人工的まかない

 ホールケーキを乱暴に切り分ける。その様を思い浮かべる。

 等間隔に載せられた苺が揺れ、スポンジの断崖に吸い込まれそうになるが、踏みとどまる。ナイフを持った者は幾ばくかの気を使いながらも本心では落ちたところで大した問題ではないと思っている。見栄えは悪くなるが本質的には変わりはない、と思っている。カットされたケーキが自立するか横転するか、その瀬戸際までその作業を反復する。それが完全環境管理都市と銘打たれたこの国家が成立した経緯だった。


 政治家は無節操に国を切り分けても食い扶持を失わないが、しかし、コックが崩れたケーキを提供したら路頭に迷うこともある。屋代は慎重にナイフを入れた。


「おめでとう!」という男性客の言葉に追従する。「おめでとうございます」


 そこでにわかに店内がにぎやかになった。気のいい常連客たちが拍手をして口々に祝福の言葉を述べ、若い女が照れくさそうに顔を綻ばせて周囲に礼を繰り返している。屋代はウェイターが運んできたボトルを受け取ると、男女の手元にあるグラスに酒を注いだ。微炭酸の果実酒が踊りながら弾ける。グラスを満たし終えるとすぐに「ではごゆっくり」と告げて逃げるように引き返した。厨房へと入る間際、そっと後ろを確認すると男女が頭を下げていたため、笑顔を取り繕った。


「へたくそだなあ」


 嘲笑とも失笑ともとれる顔をした島田に迎えられ、屋代は大きく息を吐く。厨房には油と調味料の匂いが、以前よりもずっと濃く、染みこんでいた。


「なあ、島田。こんなのを被って出る必要なんてあったのか」


 大仰なコック帽を返し、屋代はスポンジと生クリームの残滓が吐いたナイフを投げるようにシンクへと置いた。からんと軽妙な音を立てたナイフは洗浄機に吸い込まれていった。


「屋代さんが買ったんじゃん。今日だって自分のを持ってくればよかったのに」

「もう持ってないんだ。この店をお前に任せたあと、知り合いに渡したよ」

「もったいないなあ」

「それよりも、俺が訊いてるのは必要性の話だ」

「そりゃ必要だよ」島田は常識を説くかのように返し、コック帽を被り直した。「いかにも料理してます、ってほうがお客さんの印象に残るし、それが後々話題になるかもしれないじゃん。わかりやすさって重要だと思うけど」

「覚えておくよ」


 屋代は会話を流し、フロアへと視線を移した。新たな来客はなくなっていたが、店内にはまだ十人程度の客が残っており、店員が注文の締め切りを伝えているところだった。テーブル席には女の、カウンターには男の店員が慣れた調子で話しかけている。


「しかし、いつから客のサプライズに協力するなんて気の利いた店になったんだ?」

「あれ、不満なの? 屋代さんだってあんなに笑顔を振りまいてたのに」

「不満とは言ってない」嘘ではなかった。自分が調理場に立ち続けていたとして、毎日でなければ悪いことではない。「俺がいた頃より感じのいい店で違和感があるんだ」

「なるほど、嫉妬だ」

「嫉妬とは言っていない。ただ、俺が働いてたときより内装に気配りができてて、客が楽しそうで、売り上げが良さそうだから腹が立っているだけだ」

「嫉妬じゃんかよ」


 島田は声を上げて笑い、まかない作りに着手する。注文の追加はなかったようで数時間前の慌ただしさはなくなり、雑談をするくらいの余裕が生まれていた。以前には確かにあった、この時間帯に訪れる達成感がないのが少し寂しくもあった。


「まあ、経営努力ってやつだろうね。それに、ほら、彼女も入ってきてくれたし」


 島田はコンロの前から離れ、食器を下げているウェイトレスを指さした。女性というよりかは少女に近い。人懐っこい笑顔が印象的だ、と顔を合わせたときに感じたことを思い出す。「新しく入った調理師さんですか」と訊ねられ、経営者であることを告げると、彼女は狼狽し、顔を赤くした。「え、あれ」と動揺を隠しきれずに謝る姿は子犬のような愛らしさがあったため、人気があるのも頷けた。「私より後に入った人がいなくて、先輩風を吹かせたくて」


