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 森津は驚くほど簡単に浅井の申し出を快諾した。前置きもなく「トラックを貸してくれないか」と依頼するのは非常識と言えたかもしれないが、森津も波多野の友人だ、常識にわずかながらの欠落があり、用途の確認されることすらなかった。


 指定された待ち合わせ場所は公園だ。中央管制塔付近にあるその公園はこの国でも最大の面積を誇っており、体育館や野球場などさまざまな施設があちこちに点在している。森津はその中のイベントスペースで待つようにと指示した。かつてフリーマーケットや野外ライブが催されていた区域であり、物資の搬入を円滑にする目的で駐車場やロータリーが隣接している。トラックの受け渡し場所としては申し分なかったが、しかし、それだけに浅井は耳を疑った。

 イベントスペースはその設計上、現在、配給場所として活用されている。トラックで乗り入れる余裕があるとは思えない。それを指摘すると森津は「大丈夫だよ」とだけ返して通話を遮断してしまった。

 森津とは短い付き合いではある。しかし、浅井は彼を説得する困難さをよく知っており、仕方なく一人で公園へと向かうことにした。


 まだ朝だというのに道の混雑は甚だしい。

 到着した公園はそれに輪をかけて人で埋め尽くされていた。一瞬、市民大会の様子が頭に浮かんだがすぐに打ち消す。この場には和気藹々とした賑やかさはまるでなかった。必死の形相で食料を配るスタッフと、押した押してないで揉める市民の群れが視界に飛び込んでくる。不便さと空腹で膨れあがった憤りに気圧され、浅井はイベントスペースと駐車場の境で立ち尽くした。人々の間にも犯人逮捕の報は広まっており、耳を澄ませると聞き馴染んだ名字が罵倒とともに聞こえてきた。


 屋代、お前は――。


 歯噛みしながら、森津の姿を探す。探そうとする。だが、あまりにも人の数が多く、探すどころの話ではなかった。人の海が絶えず揺れ動き、そのたびに波に飲まれ、同じ場所に立ち続けることすら難しい。溺れ、もがいているうちに息苦しさを感じた。

 おそらく他の配給場所はこれほどまでに混雑していないだろう。溺れる者は藁をもつかむが、そばにロープが漂っているならロープを掴み、船があったら船に乗り込む。中央管制塔にもっとも近いこの公園では食料の補充が頻繁に行われ、豊富な人員が配置されている――そんな推測が広がっているのかもしれない。確実性を求めて市民が殺到してもおかしくはなく、また、それを示すように配給には明らかな滞りが生まれていた。


 目に入るのは人の海と物資の山ばかりだ。浅井はこのまま森津と落ち合うのは不可能であると判断し、イベントスペースの入り口から離れた。どちらにせよ、目的は電源ユニットとそれを運ぶトラックそのものなのだ。駐車場で待ち構えているほうが賢明だった。

 送迎用のロータリーが併設された駐車場はひっきりなしにタクシーが往来している。乗降場から始まったその列の尾は公園の横を走る幹線道路にまで伸びていた。まるで蟻の行列だ、と感じた。餌を獲得し、巣へと戻っていくその行動におぼろげな虚しさを覚え、浅井は視線を切る。

 大型車用の駐車場は予想に反して空きが目立った。おそらくピストン輸送しているからだろう、と思い当たったところで森津の姿を発見する。彼はトラックの横で脇にいる男たちに指示を飛ばしていた。


「森津さん!」


 浅井の呼びかけに、森津はきょろきょろと周囲を見渡す。その往復のうちに浅井を捉えたらしく、彼は「こっちこっち」と高く上げた右手を振った。


「いやあ予想以上の人手だねこれは捗るよ」

「森津さん、ありがとうございます。それで、捗るっていったい」

「浅井くん僕はこの日のために中古品を蓄えてきたんだよ」


 森津は自身の背後に並ぶトラックを指さす。その荷台では揃いのエプロンを身につけた男女が忙しくなく動き、自走式のリヤカーに梱包を載せていた。彼らはやや手間取りながらもリヤカーを満たし、イベントスペースへと運んでいく。呆然と眺めていたところで、森津は噛みしめるように言った。


