降りそそぐ夕立

 定刻通りに演奏を始めるように伝え、青空市場で入手した通信機能付きのビデオカメラを設置し、浅井はライブハウスを後にした。タクシーを探したが、配給が続いているためすぐに捕まるとも思えず、ひとまず走ることに決める。

 走るのは嫌いではない。

「よし」と頷き、膝を屈伸させる。そのとき小さな看板が目に入った。〈エイブラハムの樹〉と出会うきっかけになった、あの看板だ。「音楽売ってます」という文字を眺め、少し思案してから「売」の字を消す。かたわらに落ちていたチョークを手に取り、代わりの字を書き込んだ。「音楽やってます」。それからコンテンツ配信サイトを映し出し、ライブハウスの場所と演奏開始時間を記載しておく。


          〇


 目的地である中央管制塔の前は人でごった返していた。事件から三日も経つというのに不平を露わにする市民たちが未だにつどっているのだ。彼らはいちように外壁に設置されたビジョンを見上げ、憤りを叫んでいた。映し出されているのは屋代の事件を報じるニュース番組だった。浅井は掻き分けて入り口を目指したが、興奮した人々がそれを許すはずもなかった。屋代への怒りか政府への不満か、彼らはさまざまな感情をない交ぜにして入り口へと殺到している。


「通してくれ、どいてくれ」


 浅井が声を張り上げたものの返ってきたのは煩わしげに睨む視線ばかりだった。時刻を確認し、焦燥が膨らむ。自宅に寄ってから駆けつけたため、開始まではあと二十分ほどになっていた。肌を焦がすような熱気と上昇した体温に汗が噴き出す。持ってきた鞄が邪魔でうまく拭えなかった。

 一度、頑強な人の壁から抜け出し、周囲を確認する。裏に職員通用口があるものの中央管制塔は非常に巨大な建造物であり、また、現場に到着してから準備することもある。手をこまねいていられる場合ではなく、浅井は奥歯を噛みしめ、裏手へと回ろうと踵を返した。


 そのとき、視界の隅に見覚えのある男を見つけた。

 軽薄そうな男が空かあるいは街頭ビジョンを見据えていたのだ。騒ぐ民衆の中で彼だけが一人、黙っている。その横顔は間違いなく〈ヤーン〉の厨房にいた島田のものだった。何を持ってきたのか、布を被せた大きなリヤカーが横に置かれていた。

 彼はすぐに浅井の視線に気付き、少し思案したあと、「ああ」と手を挙げた。「この前、波多野さんと一緒に来たお客さんだ」その声には一切の曇りがない。屋代とも面識以上のものがあったはずだというのに彼の顔は不思議なほど明るかった。


「いやあ、あの大犯罪者、行っちまうよ」


 少なからず事件の渦中にいるはずの彼は、しかし、屋代を恨むような口ぶりをしていなかった。泣き笑い、みたいな顔をして天を突く塔を眺めている。

 屋代は彼に伝えていたのだろうか。波多野はあの性格だ、事実を知ったところで影響はない。だが、目の前にいる男はそういう人種には思えなかった。桐悟と同じくらいの年齢だろうか、自分のいる環境を壊されて黙っているほど大人しそうな顔つきではなかった。

 浅井は再び時計を確認する。すぐに走り出さなければいけないのは重々承知していた。だが黙って去ることができない。屋代の行為は大きな過ちなのかもしれないが、きっと正義があったのだと弁解しておきたかった。


「あの、俺が言うべきことじゃないと思うんだけど、屋代を恨まないでくれないか? あいつにも何か理由があったと思うんだ」

「あれ、お客さん、屋代さんのこと……あー、なんていうか、知ってたりするの?」


 島田の「知ってたりするの?」の発音は明らかに裏の意味が隠されていた。そのあっけらかんとした安穏さに気勢を削がれる。もしや、と浅井も問いかけた。


「店長さんも知らされてたの?」

「それは俺が今した質問じゃん」


 島田はけらけらと笑い声を立てて指摘する。だが、回答が得られたと判断したのか、「答えなくていいや」と意味ありげに頷いた。それからきょろきょろと周囲を見渡し、注意が注がれていないことを確かめると声を顰めた。