 彼女は三ヶ月ほど前からこの店で働いているらしい。つまり、屋代は少なくともこの三ヶ月、自身が経営している店に足を運んでいなかったということになる。ここしばらく爆弾の設置のみに意識をとらわれていて、それ以外は頭になかったのだ。雇用契約を確認しない経営者とスープに添えられた箸とではどちらのほうが奇異なのだろうか。有用性が微塵もないと揶揄やゆされても反論する余地はなく、実際、島田に何度「こっち手伝ってくれよ」と愚痴を漏らされたか、数えられない。手伝いとはなんだ、と声を荒らげたくもあったが、傍目から見たら彼の主張に訂正すべき点はなかった。


「ああ、かわいいなあ」


 島田は美人を眺めることこそが人間の使命だと言わんばかりの態度で彼女に視線を送っている。使命感は結構だが、名前の後に「ちゃん」をつけて呼ぶ島田はやに下がっていて直視できるものではなかった。「お願いします」と空の皿を渡されて「お願いされまあす」と受け取る姿に目を逸らさずにはいられない。熱を上げるのは結構だが、後方ではフライパンがじりじりと音を立てていた。


 賄いを口にしたのは営業を終え、片付けを済ませたあとのことだ。給仕をしていた二人は一足先に帰宅していた。

 窓から垣間見える夜には静けさが浸透し始めている。

 島田の作った賄いは案の定焦げの味がしたが、それでも満足できるほどの出来栄えだった。他人の――自分以外の人間により振る舞われた食事だったという理由抜きで、だ。


 栄養が豊富で彩りも鮮やかな食事がなんの労力もいらずに食べられる世の中になって既に久しい。屋代が生まれるよりずっと以前に稼働を始めた食料工場は、今日まで国民すべてに対して生存に最適な栄養を提供し続けている。指先一つで食にありつける快適さはこの国から取り払えざる社会基盤とも言えた。

 しかし、屋代はその利便性を歓迎できず、また、するつもりもなかった。なにもかもが反抗心に由来しているのかもしれない、と考える。料理店を開いたことも、街に爆弾を仕掛け始めたことも、機械が作った食事を摂れないことも。ただ、分析する段階はとうに過ぎ去っている。唯一の心残りはこの店ではあったが、幸いなことに評判は上々だ。従業員にも恵まれている。


「……お前を雇ってよかったよ」

「なんすか、かしこまって」

「美味いからな、これ」

「片手間ですけどね」

「焦がしてるしな」

「そうだけどさ」納得のいかない顔で島田は眉を顰める。「若者の失敗には寛容になるべきだよ」


 若者の失敗には寛容になるべきであるのなら、大人の失敗にはどう対応すればいいのだろう。経験豊富で地位も高く、誰かを導く立場の人間が間違いを犯したときこそ俺たちは口を噤んでしまってはいないか?

 その疑問を心の中で唱えたとき、屋代の脳内に鮮烈なイメージが突如として甦った。母親だ。母親の表情のない顔。思い返そうとしたわけでもないのに平坦な声が突き刺さるような強さで聞こえてくる。口の中に酸味が溢れ、屋代はそれを必死に飲み下した。焼けるような熱が食道を通り、胃に落ちる。


「――屋代さん? どうしたの?」


 気付けば賄いを食べ終えた島田が満腹の幸福と屋代への疑問を半々に覗き込んできていた。絶縁状態にある両親との思い出に酩酊めいていしていた、などと言えるはずもなく、「なんでもない」と不器用にごまかす。「持病だ、持病」とおどけると、解決されたわけもないだろうが、島田は「そうですか」とだけ言ってそれ以上の詮索をしてこなかった。


 誰かに詳しく話したことはない。

 言葉にしたところでよい変化など訪れはしないと理解していたし、それを口にすることで積憤せきふんとも恐怖ともつかない感情から逃れられなくなるような、曖昧な危惧に苛まれてもいた。質問されて、機械が作ったメシなんて食えるか、と冗談めかしたことはあったが、その程度だ。


