焼失する地面と頼りない糸

 部屋の壁に友人の顔が映し出されている。黒い短髪、頑強さを感じさせる輪郭、射竦めるような目、見間違えるはずもない。報道番組の画面下に表示された名前の隣には「容疑者」という文字が染みこんでいた。普段は気に留めないその単語も知人に付随されると気味の悪さを漂わせる。膿から漏れた粘着質な液体を想起させる質感があった。


「何してるんだよ、屋代……」


 浅井は立ち竦み、画面を睨む。ニュースキャスターが淡々とした声を発している。『屋代容疑者は』『勤めていた会社の事業を利用し』『好気性特殊硬化タンパク質』『詳細については黙秘を続けており』『副業として料理店を経営して』――事実を受け入れられず、骨伝導システムを介した音声はぶつ切りにしか頭に入らなかった。批難混じりのキャスターの声はほとんどが耳から通り抜けていた。


 地面が不確かなものになる。足下がぐらつく。底なし沼に飲み込まれるかのように身体が揺れ、浅井はその場にへたり込んだ。悪い夢と信じたかったが、連呼される屋代の名前は身体を、現実の物体とする肉体を揺らしていた。

 再会した日、屋代がとても穏やかな顔をしていたことを思い出す。これほどの罪を犯そうとしていた男がどうしてあのような表情を作れたのか、浅井にはなにもかもが理解できず、ぼんやりと映像を見つめることしかできなかった。


 そのうち、彼と過ごした日々が不鮮明に甦ってくる。劣化した記憶はまたたく間に過ぎ去り、先日の再会すらすぐに追い越してしまう。思い出は虫喰いばかりで、一人で味わうにはあまりにも脆くなっていた。共通の友人などいないため、もはや今以上に彼を知る術はない。

 浅井は自分の愚かさを悔やみ――そして、そのとき、ふいに声が響いた。


 ――自分に近しい人が思いもよらぬ人と繋がってることなんて往々にしてあるよね。こんな時代だしさ、もしかしたら浅井くんだって私の友達と繋がってるかもしれないよ。


 エラの顔が脳裏に浮かぶ。彼女は食料供給管の整備事業を担当している会社に勤めていたはずだ。余裕のない状況に立たされているとは容易に予想がついたものの浅井は堪えることができず、彼女のIDをコールする。しかし、返ってきたのは録音された「後ほど改めてご連絡ください」というメッセージだけだった。

 当然だ。嘆息し、唇を噛みしめる。そもそも彼女と屋代の関係性に確証はないのだ、期待すること自体は間違いでなくとも頼りにするのは性急というものだった。浅井は舌打ちをして顔を上げる。

 その瞬間、頭の中で泡が弾けた。


 ――波多野。

 彼との会話が記憶の瓶からあふれ出す。波多野は〈ヤーン〉の経営者とは昔からの知り合いだと言っていなかったか。彼は事件を知ったとき、何かを知っているような表情をしていなかったか。屋代が経営していたという料理店が〈ヤーン〉なら――。

 根拠のない確信が身体を包んでいく。

 きっと波多野はすべてを知っていたのだ。知った上で、屋代を止めなかった。

 骨が消失したかのように力の入らない足を押さえ、浅井は立ち上がる。喚き散らしたい衝動を飲み込み、自宅を飛び出した。


         〇


 波多野が中央管制塔に姿を現したのは始業よりも一時間早い、八時前のことだった。騒動のせいか出勤予定に変更があり、彼が来ることは知っていたが、想像以上に早い出社に面を食らった。とはいえ、始業直前まで粘るつもりでいた浅井にとっては好都合ではあった。今、わざわざ彼の行動を問いただす意味は存在せず、また、その気もない。