「今、人生でいちばん、この街に人がいる」

「まさか……売るんですか?」

「そう、そうだよ浅井くん。だっていざ食料を手に入れたところでみんな食器なんて持ってないだろう? 配られた容器を送り返す手段がないからいずれ大変なことになるじゃないか。だからこの場で食べるか別の食器に移し替えて持って帰ったほうが政府もありがたいんだってさ。もちろん食器だけじゃなくて服とか日用品とか電化製品だって持ってきたんだ」

「なんで、そんな都合よく……」


 未来を見通す力があると言っても度が過ぎている。物資を用意できたのはまだしも、場所を押さえることができた理由も事前に人を雇えた理由も説明することができなかった。不可解さに固まっていると、森津は嬉しそうに顔をくしゃっと歪める。それから彼は極めて単純な解答を発表した。


「波多野だよ」

 その瞬間、浅井は「あ」と声を挙げる。「答え合わせって」

「そのとおり! きみたちが音楽の機材を取りに来たとき波多野から教えてもらったんだ。詳しい内容は教えてくれなかったけど、何かが起きる、森津モーリッツ、正解、ってね」

「身震いするほど偉そうだ」

「それでここ二週間くらいこのイベントスペースを借り切っておいてね」

「借り切った? ここを、ですか?」

「そうそう。まさかこんな事件が起こるとは思ってなかったし中止させかけられたけど僕が何をやるつもりか伝えたら許可が出たんだ。規模は縮小しちゃったけど政府と思惑は一致してるしね」

「……もしかしたら、森津さん、俺とも一致してるかもしれません」

「え?」どういうこと、と森津は浅井へと顔を近づける。

「森津さん……可能ならちょっとだけ場所を貸してくれませんか? 隅のほうで構いません、時間制限もあったっていい」


 渡りに船だ。

 光が差し込んできた気分になり、思わず破顔する。森津が首を縦に振ってくれるだけで許可を取る手間も強行するリスクもなくなる。

 なになに何が言いたいの、と頭を捻る森津に浅井は力強く提案した。


「俺に客引きをさせてくれませんか?」

「客引きって……どういうこと浅井くん」

「こんな一触即発の空気じゃ売れるものも売れませんよ。BGM代わりにでもいいので〈エイブラハムの樹〉に演奏させて欲しいんです」

「ああそういうことね」森津は興味深そうに唸ったが、表情は芳しくない。「歓迎したいところなんだけど音出しの許可は取ってないんだよね。少しくらいなら見逃してくれるかもだけど激しいのだと注意されるだろうし」

「そのときは俺が丸め込みます」浅井は自分の胸を叩く。手材料がない状態で交渉を成功させるには勢いと責任を引き受ける姿勢が何より重要だ。「選曲も相応しいものにしますし、何かあったら俺が態度か金でなんとかしますから」

「そうは言っても最終的に行政から怒られるのは僕だしなあ……ねえ、浅井くん」


 糸が切れる――その予感に浅井は咄嗟に頭を下げた。


「お願いします!」

「え、え、ちょっと浅井くん困るって」

「森津さん、あなたに頼むしかないんです。今しかない。この街に人がいるうちにやらないと全員が素通りしてしまう。それじゃだめなんだ」


 勢いと責任を引き受ける姿勢でどうにもならないならもう必死に誠意を見せるしか浅井には手段がなかった。今がどれだけ貴重な機会なのか森津ならわかってくれる――それだけを信じて頼み込む。

 すると森津は悩んだように唸り、「お願いだから顔を上げてよ」と浅井の肩を叩いた。困惑の滲んだ声色に浅井は唇を噛む。顔を上げ、森津の目をじっと見つめたところで彼も見定めるかのように瞳を覗き込んできた。その強い眼差しに息を呑む。