「うちはホウレンソウができる職場なんだよ」

「これはプライベートな犯行に思えるけど」

「犯罪にプライベートもくそもないでしょ……でも、まあ、うん、俺は関与してません」


〈ヤーン〉の関係者であるから警察から幾度となく事情聴取を受けていたのかもしれない、 彼の口調は滑らかで、また、それを煩わしそうにしているようにも聞こえた。しかし、少しだけ誇らしげに顔を綻ばせている。その様子には屋代との関係性が如実に表れていた。


「店長さんは……どうして止めなかったんだ? 事前に教えられたのに」

「止めたよ」と島田は心外そうに唇を尖らせた。「止めたけど止まんなかったんだ。それだけ。だいたい教えられたって言うほど俺は聞いてないからね。何をするつもりなのかってことと何が目的なのかってことくらいだよ」

「目的?」心が跳ねる。「いったい、屋代はなんのために」

「メシ屋の陰謀だよ。そうでなければこの小さな世界を救おうとしたんだ」


 島田の言葉に当惑する。その二つにどんな繋がりがあるのか、見当もつかない。


「どういうことか、説明して欲しい」

「屋代さんはね」と彼はもったいつけるように顔の前で指を立て、ゆっくりと口を開いた。「供給機から出てくる餌を食ってるやつらを外に出そうとしたんだって。みんなで一緒にメシを食えば人が元に戻れると思ってたんだよ。で、あわよくば俺たちが作ったメシを食わせようとしてたんだ」


 清冽な空気が胸の内を叩く。

 浅井は堪えきれず、大声で笑った。


 なんだよ、屋代。お前、ずいぶんくだらない理由じゃないか。


 もちろん、彼の背景に遊離症や社会病理への啓蒙めいた意味もあるのだろう。だが、重要だったのは、専門家が頭を悩ませるような問題への対処ではなかったのだ。彼が成し遂げようとしたのはとてもくだらなく、取るに足らない、変革だ。

 そのとき、街頭ビジョンに屋代の顔が映し出された。逮捕時に撮影されたのか、すべてを受け入れた表情の彼は軽やかに問いかけてくる。


『メシは美味かったか?』


 たったそれだけが、きっと彼からのメッセージだった。

 それが伝わっているわけもないだろうが、民衆たちの温度は一気に上昇し、四方八方から怒号が湧いた。「屋代、死ね!」という心ない言葉がどこかから上がり、何がおかしかったのか、隣の男が噴き出す。笑っている場合ではない、と思いながら浅井自身も笑みを抑えることができなかった。


「……ありがとう、あいつの目的を聞けてよかったよ」

「どういたしまして」と男ははにかむ。「ま、ついでだし、気にしないでよ」

「ついで?」

「屋代さんがこの世界から消えるときにやろうと思ってたんだ。あ、そういえばお客さんは何しに来たの? やっぱり『屋代死ね』コール?」

「ああ、違うんだ。中に入りたくて」

「なんだ、中央管制塔の人か。波多野さんと来てたもんね」

「そうなんだけど……ここからじゃ入れそうにないな」


 開演時間まで既に十五分に迫っている。ここから通用口を通って目的地に着くまで少なく見積もっても十分以上はかかってしまうだろう。もう一刻の猶予もなかった。恰好はつかないが、〈エイブラハムの樹〉に少し待ってもらうことも視野に入れ、男に別れを告げる。


「時間がないな……もう行かないと」

「あ、あそこの入り口なら、今、入れるようにしてあげるよ」


「え」と浅井は動きを止める。目の前にある混雑は凄まじく、ちょっとやそっとの力では押しのけることなどできない密度だ。彼一人の腕ではとてもじゃないが道を開けるとは思えなかった。

 何をするつもりなのか訊ねる。訊ねようとして、言葉をなくす。島田はいつの間にか隠されたリヤカーの荷台からコック帽を取り出し、頭に被せていた。いかにも料理しています、という恰好に浅井は呆け、次の行動を見守る。