「波多野さん」


 呼びかけると視線がぶつかる。昨晩のうちに出勤要請を拒絶したことが伝わっているのか、波多野は怪訝そうに足を止めた。


「浅井、お前、今日は絶対来ないんじゃなかったのかよ」

「波多野さんと話がしたくて」

「なんだよ、朝っぱらから変なこと言いやがって」

「犯人、逮捕されましたね」

 そう言うと、波多野の表情がぴくりと動いた。「……ああ、そうだな」

「……波多野さん、屋代とはいつ知り合ったんですか?」

「なんだ、お前」その声は偽りのない驚きに満ちている。「あいつのこと、知ってんのか」

「同じ高校だったんです。四六時中一緒にいたんですよ」

「そういえば……聞いたことあるな。俺は大学であいつと会ったんだけどよ、仲のいい友人がいたとか、そんな話をしてたっけか」


 いた、か。その残酷なほど淡泊な響きに浅井は肩を落とす。彼が波多野と出会ったとき、彼にとって自分の存在が過去になっていたのは否定できないらしい。

 無理もない。

 彼が浅井に連絡を取らなかったように、浅井もはっきりとした形で屋代と接触しようとしたことはなかった。拙いエゴがこの結果を招いてしまったのだ。


「でもよ、ここに配属されてからもあいつと顔を合わせてたけど、お前のことはおくびにも出してなかったぞ」

「知らなかったんですよ」知らせていなかったとも言える。「屋代とは卒業以来交流がなかったんですから」

「なんだよ、喧嘩でもしてたのか」

「何もしてませんって」


 自分が何もせずとも、いつか、また会える。浅井は友人とはそういったものであると無邪気に信じていた。あるいは、身勝手に言い聞かせていた。〈エイブラハムの樹〉に協力を申し出た理由の一つが、それだ。行動を起こさずともいつか求められる日が来る、などと諦め続けることがいかに愚かなのか、他ならぬ浅井自身が自覚していたのだ。

 機会を逃し続け、「いつか」が訪れたとき、何もかもが手遅れになってしまっている。

 浅井はゆっくりと息を吸い、目を瞑り、顎を上げた。頭上に広がっている空はどこまでも人工的に青く広がっている。


「……波多野さん。波多野さんは、屋代がこうすること、知ってたんですよね」

「ああ」彼は濁さず、極めて明晰に肯定した。

「なんで止めなかったんですか?」

「止める理由があるのか?」

「理由って、屋代がこれだけのことをしたんですよ? 当然じゃないですか!」

「……家でメシが食えなくなる程度のことがそんなに悪いことかよ」


 波多野は静かにそう言った。幾ばくかの後悔もない穏やかな声に、浅井は呆然とする。波多野も、屋代も、どうすればそれほどまでに揺るがずにいられるのか、わからなかった。


「浅井、やっぱりあいつ、面白いよな」

 思い悩むなって、と波多野は茶化すように諭してくる。「ここにあいつはもったいねえんだって」と。そして彼は中央管制塔の入り口へと歩を進めた。待ってくださいよ、浅井は追い縋るが、彼は取り合わない。仕事があるんだ、お前もやるべきことをやれ、とだけ言い残して去って行った。


 浅井は立ち尽くし、俯く。

 やるべきこと――それはなんだ?

 考えはまとまらなかったが、やれることは一つしかなかった。

 屋代は〈エイブラハムの樹〉の、価値観を一変させるあの音楽をまだ聴いていない。

 そうだ、と拳を握る。逮捕されたとしても人権はあるのだ。犯罪者には自分に関する報道を確認し、必要であれば抗議できる権利が与えられている。どうにかすれば彼に音楽を届けることが可能かもしれない。配給の様子はつぶさに流されている。

 息を吐き、逸る心を落ち着かせ、喧噪が沸騰し始めた街の中を走る。


          〇


 ライブハウスでは〈エイブラハムの樹〉が楽器を奏で、歌っていた。肩で息をする浅井が飛び込むと彼らはばらばらに演奏を中断する。真っ先に反応したのは目を白黒とさせた滝だった。


