ラストオーダー・ロックバンド

 目的の店は大通りを進み、住宅地のほうへ何度か曲がった先にあった。

 こぢんまりとした店の外装には雑貨店のような趣が漂っていて、ガラス越しに食事を楽しむ姿が見えた。レストランランキングに登録しているようで、小さな看板を視界に入れると〈ヤーン〉という店名と点数がコンタクトレンズに表示された。詳細を確認する前に波多野が扉を開けたため、浅井は慌てて入り口の隙間に身体を滑らせる。


 柔らかな空気に、身を包まれた。

 食欲を刺激する匂いが鼻腔びこうをくすぐる。客の談笑の裏には学生時代飽きるほど聴いた曲が流れていて、思いがけず期待と賞賛が膨らんだ。わかってるね、と選曲した店員の功績を称えたくもなる。

 店内の雰囲気も好ましかった。素朴で暖かみのある内装には懐かしさと居心地のよさがあり、形式張った堅苦しさは微塵もない。周囲に視線をさまよわせていると、ふいに左の脇腹を小突かれた。波多野が「あの子」と声を潜める。


 店の奥には料理を配膳している少女がいた。確かに波多野が手放しに誉めるだけのことはある。せっせと皿を運び、注文を受ける小柄な彼女には繁忙の急流の中に浮かぶ、白い花弁のような可憐さが滲んでいた。肩に届かないくらいに切り揃えられた髪と、はきはきとした口調は快活さに漲り、白のポロシャツと七分丈のジーンズからは健康的な肌色が伸びている。


たきちゃん、元気ー?」

 波多野が嬉しそうな声を出すと滝が近づいてくる。

「波多野さん、いらっしゃいませ! お二人ですか?」

「そう、二人ね」波多野はピースサインを作る。「カウンターでいいよ」

「はあい」


 滝は穏やかに頷いて浅井たちを関へと案内した。その途中で波多野が「な、いいだろ」と主語を曖昧に訊ねてくる。一目見て恋に落ちる、とまではいかないが、それでも世間一般の価値観として否定することはできなかった。

 椅子に腰を下ろして適当に注文し、運ばれてきたビールを喉に流し込む。カウンターに接している厨房を覗き込むと軽薄そうな青年と生真面目そうな男が休みなく働いていた。ともすれば衝突しそうな狭さの中、阿吽の呼吸とも呼べる意思疎通で動いている。その手際のよさは人間の入った箱を剣で突き刺す奇術を彷彿とさせた。


「あれが」生真面目そうな男を意図して言う。「知り合いの方ですか?」

「ああ、今日はいないみたいだ。昨日久々に来たって聞いたんだけどな」

「オーナーさんなら来てないですよ」


 そう答えたのはウェイトレスの滝だ。彼女は両手に持っていた皿を置く。和食と分類して差し支えないだろうか、肉と野菜の炒め物だった。箸で摘まみ、咀嚼する。家庭料理然とした、安心できる味がした。


「あ、ようやく会ったんだ」

「そうなんです。オーナーさん、昨日急にヘルプで呼ばれたらしくて」

「オーナーなのにヘルプ?」

「浅井、オーナーってのは助けを求める人を足蹴にするほど非情じゃないぞ」

「いや、でもあんまり聞かなくないですか?」

「わたしも本当にびっくりしたんですよ。話、聞いてなかったから、新しく雇われた人だと思ってこっちがふんぞり返っちゃいました」


 彼女は恥じらいを示すかのように頭を掻く――その指に、浅井は目を奪われた。

 胼胝たこだ。しなやかで細い指先が歪な形に隆起している。指の形が変わるまで何に熱中しているのだろうか。訊ねようとしたが、厨房から配膳の催促をされた滝は去ってしまった。とはいえ、今の浅井にとっては宙に浮いた疑問を解消するよりも次々に運ばれてくる食事を胃に収めるほうが重要である。拘泥こうでいするべき事柄でもなく、ひとまず忘れることにした。


 波多野が注文した料理は美味いものばかりだったが、無秩序だった。中華が運ばれてきたと思いきや洋食が現れ、デザートのあとに味の濃い肉料理を頼むものだから大いに翻弄される結果となった。味蕾に意志があるならばその所業に激昂していたに違いない。

 満腹感とかすかな酔いに気分よく話していると時間はたちまち過ぎ去った。滝から「ラストオーダーの時間ですよ」と告げられ、浅井と波多野は「もうそんな時間か」と声を揃える。揃えた端から目を疑う。浅井にとってラストオーダーという言葉は試合終了のホイッスルと同義だったのだが、波多野にとっては奮起の合図であるらしい。彼は顔を引き締め、メニューを睨み始めていた。