 そして、彼は大きく息を吸い込み、叫んだ。


「あーあー! 屋代とか言うやつは許せねえけど、とりあえず腹拵えしなきゃどうにもならねえなあ!」


 あまりの声量に怯む。それは浅井だけではなく、詰めかけていた民衆すべてが同様だった。虚を突かれたかのように静けさが訪れ、それから彼はその隙間に滑り込む。


「そう考えていると思いまして、〈ヤーン〉二代目店長の島田がお食事をお持ちしました」


 リヤカーの荷台に被されていた布が取り払われる。そこに所狭しと並んでいたのは配給に用いられている容器だった。漂う雰囲気から詰め込まれているものが食料工場で作られた料理でないことはわかる。


「今日のところはお代は結構でございます。どれでもお好きなものをどうぞ」


 どの単語に市民たちが反応したか、わからなかった。「腹拵え」か〈ヤーン〉という店名か「お代は結構」か、とにかく、人々の視線はコックへと変貌した島田の元へと集まっている。込められた感情はさまざまだ。奇異や憤慨、困惑、あるいは食欲――それぞれがそれぞれの感情に従い、島田の元へと歩み寄っていく。


「ほら、いきなよ」

「あ、ああ」


 すし詰めになっていた出入り口に隙間が生まれつつある。浅井は駆け出す前に島田へと手を差し伸べた。握手かと思ったのか、伸ばされた彼の手、その人差し指に触れる。そして浅井は自分の口座から全財産を島田へと送った。


「これで滝と隼、それからその仲間に美味いメシを食わせてやってくれよ。いい店で奢るって約束したのを忘れてたんだ。お礼分くらいはちょろまかしていいからさ」


 金額を確かめた島田が「え、え」と狼狽する。どうせもう金に意味はない。島田へと群がる市民たちを掻き分けて中央管制塔へと足を踏み入れる。


          〇


 普段はまともに稼働していない現実世界での窓口も事件の影響で列ができていた。担当職員と市民の表情から好意的な反応は読み取れない。行列を作ってまで苦情を叩きつけるのもおかしな話だと笑いを堪えて、浅井はエレベーターへと乗り込んだ。


 屋代は食料供給管を封鎖する直前、どのような思いだったのだろうか。

 未練に胸を焦がしながらスイッチを押したのか、それとも無風の草原さながらの穏やかな気持ちだったのか。浅井は心残りに震えながらも穏やかではあった。一切の悲観なく、自身の行為が正しいと信じられるのはとても幸福だ。それに従事する間は揺るがずにいられる。


 エレベーターはどんどん高度を増していく。波多野はうるさいだろうな、と顔を見せたときの反応を予想して、浅井は唸った。申請なく欠勤しているせいで彼はおそらく一人で業務を担当しているだろう。規則では規定の人数が揃わない場合、前の時間帯の担当者がしばらく残らなければならないのだが、今日はスコール女史がその担当者だ。彼女がその規則を遵守しているはずがない。まさか彼女に感謝する日が来るとは思わなかった。今、波多野の他に職員がいるのは不都合極まりない。

 エレベーターが停止し、浅井は天候管理局へと急ぐ。到着すると同時にガラス製の扉から中を覗くとやはり室内には波多野しかいないようだった。苛立たしげに身体を揺らしており、そっと扉を開いたが、気付かれないはずもない。


「お前、何してんだよ」波多野はすぐさま立ち上がり、声を荒らげた。「お前が遅刻したせいで俺があの女にぐちぐち言われただろうが」

「ってことは波多野さんも遅れたんですよね」


 笑いながら言い返すと、そういう話じゃねえだろうが、と彼は語気を強めた。悟られないように扉の物理錠を掛け、近づく。


「何度も連絡したってのに最悪だよ」

「落ち着いてくださいよ、謝りますから」

「謝るのは社会人として当然だよ。もっと誠意を見せろって」


 波多野は椅子に身を投げ、氷しか入っていないグラスを傾けた。氷をがりがりと噛み砕いている。浅井は刺激しないよう、謝罪を繰り返しながら波多野の背後へと回り込んだ。彼は音を立ててグラスを置き、後頭部で手を組み、気怠そうに唸る。