 森津が頭を掻いたのはしばらくその状態が続いたあとのことだった。


「……仕方ないなあ。今日だけだよ」

「いいん、ですか?」

「この前お金もらっちゃったしね」


 彼は頬を緩ませ、荷物の搬入に使っていたトラックを指し示す。ほら、とそれだけの言葉に浅井は頭を地面につくほどに下げた。


「ありがとうございます!」


 言うが早いか、浅井は運転席へと乗り込む。事前に個人認証に登録しておいてくれたのか、それだけでエンジンが掛かり、ダミー音が低い唸りを発した。目的地を入力するとそろそろと車が滑り出す。フロントガラス越し、突き抜けるような青空に〈エイブラハムの樹〉の姿が浮かび、予感が願望か、誰もがそれを目撃している気分になった。


          〇


 ライブハウスへと戻り、運搬車に急いで機材を詰め込むと浅井は〈エイブラハムの樹〉を車へと乗せた。座席は二列あったが、六人で乗り込むには狭い。短い話し合いの末、身体の大きい良志が浅井の隣に、滝と隼、美波が後部座席に座ることとなった。桐悟は荷台だ。到着までのわずかな時間もセットリストの構成に充てたいと彼が願い出たためだった。スペースを間借りする以上、森津には迷惑をかけられない。彼らの象徴的な曲を組み込めないのは残念ではあったが、選曲には慎重を期さなければならなかった。


「前回は時間で、今回は曲目かよ。焦れったくなるな」

「そう言わないでくれ。今回は興味を持たせることに徹しよう」と浅井は説明する。「今はまだ混乱が強い、その中でまともに受け取れるわけなんてない」

「そういうもんか? ファーストインプレッションは重要だろ」

「寝てるときに水をかけられても気持ちよくならない、それと同じだよ」


 桐悟は納得したのかしていないのか、曖昧に肩を竦め、勢いよくコンテナの中へと乗り込む。それを確認して浅井も車へと飛び乗った。

 浅井と〈エイブラハムの樹〉を載せたトラックは路地を出発する。


「……混んでるな」


 渋滞、という現象を体験するのは初めてで、浅井は窓枠を忙しなく指で叩いた。市民の活動時間帯に食い込んできているせいか、明らかに車の数が増加している。遅々として進まない流れと広めに取られた車間距離が疎ましく、隔靴掻痒たる思いが募った。自動運転車の速度と反比例して時間は滑らかに流れ、予定していた時刻はあっという間に過ぎ去る。待ち受けているぶんには来場者の増加を示す渋滞の悪化は歓迎すべきものであるが、実際にその渦中に立たされるとこれほどいやなものはなかった。


 だが、そんな浅井の苛立ちとは裏腹に〈エイブラハムの樹〉の面々は演奏する曲目についての予想に花を咲かせている。緊張感から遠く離れた暢気さに浅井は毒気を抜かれ、大きく深呼吸をした。それだけで焦燥がやや落ち着く。焦ってもどうにもならないと諭されたようにも感じられ、見咎められないように頬を掻いた。


 結局、公園に到着するまでには通常の三倍ほど、三十分近くを要した。

 乗降で詰まったロータリーを躱し、駐車場へと進む。既に商品の搬入は済んだらしく、森津や彼の部下であるエプロン軍団の姿はなかった。森津が気を利かせてくれたのか、自走式のリヤカーだけがいくつか並んでいた。

 トラックが停止すると同時に、浅井は車を下り、荷台の扉を開ける。その動きを感知したセンサーが灯りを点す。胡座を掻いて作業していた桐悟は眩しそうに照明を見やり、それからすぐに浅井へと視線を向けた。


「できたか?」と訊ねると、桐悟は「当然だろ」と金色の髪を掻き上げる。

「到着が遅かったおかげだ。今、送る」


 耳元で電子音が弾ける。視界の隅で点滅するアイコンを摘まむと彼からの文書メッセージが確認できた。そこに記載されているセットリストは彼らにしては珍しいバラード調のものばかりで申し訳なくなる。その思いのまま小さく謝ると、浅井同様、曲に目を通していた〈エイブラハムの樹〉はばらついた返事をして荷台の上へと昇っていった。


 ――どうかしたのだろうか?