 これ以上胃が膨れると食事が拷問に変化する、その恐怖に浅井は思わず先んじた。


「お水と会計をください」

「水と会計をなしにしてこれを」と波多野が料理の写真を指さすと、滝は困ったように笑った。「お会計はなしにできないですよ」

「波多野さん」意味がないと知りつつ、諭す。「食い過ぎですって。羽振りがいいのは素晴らしいけど」

「おい、浅井、俺の飯と酒を断るつもりか?」

「おっと脅迫だ」

「いいや懇願だ」

 店の迷惑も顧みず言い争っていると何がおかしかったのか、滝が噴き出した。あまつさえ「いいですね」とまでのたまう。何がいいものか、と反論すると「いや、だって」と彼女は続けた。「わたしも波多野さんみたいに偉そうにしたいな」

「そうだろう、そうだろう」


 朗笑する波多野に顔が引き攣る。その程度の皮肉ではこの男は動じないのだ。胸中で滝を鼓舞したが、話を聞くと彼女に批難の意図を欠片もなかったのだとわかる。わかり、落胆する。味方はいないのか、と。


「わたし、ここでも仲間内でもいちばん下っ端で。強く意見を言えないんですよねえ」

「がつん、と言っちゃえばいいんだよ。滝ちゃんがそうしたらみんな話を聞くって」

「がつん、と言っても話を聞かない人はいるもんですよ」


 浅井の揶揄に返ってきたのは波多野の殊勝な言葉ではなく、滝の愛想笑いだけだ。


「でも、言わなきゃ伝わらないですよね。どうしようかな、今度言ってみようかな」

 その口ぶりに浅井は「何か腹に据えかねてることでもあるんだ?」と訊ねた。大して興味のある話が出てくるとは思えず、ほとんど相槌に近い口調になり、それから、どう呼んでいいものか、悩む。「えーと」

「あっ、滝です。ファーストですよ」

「ファースト? 野球の守備位置?」

「違いますよー、名前です。ファーストネームが滝なんです」

「なんだよ、守備位置って」と鼻で笑う波多野を無視する。ああ、なるほど、とことさらに強く頷いてみせ、浅井は話題を戻した。「で、滝は何か声を大にして言いたいわけだ」


 問いに彼女は「そうですねえ」と首を傾げた。必要以上に突っ込まれてあしらうようではない。私的な事情を告げることを躊躇しているか、共感を得られるような一般化に手間取っているかのどちらかだと判断がつく。助け船を出そうとしたつもりはなかったが、浅井には心当たりが一つあったので口にしてみた。


「たとえば、ラストオーダーの時間を過ぎても注文し続けようとする客がいるとか」

「それなら大丈夫です。他のお客さんの注文はもう取ったので」

「あ、そう」


 しっかりしているというか、ちゃっかりしているというか。

 催促する意図はなかったものの発言をしばらく待っていると彼女はおもむろに口を開いた。意を決したというよりか、愚痴をこぼすことそのものへの躊躇いが滲んでいて内容を聞く前から大変だねえと同調しそうにもなる。


「わたし、趣味でバンドをやってるんですけど」

「……バンド?」


 予想外の言葉に浅井は感嘆の声を上げそうになった。照れているのか、恥ずかしそうに頭を掻く指先に視線が誘導され、胼胝が再び目に入り、合点が言った。美人の手にそぐわぬ歪な膨らみは楽器の演奏によってもたらされたものだと知る。知り、興奮を抑え、浅井はなんとか落ち着いた感嘆を発することに成功した。話を遮るのが申し訳なく、表面上は冷静に努めたが、実際は手で膝を打ち両手で握手を求めたい気分だった。


 浅井にとって音楽は清涼剤であり、興奮剤であり、強壮剤だ。

 人が労働から解放されたこの国において、芸術活動はさながらルネサンス期における文化交流のように、盛んに行われている――内実はどうあれ。音楽もその例に漏れず、日々数え切れないほどの新曲が発表されていた。それが必ずしもよい側面ばかりではないという危惧も抱いてはいるが、憂慮を示すタイミングではない。

 現在、音楽は人々がもっとも気軽に参加できる創作の一つとなっていた。仮想現実空間のおかげで道具の準備がいらず、アシストツールも豊富にある。現実空間で活動している人間は珍しく、実際に出会えたことで否応なく歓喜の興奮が盛り上がっていく。最近の音楽には味気なさを感じていただけにその思いは非常に強いものとなった。