 チャンスだ。

 浅井はすかさず鞄から手錠を取り出し、波多野の手首にかけた。がちゃん、と金属が冷たく擦れ、彼の両腕が繋がれる。

 もはや躊躇できない。

 違和感に気付いた波多野が腕を掲げ、「なんだ、これ」と狼狽した声を上げた。浅井は背中に隠しておいたロープを彼の肘の内側に当てる。そして、腕が身体の前面へと行くように思い切り押し込んだ。

 ぐるりと波多野の腕が回る。抵抗はまだ感じない。

 ロープを縛るのに手間取っているうちにさすがに冗談ではないと勘づいたのか、波多野は身を捩り始めた。怒りを露わにして、腕を揺り動かし、足をばたつかせている。


「おい、なにしてんだよ」

「暴れないでくださいって」言いながら、ロープを締めつけるべく、力を込める。

「おい、浅井、お前なんのつもりだ」


 問いというより制止の色が強い声を無視して、浅井は輪を作り、そこにロープの末端を通した。波多野の身体が背もたれに引きつけられ、固定される。彼は縛られた腕を窮屈そうにくねくねと動かし、しばらく身悶えしていたが、どうにもならないと悟ったらしくやがて抵抗をやめた。生真面目に政府規定の運動量を達成していた甲斐があった、と浅井は苦笑する。運動を蔑ろにしていた波多野を拘束するだけの筋力差はあったようだ。


「いや、本当にすみません」


 浅井はロープが解けないようさらに巻き付け、椅子へとくくりつけた。それから身動きの取れなくなった波多野を古いコンソールが置かれている机まで押し込んだ。異常を知った職員が来ていないかと入り口に目を向けたが、人影はない。ゆっくりと息を吐く。同時に波多野の口から憤懣ふんまんが舌打ちとなって溢れた。


「浅井、なんの悪ふざけだ」

「悪ふざけじゃないですよ」監視カメラで映像と音声が保存されているのだ、この所業が悪ふざけで済まされるはずがない。「波多野さん、言ってたじゃないですか。優雅に下界を見下ろせる、空調の効いた部屋で拘束されたいって。ほら、森津さんのとこで」

「されたいとは言ってねえだろうが」と勢いよく波多野は反駁した。「なんで前向きな発言として捉えてるんだよ」

「そうでしたっけ」

「俺が訊いてるのは、なんの目的があってこんなことをしてるんだってことだよ。俺を誰だと思ってんだ」

「中央管制塔の職員」

「わかってるじゃねえか。付け加えるならお前の先輩だ。先輩を縛る後輩がどこにいる?」


 早くほどけ、と波多野が喚き散らす。再び彼は身を捩り、ロープから抜け出ようとしたが、浅井は意にも介さず、かねてからの疑問を投げかけた。


「……でも、波多野さん、今でも中央管制塔のセキュリティ部門を担当してますよね」


 ぴたり、と波多野の動きが止まった。目つきが鋭くなり、細い息を吐く音が聞こえる。


「お前、知ってたのか」

「あれだけヒントがあったらわかりますよ」


 元をただせば、セキュリティ関連の技術に秀でた人間がこんな子供にもできるような業務に就いていること自体が道理に合わなかった。十年前に企てられていた中央管制塔のシステム攻撃未遂事件、その有識者会議に招かれるほどの人間が天候を弄って遊んでいて許容されるはずがないのだ。

 不自然な点は他にもある。

 免職されかねないほどの勤務態度、勤務時刻の改竄、事件翌日の早すぎる出勤もそうだ。

 そして、波多野が未だセキュリティ部門で重用されているという前提に立てば、彼の傍若無人な態度すべてに納得ができた。勤務態度や勤務時刻の改竄はある種の特権として、屋代の事件に関しては朝早くに招集されていたとしたら辻褄が合う。常日頃から勤務後に呼び出しを食らっていたのも実際は本職についての打ち合わせなどがあったからかもしれない。叱責されていたとしたら上司への愚痴を漏らしていないはずがなかった。

