓声と試合開始を告げるブザーを背にし、屋代はエレベーターホールへと向かう。その途中で「またね、か」と呟いた。
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