 滝が訥々とつとつと語る音楽活動の悩みに耳を傾ける。先ほどまで平静を装っていたことすら、忘れている。日夜、時代を担うような音楽を探していた浅井にとって自分の知らないバンドが身近にあったことはとても衝撃的な事実だった。いつの間にか椅子を引き、滝へと身体を開いていた。


「どんな音楽をやってるの?」


 彼女の所属するグループのバンド名に聞き覚えがなく、まったく別の固有名詞、雲の名前が思い浮かんだため、そう質問を変える。滝は少し自慢げに顔を引き締め、ぴんと人差し指を上に伸ばした。


「この曲、わたしが選曲してるんですよ」


 彼女はBGMがまさに頭上に浮遊しているかのような素振りで指を動かす。音楽が形となって漂っているのではないか、と浅井はつられて天井を見上げる。今日口にした料理のように、さまざまな分野を織り交ぜながらも不思議な調和のある曲は浅井も愛好しているグループの曲だった。


「ロック、って言うんですかね。ちょっと古臭いというか」滝はそう言ってから自身の表現が気に入らないのか、訂正した。「熟成された音楽が好きで」

「俺も好きだよ、これ。昔、練習したことがある」

「え、楽器やってたんですか? ……えーと」

「浅井」

「浅井さんも」

「触ったことがあるくらいだよ。才能は欠片もなかった。今は聴く専門」


 口説いてるつもりはなかった。しかし、同好の士を見つけたことによって滝との会話は盛り上がり、結果、波多野が渋い顔をした。嫉妬なのか、爪先を軽く蹴られる。気にしないことにする。が、ほどなくして厨房から滝を呼び戻す声がして会話は途絶えてしまった。

 結局、なし崩し的に、追加注文はしないことに決まった。彼女と会話していた時間は五分もなかったが、それでもラストオーダーの時間は確実に過ぎている。それを理由にすると波多野は不服そうに控えめなげっぷを漏らし、諦めた。


「満腹なら節操を持てばよかったのに」

「うるせえなあ」波多野は顔を歪める。「売り上げが落ちるだろうが」

「客の波多野さんが売り上げを気にする必要なんてないでしょ」

「俺はこの店の売り上げを気にする責任があるんだよ。だいたい、俺もお前も金ならある。どれだけ儲けさせたと思ってるんだ」


 その事実を指摘されるとぐうの音も出ず、「それはそうですけど」と頷くしかない。「これからは投資だよ」という波多野の提案に乗り、運用を任せてみたら浅井の資産は面白いほどに倍増していたからだ。丘の頂上から転がした雪玉が地面を削り、質量と体積を増していく姿に似ている。元手が増えれば増えるほど雪玉の速度も上がる。世の中にはその雪玉に飲まれる者もいるらしいが、波多野が選んだ会社はそういった負の側面を見せることはなかったため、遠い世界の話でしかなかった。


 店を出てからも波多野は腹の窮屈さに悶えていたが、タクシーを止めるとさっさと往来の向こうへ去って行った。同じようにタクシーを呼ぼうかとも考えたが、浅井は徒歩で家路を辿ることに決めた。形骸化しているとはいえ、週間運動量目標がある。振動に揺れる胃を刺激しないよう、必要以上にゆっくりと歩を進めていった。


 その中で思い出されたのは滝との会話だ。視界の隅にコンテンツ配信サイトを表示させ、バンド名を検索してみる。が、それらしいものは発見できない。趣味程度でそれほど熱心に活動していないのかとも思ったが、彼女が熱のこもった口ぶりに鑑みると奇妙ではあった。出任せを吹聴していたとも考えにくい。手を尽くしたもののやはり満足のいく情報は得られなかった。

 自宅に到着した浅井はかすかに落胆を覚えながらシャワーを浴び、ベッドに横たわった。熱意と技量は往々にして噛み合わないものだ。かつての浅井がそうだったように、滝も一過性の情熱に振り回されている類の人間なのかもしれない。


 聴いてみたかった、と嘆息して目を瞑る。驚くほどあっという間に眠りに落ちる。

 疲労と酔いが混ざり合い、化学反応を起こして体内で睡魔が増殖した、そのような勢いだ。まばたきの間に夜が明け、日が昇り、狼狽したが、休日であることを思いだして睡眠の続行を決意した。時間とともに記憶はならされて、滝との会話も埋没していった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る