 物理的な世界に住んでいる人間の中には仕事を掛け持ちしている者も少なくない。波多野は中央管制塔でそれをしていただけなのだ。


「それで?」波多野は大きく嘆息する。「確かに俺はセキュリティ部門の特別顧問をやってるよ。それとお前の悪行と、何の関連性があるんだ?」

「天岩戸です」

「は?」


 何を言ってるんだ、と波多野は眉間に皺を寄せた。浅井は「見ててください」とだけ言って、波多野の前にある時代遅れのコンソールを叩く。開かれていた天候管理プログラムが消え、システム管理者用の設定画面がポップアップする。

 浅い領域であれば浅井にアクセスが可能だ。だが、セキュリティの項目は閲覧すら許されておらず、すぐに個人認証画面へと行き着いた。浅井は手錠で繋がった波多野の右腕を掴み、強く惹いた。ロープと椅子が軋み、波多野は顔を歪める。


「痛えよ」

「ちょっと我慢してください」謝りながら右手でID識別センサーを手繰り寄せ、波多野の指先にあてがう。小さな機械音が鳴り、画面が切り替わった。

「お前、この時点で減給じゃなくなったからな」

「減給程度で怯むと思いますか」

「そりゃそうだ」笑うしかなかったのだろうか、波多野は身体を揺らして笑声を漏らす。「で、何をするつもりなんだ?」

「何をするつもりだと思います?」

「だからそれを訊いてるんだって」


 浅井はその問いには答えず、自身のポケットをまさぐった。指先に硬い感触が伝わり、摘まみ、掲げる。波多野はそれを目にすると素っ頓狂な声を上げた。


「お前、これ」飄々としていた彼の顔色が豹変する。「正気かよ」

「ここのコンソールが古いやつで本当によかったですよ」


 浅井が手にしていたのは円柱状の小さな記録媒体だった。波多野が無断で森津の倉庫に保管し、浅井が返しそびれていた、クラッキングプログラム。

 波多野がこのプラグラムを手に入れた経緯はどうでもよかった。本人から譲り受けたのか、有識者会議で配布されたのか、そのどちらかだ。重要なのはその威力だった。このプログラムでセキュリティソフトの設定を書き換えたならば、国家機密に相当する事項であっても閲覧や変更が可能になる。それは当時の報道でも頻りに述べられていた。

 未遂であったにも関わらず追放刑に処されるほどの意志がこの媒体に記録されている。この国のシステムが中央管制塔で一括管理されている以上、ただ一点、穴を開けただけで脆くも崩れ去るのだ。堅牢な城塞ほど蟻穴の綻びで全体を揺るがす。

 浅井は大きく息を吸い、端末に記録媒体を差し込んだ。

 セキュリティ従事者のアカウントであるからか、ウイルスチェックは始まらない。簡単な認証画面が再び現れ、浅井は波多野の指をセンサーに当てた。耳元で響いた無機質な機械音が鍵の開く音にも聞こえた。


「追放刑確定だな」

「それでも国外からのアクセスが物理的に遮断されててよかったです」浅井は笑顔で頷く。「そこまではちょっと責任が取れないですよね」

「で、結局何が起こるんだよ。ただ扉を開いただけか?」

「まさか」


 浅井はコンソールを操作し、目的の項目まで素早くアクセスした。彼の権限であっても変更が不可能だった項目も今やフリーパスとなっている。浅井はプログラムを手早く書き換え、保存した。


「にやにやするのは不謹慎じゃないですか」波多野が子どものように目を輝かせているのが目に入り、浅井は思わず噴き出す。「国家の危機ですよ」

「笑ってねえよ。恐れおののいてるんだ」

「その割にはずいぶん表情が柔らかい」

「諦めだろうなあ。大好きな国が壊されるのを歯噛みして見ていることしかできない」

「波多野さん、この国好きだったんですか? あんなに国民に嫌がらせしてたのに」

「愛してると言っても過言じゃねえな!」


 部屋中に響き渡るような声で宣言してから、波多野は急に声を潜めた。部屋の隅に取り付けられた監視装置を盗み見て、浅井にしか聞こえないような声で、彼は続けた。


「お前然り、屋代然り、この国の人間が捨てた大事なものを必死に取り戻そうとするやつらが出てくるだろ? 何もかもが満ち足りた生活なのに、その中で生きていけないやつがいて、欠けたものを取り戻そうとする行為は身震いするほど素晴らしいんだ。他の国ではそれが曖昧になっちまうけど、この国では明確になる。俺はそれだけでここに留まってるんだよ」