「浅井さん、早いですね。今日、お仕事大変なんじゃないんですか?」

「昨日のうちに『絶対行かない』って言ったんだ」

「国の一大事なのに」スタンドマイクに拾われた隼の声が反響する。「悪い大人だ」

「浅井がいい大人だなんて思ったことねえよ」

「で、浅井。どうしたの、こんな早くに」

「居ても立ってもいられなかったんだ。滝と隼は話、聞いたか?」

「昨日のことなら伝えてあります」良志が珍しく表情を和らげている。「そしたら俺たちも居ても立ってもいられなかったんです」

「そうか。じゃあ、続報も知ってるか?」

「ニュースなら昨日の夜から見てねえけど、何かあったのか?」

「……犯人が捕まったよ」

「え、もう?」と素っ頓狂な声を上げたのは隼だった。勤務先のオーナーが逮捕された事実を知らない彼は「警察もやるね、電光石火じゃん」とはしゃいでいた。

「でも、捕まったとなるとのんびりしてられないのかなあ」

「黙秘を貫いてるらしいけど、早いに越したことはないな」

「前みたいに行き当たりばったりは許されねえぞ、浅井号。何をすりゃいいんだ?」

「考えはある」


 桐悟は、何もない、という言葉を予期していたのかもしれない。感心とも驚きともつかない声を漏らした。


「聞かせろよ」


 うまくいくかは別として昨夜から計画は練っていた。音源を配布しようにも、この場でライブを開こうにも〈エイブラハムの樹〉にはまず知名度が足りない。人々の興味を惹くために広告を打つ金はあったが、今はそれも現実的ではなかった。騒動のせいで公共のアドスペースは配給案内で埋め尽くされている。

 結局のところ、〈エイブラハムの樹〉の音楽を届ける方法は一つしかない。

 無理に叩きつけるしかないのだ。


「ゲリラライブだ」

「ゲリラ」味わうかのように、隼と滝がその単語を繰り返した。「なんか、それっぽいですね!」「浅井さん、それいいよ、ロックっぽい!」

 だが、桐悟は「いやいやいや、ガキかよ」と頭を抱えて呆れ、反論する。「そんなのできるわけねえだろ。無許可でやったら警察がすぐに飛んでくるだろうが。今なんて交通整理やなんやらで青い制服がそこかしこに立ってるんだぞ」

「大きい公園とかならきっと場所あるよ、桐悟くん!」と滝が煽る。「配給で人もいっぱいいるし!」

「なおさらだっての」

「許可は取れないんですか? 文化的活動は対応早いですよね」


 冷静な良志が浅井へと顔を向ける。その口ぶりには懸念材料を一つずつ解決していこうとする決意が滲んでおり、その頼もしさに浅井は包み隠さず事実を伝えた。


「それも当然考えた。でも、ほぼ不可能だ」


 仮想現実の過剰な普及に危惧を抱いている政府は昔より道路や公園の使用申請を素早く認可するようになっている。だが、失念するほど些細な手段ではない。浅井が調べたところ申請した当日に許可が下りた例はなかった。ましてやこの状況だ。事態が収束するまで放置される可能性すらある。

 すげない否定に絶望を感じたのか、滝と隼の顔がみるみる曇っていった。内心では打開する策を求めていたのか、桐悟すらかすかに落胆を漂わせている。その中で美波と良志はいつもの変化の乏しい表情で浅井に視線を送っていた。逆説の言葉が続くのだと信じて急かすように佇む、二人の超然とした態度に笑みが漏れる。

 すると、隼がほとんど泣きそうになりながら喘いだ。


「なに笑ってんのさ、浅井さん。だめなんでしょ?」

「だめとは言ってないだろ。俺が言ってるのは可能性の話だ。機械が全部司っているならまだしも許可するのは人なんだ。つけいる隙は十分にある。最悪、警官に止められなければいい話だ」

