第三章

シューベルト

        【屋代 5】



「屋代くん、勤務中に居眠りはよくないんじゃない?」


 エラは鬼の首を取ったかのような表情で、たしなめるようにそう言った。頭が重く、まぶたに痒みにも似た痺れが充満しており、咄嗟に目頭を押さえる。それがまさに声をかけられるまで寝ていたと受け取られてもおかしくない反応だと思い及ぶ。

 遊離症の症状は白昼夢によく似ている。

 だが、それを明かす気にもならず、屋代は適当に言葉を返した。


「人もいないし、大した問題じゃないだろ」


 昼前の社内は閑散としていて、屋代とエラを含め社員は数人しかいなかった。午後になれば現場業務を終えた同僚たちが帰ってきていくらか賑わうが、午前中としては普段通りの光景ではある。屋代は退職に伴う事務処理のファイルを保存して視界から追いやった。


「何の用だ?」

「そっけないなあ」とエラが苦笑する。「約束、覚えてる?」

「約束?」

「あ、やっぱり覚えてない。ほら、市民大会の」

「内容を覚えていないわけじゃない。約束をした覚えそのものがないんだ」

「あのねえ、屋代くん。甘い、甘いよ、甘過ぎ。私から逃げられると思ってるの?」

「逃げたいとは常々思っている」

「そっか、まあ、それはいいけど、この前渡したタイムスケジュールさ、変更があるんだよね」

「中止か」


 弾んだ声にエラはあからさまに口を尖らせる。彼女は「私が実行委員である限り、中止になんてさせませんから」と直線的な口調で言った。

 そもそも市民大会が中止になるはずがないことは明瞭としている。仮想現実の外で生きる人間には一つの場所に集まる機会はそれほどなく、多くが熱意を燃やすイベントであるからだ。タイムスケジュールの変更もその影響があると予想がついた。飛び火した熱意が別の競技へと燃え移ることもあり得る。一週間にわたって開催される市民大会はさまざまな競技が順繰りに行われるため、直前になって出場予定チームが増減するのはままあることらしかった。


「あ、そうだ。ところでさ、屋代くん、音楽って聴く?」

「ところで、は、どんな状況でも話題を変えられる魔法の言葉ではない」

「やっぱり聴かないか」

「決めつけるな。それにタイムスケジュールの話はどこへ行った?」

「ここにあります」エラは自慢げに屋代と自身の間を指さし、ぐるっと円を描いた。「〈エイブラハムの樹〉ってバンドに開会式終わった後に演奏させてくれってお願いされたんだよね。スケジュールの変更はその関係で」


 演奏、と小さく呟く。この時代に実際に楽器を用いて演奏するバンドがいるということがにわかには信じられなかった。高校時代、浅井と音楽について語った日々が瞼の裏に明滅する。往年のバンドサウンドに惹かれてグループを結成する者はゼロとは言えなかったが、金銭的に恵まれた若者たちの一過性の行動であることがほとんどだ。他の誰もやっていないことに価値を見出し、傾倒する。開催までそう時間がないイベントに協力を無理強いするのも傲岸さを感じさせ、好感が持てない。


「なんでお前はわざわざそれを了承したんだ」


 練ってきた日程を、若者の一時的な虚栄心のために狂わされても平気なのか。屋代は言葉の端に批難を込め、突きつける。しかし、エラはまったく気にしている様子はない。


「いやさ、私の妹分がそのバンドのメンバーでさ」

「そういえば妹がどうとか、って前も言ってたな」

「違う違う、妹分。隣に住んでた親戚で、歳もそんなに離れてなかったからよく遊んでたんだよね」

「ずいぶんな身内贔屓だ」

「そりゃ、それくらいはするよ。あの子から何かお願いされるのも珍しくてさ、そうなると姉貴分としてもお願いを聞かないわけにはいかないじゃないですか」


 そもそもエラが親しい人間の頼みを無碍に断る姿を想像できない。それだけに、他人事ではありながらわずかな懸念も湧いた。


「どうするんだ、聴くに堪えない音楽を垂れ流されたら? 聴いたことはあるのか?」

「ないけど大丈夫だよ。あの子から音楽を取ったらろくでなしだし」

「ひどいやつだな」

「だからまあ、そういうことで。あ、何なら開会式から来ちゃってもいいよ。試合まで待ち時間はできちゃうけど」

「ああ、気が向いたらな」


 ひらひらと手を振ってあしらうと、エラは猛然と抗議の意を示した。彼女は熱のこもった語調で約束が人にとっていかに重要かを訥々と語った。だが、その約束というものは互いの合意がなければ締結されないものという前提を考えると片手落ちでもある。

 辟易し、それを指摘すると、記憶を捏造しているのか方便なのか、エラは互いの合意があったと主張を続けた。疑問と煩わしさに襲われ、屋代は静かに、力を込めて、言葉を遮る。


「お前は、なんで、執拗に俺を誘うんだ」


 だが、屋代の剣幕とは裏腹にエラはきょとんとまばたきするばかりだった。彼女の表情には一切の怖じ気がない。エラはしばらく考えた後で、おもむろに首を傾げた。


「なんで、って何が?」

「俺は気まぐれでお前らのレクリエーションを眺めていただけだ。誘い続ける理由がない」

「あ、もしかして私が屋代くんに惚れてると思ってる? ないない、それはないよ」

「お前な」茶化すような口調に苛立ちが募る。

「っていうか、屋代くん、嫌がってないじゃないですか」

「……え」


 即座に言葉を返すことができなかった。屋代は呆けたまま彼女を見つめる。


「私くらいになるとわかるんだよね、本当に私を疎んじてる人とそうでない人の違い。みんなは屋代くんのこと、変人だー、人間嫌いだー、って言うけどさ、私にはそう思えないし。むしろ人が大好きすぎて持て余してるんでしょ?」


 わかるんだから、とエラはすれ違いざまに屋代の肩を叩き、去って行った。「約束ですからね」と声が聞こえた気がして振り向いたが、既に彼女の姿はなかった。

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