 見咎みとがめられないよう息を吐き、屋代は皿に載った細切れの肉と野菜を掻き込む。咀嚼そしゃくするとみずみずしい野菜が音を立てて舌の上で踊り、ソースと絡まった肉が柔らかな食感とともに香ばしい匂いを広げた。喉を通る感触は羽毛のような軽さで満ちている。胃に溜まっていく質量が心地よい重みへと変わっていく。

 ほどなくして島田とともに店を出た。軽く飲みにでも行きますか、と誘われたが、断る。明日も朝から仕事が入っていた。料理店の経営ではなく、本業のほうだ。


「何してるんでしたっけ」

「土建業だな」と短く返す。

「うちも繁盛してるし、こっちに一本化すればいいのに。屋代さんだって道路掘り返すより料理作ってるほうが楽しいでしょ」

「道路を掘り返すことは悪じゃない。料理を作るのも、同様に、善ではない」

「料理は善だよ」善と膳をかけたわけではないだろうが、島田は断言した。「何かを作るってのはこの上なく素晴らしいじゃんか」

「それなら道路を掘り返すのは悪にならないか?」

「作るために壊すならそれもまた善だよ」

「お前は悪という言葉を知らない妖精のようだ」

「失礼だなあ、悪くらい知ってるよ」

「たとえば?」

「朝から夜まで働くとか」

「夜は働いてないし、それにどこかの学者が『労働は娯楽に変貌した』と主張していたぞ」


 いつだったか、成年の未就労問題についての会議でされた弁を引用したが、島田が賛同する気配は小さじ一杯ほどもなかった。


「前にその仕事やめたいとか言ってたような」

「人は時の流れとともに考えを変える」言いながらそうであることを願う自分がいる。「今はやめたいとは思っていない」

「あー、もう、下克上してえなあ」


 下克上? と繰り返してから、その響きの中の、砂漠に漂う風船のようなおもむきに、頬が緩んでいくのに気がついた。違和感があるが、どこか可愛らしい。小さく笑うと島田は不満を満面に滲ませて唾を飛ばした。


「屋代さん笑ってるけどさ、そうすれば俺がオーナーシェフでしょ。屋代さんをこっちに拘束することもできるし、それにもう結構な人気店になってるから女の子が放っておかないじゃんか」


 言葉が出ない。そう遠くない未来、お前はオーナーシェフに昇格するんだぞ、と告げたくなる。下克上を果たすのだ。人気店であるかはさておいて、屋代は店を島田へ譲る算段を立てていた。

 計画は彼に伝えていない。島田は吹けば飛ぶくらいの軽薄さに溢れた容貌をしているが、その実、確かな善悪の基準を持った人間だ。そんな彼に自分の心情と現況を吐露するのは胸が痛んだ。

 自分の行いは善なのか? これは何かを作るための行為に当たるのか? 間違いであるのなら島田は雇い主である自分に対してそれを突きつけることができるのか? 訊ねれば何かしらの回答が得られる予感はあったが、できそうになかった。


 それから五分ほどたわいのない会話をしながら歩いたところで島田と別れた。「じゃあ、また」と欠伸をした彼を乗せた自動運転のタクシーは音もなく闇の中へと滑っていった。

 日付が変わる直前の夜は往来も少なく、寂寞としている。高層住宅の窓からはまばらに光が漏れており、遠くから聞こえる自動車の音が静かに揺れる海を想起させた。実際に海を臨んだことなどなく、鑑賞した映画の中でしか海を知らなかったが、さざ波の音にどこか似ているような気がした。街に眠る爆弾が洗い流されはしないかと杞憂が身を包む。

 屋代は視線を落とす。足下、地中には食料を供給するためのパイプラインが蜘蛛の巣のように張り巡らされていて、脳裏に浮かぶその夥しいまでの細緻さいちさが皮膚を引っ掻いた。足の裏に、料理を真似た得体の知れない物質の、うごめくような感触が伝わり、背筋が寒くなる。爆弾を起爆したあとのことだけ、夢想する。

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