「あの思い出ボックスの人たちですか」

「気付いたのか」波多野は嬉しそうに呟いた。「俺の友人は馬鹿ばかりだよ」

「気が向いたので持ってきたんです」浅井は手錠とロープ、そして記録媒体に目配せをする。「ちょっと乱暴な使い方ですけど」

「全部持って来いよな」

「俺も何かあの箱に突っ込んでおきたかったんですけどね……事前の準備がなかったから用意できませんでした」

「まあ、探すさ」と波多野は嬉しそうに言う。「これでお前ともお別れだ」

「屋代に会ったら顛末を伝えておきますね」

「よろしく言っておいてくれ」

「じゃあ、始めますか」


 浅井は姿勢を正し、深呼吸する。「ポルノでも流すのか?」と軽口を叩く波多野に笑顔を返し、プログラムを実行させた。波多野の座る椅子を押して窓際へと赴く。

 そして――空が爆ぜた。


          〇


 大規模地殻変動などを想定した緊急時首長声明は全国民に避難を促すためにネットワーク上すべての映像媒体に強制的に介入する。地中に存在するこの国の天頂、空も例外なく映像媒体であり、その対象となっていた。

 青空と雲が消え、太陽が蒸発し、一瞬にして暗闇が訪れる。光度に反応する街灯が眼下で灯りを点す。狼狽し、上空を見上げる市民たちの姿を想像すると興奮が勢いよく血中に溶け、体温が上昇していった。

 空に映し出されているのは小さなステージだ。合わせて五人の男女が楽器を構えて立っている。中央で立っている隼が『時間だ』と言った。耳元に埋め込まれた骨伝導システムが骨と肌を震わせる。


『今日は〈エイブラハムの樹〉のライブに来てくれてありがとう。まあ、誰もいないんだけどさ。約束だし、やるよ』


「お前、ライブの中継するために犯罪してんのかよ!」波多野はもはや監視装置などどうでもいいかのように声を上げて笑った。「馬鹿すぎだろ」

「ほら、始まりますよ」


 右端にいる桐悟がそっと腕を上げ、鉄琴を叩いた。金属質な冷たい音が浮遊する。静けさが際立つかのような澄んだ音だった。

 一瞬の静寂。

 来る、と身構えた瞬間、美波の叩くドラムのリズムが頭蓋骨から背骨を貫き、走った。同時に左端に立つ滝がベースを掻き鳴らす。低音が皮膚を締めつける。ギターが唸る。良志の奏でるギターの音色は力強く、筋肉を震わせ、内臓を揺さぶった。

 空に映し出された彼らの姿はライブハウス内の光源に薄く照らされている。非現実感も相まって、どこか神々しい。


 ――ああ、きみたちはまだ気付いていないだろうが、今、すべての国民が〈エイブラハムの樹〉を耳にしているんだ。これまでのライブとは比較にならない人数が配給や仕事のことなど忘れて聴き入っている。


 激しい前奏が終わると隼が歌い始める。普段の正確からは思いも寄らないほど野性的で、叙情的な歌声が血管を満たす。知らず、身体が跳ねる。

 そして、名残惜しむかのように歌声が消えた。次いでドラム、ベース、ギターの演奏が止まる。桐悟が鉄琴を叩き、余韻が長く尾を引いて宙に溶けた。一秒に満たない空白が生まれ、その虚を突くようにして演奏が再開する。彼らの奏でる音が渾然一体となり、危うい調和を保ちながら弾ける。隼の声が中心を貫き、四人がコーラスを始め、快感を覚えるほどの音楽が響き渡った。