「人でも雇って全員を羽交い締めにしてもらうの?」美波は自身の冗談に小さく笑う。

「まさか、だろ。配給の現場は見たか?」

「昨日の夜、お店から帰るときにちらっと見ましたけどひどかったですよ。みんなぴりぴりしてて」

「それがなんか関係あんのかよ」

「もちろん。配給に並んでいる人たちがなんで気が立っているか、わかるか?」

 その質問に隼が手を挙げて答える。「そりゃ今までボタン一つでメシ食べてたんだからイライラもするよ」

「でも、外に出れば食えるじゃないか」

「それは問題じゃないだろ」と桐悟が焦れったそうに鍵盤の端を叩く。「わざわざ外に行かなきゃメシ食えないんだから面倒なんだ。怒って当然だろうが」

「違うよ、桐悟。みんな面倒だから怒ってるんじゃない」

「あ?」

「全員が怯えてるんだ。この国の人間は空白を知らないから」


 食料供給機が全家庭に配備され、自動的に家事を行う機械に囲まれ、仮想現実の中ではほとんど手に入らないものはない。空いた腹は即座に満たされ、待機することなく欲しいものを獲得できる。そうやって、この国に生きる人々はずいぶんと長い期間、空白を排除し続けてきた。誰もが無為な時間を許さず、少しでも何もない時間が生まれたならその隙間を埋めるべくコンテンツの激流に身を任せるようになっている。

 屋代はそんな彼らに空白を強制した。

 何もせずに待つ、という行為は人々にとって苦痛そのものだ。外部記憶装置に映像・画像作品を移し込んで退屈を紛らわせようにも、食料を求めて我先にと殺到する人の群れの中では集中することもできはしない。時間を浪費しないために、彼らは自分の周囲の秩序が守られるように目を光らせて時間を浪費するしかないのだ。

 そこに音楽を提供すれば誰もが耳を傾けるはずだった。


「――それがつけいる隙だ。警官だとか、その場にいる関係者も一触即発の空気は嫌うから丸め込めるかもしれない。判断するのは現場の人間なんだから」

「それは……一理あるかもしれねえけどよ、あまりに希望的観測すぎねえか? 丸め込めるかもしれない、は丸め込めないかもしれない、だろ」

「大丈夫だ。きみたちの音楽は人を変える。それだけの力がある」

「……演奏ができなけりゃ変えるもくそもねえよ」

「なら最悪、誰かに金を握らせて警官を羽交い締めにしよう」

「お」と嬉しそうに隼が囃す。「悪徳公職者だ」


 その声に雰囲気の変化を感じたのか、美波と良志、滝が次々に口を開いた。


「可能性は低くても、方法がそれだけで今しかないなら、やる価値はあるんじゃない?」

「それでもまだ考えなければいけない問題はあるな」

「……それってなんとかなる問題だよね、良志」


 半ば悲鳴を上げるような滝の声に、良志は言葉に詰まる。彼は助けを求めるような視線を浅井へと送ったが、逡巡ののち、結局、彼自身がその問題を語った。


「電源の調達と機材の運搬だ。やるなら間に合わせで済ませてはいけないからな」

「電源なんて公園にユニット置かれてるじゃん。機材運ぶのも浅井さんにお願いして業者に頼めばよくない? 前みたいにさ」

「そうもいかないんだ」


 再び向けられた良志の目に、浅井は説明を引き継ぐ。


「公園にある電源ユニットは申請しなければ規定以上の電力を使えないんだ。運搬業者も配給のせいでほぼ完全に政府に押さえられてる」

「電源は別にしても、俺らにはリヤカーがあるじゃんか!」

「隼、お前は馬鹿か」桐悟はフロアの隅置かれたリヤカーを指し示し、鼻で笑った。「あれで何往復するつもりだよ。スピーカーとかもあんだぞ。だいたい、〈ヤーン〉の島田に貸してあるだろうが」

「あ、そうだった。返してくれるかな」

「でも、浅井さんの言うとおりなら」と、考えれば考えるほど絶望的に思えたのか、滝が蚊の鳴くような声で呟いた。「八方塞がりなんじゃ……」

「いやあ、そうでもないよ」


 浅井はにやりと口角を上げる。綿密な計画を練り、不安要素を片っ端から消す屋代が見たら粗が目立つのだろうが、挙げられた懸案はすべて浅井の中では解決しているものだった。

 突如として自信を漲らせた浅井に、〈エイブラハムの樹〉の面々は呆け、視線を送ってきていた。解決策があるなら初めから言えよ、と桐悟が早口に捲し立て、美波が、どうするつもりなの、と静かに浅井へと詰め寄る。


 俺たちには頼れる味方がいるのを忘れるなよ。

「森津モーリッツがいるじゃないか」

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