 彼らの挙動に不審を感じ、動けずにいると滝と目が合った。思案する間もなく、桐悟にせっつかれたため、ひとまず機材の運搬を開始することにした。

 スピーカーを載せたリヤカーを後方から押しつつ、浅井は森津へ連絡する。到着したことを伝えると彼はステージ付近にいることだけを告げてすぐに通話を終了させてしまった。仕方なく良志にステージへ向かうように指示を飛ばす。その途端、リヤカーが軽くなったような気がした。


 配給目当ての人の群れは時間の経過とともに数を増やしており、増殖するアメーバを想起させた。この場で分裂しているのではないかと疑いたくなるほど人数の増加が著しい。これほど混雑しているならばその情報が周知され、分散するべきだとは思ったが、いくら考えても栓のないことではあった。

 リヤカーは配給場所を避けて芝生脇の歩道を通っていく。家まで食料を持ち帰るのが面倒なのか、数え切れないほどの人が腰を下ろし、食事を摂っていた。政府もその行動を想定していたらしく、折りたたみ式のテーブルと椅子があちこちに設置されていたが、数が足りないのは一目瞭然だった。中央にゴミ箱と思しきコンテナが置かれており、警備員が使い終えたと容器をそこに投棄するよう大声で促している。積極的に協力する人は少ない。一帯には空の容器が散乱しており、それを回収するべく円筒状の機械が何台も忙しなく駆け回っていた。


 広場を通り抜けるとイベントスペースに辿りつく。

 森津を発見するのにそう手間はかからなかった。彼はステージ脇に立てられたテントの中で幸福そうに顔を綻ばせている。

 浅井と良志は搬入用に開けられた裏手の空間を通り、テントの中にいる森津へと駆け寄った。しかし、手が届きそうな距離まで地下で浮いても彼は浅井たちに気がつかなかった。陳列された商品の前で足を止める客を目にするたびに恍惚とした溜息を漏らし、喜びを全身に行き渡らせるかのように身体をくねらせている。邪魔をするのも忍びなかったが、いつまでも立ち尽くしているわけにもいかず、浅井は森津の肩を叩いた。


「あの、森津さん」

「ああ」その返事も夢うつつのようだ。「浅井くん遅かったねえ見てごらんよ」


 森津の視線は青空市場とそこにいる客から少しも離れない。彼は、ほう、と深い息をゆっくりと吐いた。陶酔に彩色された吐息は目に映りそうなほどに濃い。


「あの、どのスペースを貸してもらえるんですか?」

「人は外へ、物は人へ」要領を得ない言葉に顔を顰めそうになったが、その前に森津は続ける。「じゃあ浅井くん音楽はどこへ行く?」

「どこへ、って」

「言うまでもないよ。音楽はステージへ。後は頼むね僕は忙しいから」


 それきり、森津は青空市場の鑑賞を再開した。浅井が礼を言っても、耽溺した彼は一切の答えを返さなかった。

 良志と目を合わせる。どちらともなく動き始め、ステージの上へスピーカーを運んだ。事前に位置を決めていなかったせいで設置に手こずったもののそう時間はかからなかった。公園の電源ユニットと無線接続し、滝たちがステージへ辿りつく前に急いで引き返す。

 熱を帯び始めた空気に汗腺が開く感触が肌をなぞった。額から流れた汗が頬を伝い、顎から落ちてシャツを濡らす。雫を腕で乱暴に拭い、地面を蹴り、前を見据える。


          〇


 設営の段階でステージ前には人集りが生まれていた。ドラムセットが揃い、キーボードや鉄琴が並べられると見物していた客も何が行われるか把握したらしく、驚嘆と奇異の混じった視線を送るようになった。「ライブ? 現実で?」「誰がやるか知ってる?」「知るわけないじゃん、案内タグもない」囁きが風に吹かれて広がる。