 激しく、繊細で、唯一無二の美しい音楽が、夕立のように天空から降ってくる。


 そばで聞きたい、彼らの音楽を全身で感じたい、と思うと視界が涙でぼやけた。

 五分ほどの演奏が終わり、浅井は目を瞑る。足下にいる聴衆から歓声が轟いている気がして必死で耳を澄ませる。

 そのとき、『マジかよ』と隼の随喜を孕んだ声が、聞こえた。

〈エイブラハムの樹〉の前に観客が立っているのだ。一人が二人となり、四人となる。顔も知らない観客たちは腕を突き上げ、手を叩き、歓声を上げていた。隼たちは狐につままれたかのように呆け、それから口々に感謝の言葉を述べた。中継されていることに薄々勘づいたのだろうか、隼はカメラに視線を送り、『何してるか知らないけど、すげえよ!』と顔を明るくした。

 眺めている間にも徐々に人の姿が増えていく。彼らは揉み合うようにしてステージの前まで詰めかけ、興奮を露わにしていた。定点カメラの映像を網膜に刻みつけるように、浅井は空を見つめる。隼、桐悟、良志、滝、美波、五人の表情を必死に記憶する。


『じゃあ、次の曲行きまーす!』


 隼の叫びに呼応して観客が沸き立つ。

 サックスに持ち替えた桐悟の演奏を皮切りに演奏が始まる。


「すげえな」と波多野が染みいるような声で言った。「目が覚めるみたいだ」

「観客五十万人のライブですよ。これでこの国の全員が〈エイブラハムの樹〉を知った。間違いなく届いてますよね」

「訊くまでもねえだろ」波多野はもどかしそうに身を捩り、窓際に近づこうとする。「この部署に……いや、お前に会えてよかったよ」

「あ、そういえばどうしてこの部署に来たんですか? こんな誰でもできるような仕事」

「言わなかったか?」

「聞いてないですよ」

「なんていうか、晴れの最中に雨を降らし続けたらよ、この国のやつらも『なんかおかしいな』って考えるんじゃねえかって思ったんだよ」

「そんな」浅井は呆れ、思い切り苦笑した。「そんな理由ですか」

「意味なかったな。北風と太陽に学べばよかった」

「本当ですよ」

「でも」と波多野は空を見つめる。「お前が降らした雨は効果覿面じゃねえか。たぶん、これ、何かが変わるぞ。あいつら仮想現実の中にはいねえんだろ?」


 その言葉で浅井はこれまで感じたことのない幸福感に包まれた。個性豊かな人脈を持つ波多野に認められたのならばもはや言うことはない。世間では〈エイブラハムの樹〉の裏方を評価する人間はいないだろう。だが、確かに自分を認めてくれる人がいることで浅井はすべてが報われたようにも思えた。

 降り注ぐ雨のように〈エイブラハムの樹〉の演奏は続いている。

 だが、いつか終わりが来ることは知っていた。

 扉を叩く音が背後から響き、振り返るとガラス戸の向こうで物々しい武装に身を包んだ警察が喚いている。


「もう、来たのか」


 鍵のかかったガラス製の扉が歪み、破られた。ガラスの砕ける鋭利な音が肌を刺す。

 一瞬間を置き、浅井が武器を所持していないと悟ったのか、警官たちは勢いよく机を乗り越え、左右から突進してきた。腹部に衝撃が走り、身体が後方にずれ、窓に背中を打ちつけられる。バランスを崩した浅井は横向きに倒れ込み、押さえつけられた。腕を拘束する冷たい感触が皮膚を叩く。


 まだ、曲は続いている。


「頼む、最後まで聞かせてくれ、この曲だけでいいんだ、もうちょっと待ってくれよ」


 必死に懇願したが、彼らは聞く耳を持たなかった。首筋に硬い感触が押し当てられる。

 聴かせてくれよ。

 武装警官が首に当てた器具を押し込み、空気の抜けるような音が鼓膜に当たったところで浅井の意識は途切れた。

 現実か願望か、耳元でかすかに〈エイブラハムの樹〉の演奏が鳴り響いている。

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