 機材を運び終えた〈エイブラハムの樹〉は休憩すら取らずに壇上へと昇った。制する暇もない。隼と滝はもちろん、桐悟すら興奮の色を隠せていなかった。

 当然だ。

 前回、市民大会の開会式で行ったライブは条件が整いすぎていた。客席があり、ステージと音響機材が揃えられ、観客は現実に生活基盤を置いている人々だった。中には趣味で楽器を弾いている者もいただろう。それに加え、彼らはあらかじめ熱狂の渦に飛び込む準備ができていた。危惧すべき材料はほとんどが運営に関するもので聴衆に対して注意を払う必要がなかったのだ。


 だが、今回は違う。

 陰鬱な面持ちで赴いてきた市民たちは空腹で憤っている。音楽を聴きに来たわけではない。ましてやロックというジャンルを耳にしたことがあるかすら怪しい。中には今や現実には楽器など存在しないと考えているものもいるだろう。興味を持ちはすれど、誰一人、期待や歓迎はしていないはずだ。

 だからこそ〈エイブラハムの樹〉の表情には不安や恐怖などを見て取れることはできなかった。やろうか、と声が聞こえる。誰が発したのか、浅井には判別できない。とにかく、いけ、と叫ぶ。

 彼らは挑戦に燃える鮮やかな熱気を漲らせて演奏を開始した。


          〇


 観客は増減を繰り返しつつ、徐々に人数を増やしていった。

 初めはまばらだった聴衆たちは〈エイブラハムの樹〉が奏でる音楽に誘われて大きな塊になりつつある。彼らは身体を揺らし、目を輝かせて音楽に興じていた。友人に報告しているのか、どこかに感想を残しているのか、バーチャルコンソールを操作していると思わしき者も出るほどだった。

 いつのまにか配給を受け終えた人々が青空市場へと進んでくる流れが生まれている。方便として出したつもりだった客寄せという目的もいくらか成功しており、森津もさらに表情を緩ませていた。漂う音楽が市民の溜飲を下げていると判断したのか、列の整理をしていた警察が苦言を呈しに近づいてくることもなかった。

 いいぞ、と声を上げそうになる。言っただろ、とも。

 今、まさに〈エイブラハムの樹〉が広がっているのだ。ここにいるのは市民大会に参加していた人々とは違う。仮想現実に溺れている人間たちだ。現実と仮想現実の間にある如何ともしがたい壁を乗り越えて、〈エイブラハムの樹〉が受容されていく感触をひしひしと感じた。


 浅井は夢想する。

 乾ききった砂の上に水滴を垂らすように、仮想現実はこの国に染みこんでいった。それと同様に〈エイブラハムの樹〉の音楽も人々の中に行き渡るのではないか? この国に住む人々が音楽に手を引かれ、かつての人間らしい生活を取り戻す。そこに浅井や屋代が待ち望んでいたい日々が存在しているのではないか?

 なあ、屋代。俺にはお前がなぜ食料供給管を破壊したのか、わからない。だけど、少しだけ見当がつくこともあるんだ。

 屋代は自分の境遇を呪い、満たされない生活を恨み、その不満を発散させるためだけに食料供給システムを破壊したわけではない。少なくとも彼は一過性の憤怒に身を任せて不特定多数の人間を困窮させ、その戸惑うさまで自分を慰めるような人間ではなかった。思慮を重ね、苦しんだ末に、これしかないと考えて蛮行に至ったのだ。

 この国の人々は屋代を嘲笑うに違いない。技術の発展の末、ようやく手に入れられた行き届いた生活を手放そうとは思わないはずだ。栄養の偏りがないように生産から調理まで機械によって作られた食事、誰しもが平等な生活を送ることができる仮想現実、その中で生み出される娯楽。どこに不満があるのかと憤る人間もいるだろう。

 だが、それでも、屋代。お前は俺たちが生まれる以前に失われていた生活を取り戻したかったのだろう? なあ、届いているか?


 浅井は目を瞑り、それだけを願う。

 ――異変は八曲目が始まった瞬間に起こった。

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