16.

 西村先生と話をしてから、いくらか冷静に考えることが出来るようになった。沢山の言葉を全て覚えているわけではないが、喜びと共に思い出される言葉がある。

『難しい資格を取ったこと、病院での経験、それをもう少し自信にしても良いでしょう』

尊敬する師からのこの言葉は、少しなら自信を持っても良いという承認に思えた。


 人間関係とは難しいものだ。自分は平凡で受動的な人間なので、職場の人間に今回のような恨まれ方をするとは想像もしなかった。極端で独特な思考を持つものは、社会の中にいくらでもいるのだろう。そういう人達と出会う度に、自分の自信を揺らがせる訳にはいかない。小林との経験を勉強させてもらったものとして、今後に生かせるように考えるしかないのだ。勉強させてもらったと思え。よく聞く言葉だが、実際に自分が経験すると、それがいかに難しいことか思い知る。


 昨日よりはまともな顔をしていると思う。すれ違いざまに挨拶を交わす病院スタッフも、不審気な顔はしていない。そろそろ西村先生が出勤して来る時間なので、医局へ向かった。

「おはようございます」

資料の整理をしていると、西村先生の声が聞こえて来た。

「おはようございます、西村先生」

振り返って挨拶を返すと、笑顔が返って来る。

「あら、マシになった」

「おかげさまで」

頭を下げると、軽く肩を叩かれた。良かったわね、頑張りなさい、そう言われたような気がした。


 医局の電話が鳴り、西村先生が受話器を取った。眉間に皺を寄せている。前にもこんなことがあったなぁと見つめていると、それを思い出させる言葉が耳に飛び込んできた。

「そうですか。それでは、小林さんのお父様は、この間のカウンセリングルームへお通しして下さい」

小林さんのお父様。西村先生はそう言ったのだ。

 また病院に乗り込んできたのか。娘を迎えに来た時には何も言わなかったが、改めて文句を言いに来たのだろうか……電話の音が嫌いになりそうだ。


 婦長の都合が悪いということで、僕と西村先生の二人で、小林氏の前に腰掛けている。婦長がいないことに腹を立てる様子はない。それどころか、猫背で体を丸めた姿からは、気迫というものが感じられなかった。険しい表情をしているが、怒ってはいない。

 僕達と目を合わせずに、口を開く。

「昨日は……」

そこで言い辛そうに口を噤んだが、思い切ったように再び開く。

「すまなかった」

僕に謝罪に来たのだろうか。

「いえ、それは。危険な目には遭いませんでしたし」

小林氏は、俯いたまま頭を下げた。


 スーツを着ているので、仕事を抜けて来たのだろうか。もしかしたら、出社しなかったのかもしれない。ジャケットのボタンをしていないので、猫背の首元からネクタイが所在無げに揺れていた。

「娘さんの様子はどうです?」

西村先生の言葉に、ネクタイの揺れが大きくなる。

 小林氏は、中々口を開かなかった。太ももの上で拳を握りしめ、顔を伏せたまま縮こまっている。それでもここを出て行かないのだから、話したいことがあるのだろう。患者さんの沈黙には慣れているが、いつまでも小林氏に時間を割けるわけではない。西村先生に目配せすると、頷きが返って来る。僕が発言しても大丈夫そうだ。

「お父様、僕は娘さんに敵意は持っていませんし、訴える気などありません。なので、何かお話ししたいことがあるのなら聞かせてもらえませんか。元は同僚ですから、何か出来ることがあるのなら相談に乗らせて頂きたい」

僕の言葉を聞いて、小林氏はノロノロと顔を上げた。


「娘の……娘の言っていることが解らんのです」

絞り出したような声は、悲痛だった。

「解らない、とは?」

促すと、タガが外れたように話し始める。

「あなた方も、婦長さんがくれた資料を見ただろう? 私はあれを家に持って帰って、娘にあれこれ尋ねたんだ。あんまりあの内容が信じられなかったから。よもや本当ではあるまいと思いながら、娘がこんなものは嘘だと言ってくれると信じていた」

じっと僕を見つめるので、頷いて見せる。

「だがね、娘はあれが本当だと言うんだ。私の言っていることは正しいでしょ、と。そんなはずは無い。いくら娘が可愛くても、あんな道理を外れた言い訳など、正しいと言ってやれるわけはないんだ。しかし、いくら説明しても、娘には全然伝わらない。あなた方も、そうだったんじゃないかね?」

「そうですね。説明する努力はしました」

返事を聞いた小林氏は、脱力するように溜め息を吐いて見せた。


「娘はどうしてあぁなったんだ? 仕事のストレスでおかしくなったのか? 頭の病気に掛かったのか?」

「いえ、それは……恐らく、ああいった考え方をするのが、娘さんの性格なのでしょう。お父様には、全然心当たりはありませんか? 突然変わって見えましたか?」

 小林には刃物を出さない冷静さがあったし、僕にやり込められても前後不覚になるようなことは無かった。このまま社会に適合できずに暴れるようなことがあれば、人格障害と診断されることはあるだろうが。


「私は……婦長さんの言葉を聞いて考えてみたんだ。娘が一度も謝らなかった……それを聞いて心当たりがあった。思い返せば、娘はいつでも謝らない子供だった。注意すると、真っ先に言い訳を口に出す。そして結局謝らない。女の子だし、強く叱ったこともないが、つまらん言い訳をするのも、可愛かったんだ。自分の娘だぞ? 女の子だぞ? 可愛いに決まっている。他よりは甘やかして育てたのかもしれん。だが、自分の娘、だぞ……」

途中から、必死に言い訳するような早口になったが、最後の方は消えてしまいそうな声だった。


 娘への愛情と苦悩は伝わって来る。本当ならば、理由はどうあれ、娘を傷つけた者へ辛い心情を吐露することなどないだろう。きっと、それをせずにはいられなかった程、娘が刃物を忍ばせていたことが衝撃的だったのだ。


「娘さんはどうしています? 暴れたり大声を出したり、自分を傷つけたりしていませんか?」

「そういうことは無い。今朝も静かに文句を言いながら、パソコンで勤め先を探していた」

「そうですか。しかし、今回のようなことが職を変える度に起きるようだと、娘さんの精神は不安定になってしまうでしょう。そうなる前に、どこかで定期的にカウンセリングを受けた方が良いと思います」

「暴れるようになるということか! そんな、そんなことは、ない……」

声を荒げた小林氏は、途中で勢いを無くした。無いとは言い切れないのだろう。恐らく、暴れるまではいかなくとも、ヒステリックに暴言を吐かれるようなことはあったのではなかろうか。


 僕には子供がいなので、子供を持つ親の気持ちなど解るまいと言われればそれまでだ。しかし、小林氏が娘に愛情を持っていることは解る。充分伝わってくる。果たして、娘にそれが伝わっているのだろうか。自分に意見するようになった父親に、どんな感情を抱くようになるのか。それを考えると、切ない気持ちになる。


 今まで黙っていた西村先生が口を開いた。

「娘さんに合った、信頼できるカウンセラーを紹介しましょう。娘さんをしばらく通わせれば、精神的に安定するかもしれません。話も通しておきますので、電話してみて下さい」

「しかし……娘が素直に行くとは思えない」

「そうですね。それでは娘さんに、今時の優秀なOLは、仕事のストレスを溜めないようにカウンセリングに通うのが流行りらしい。お前も職場で辛い目にあったのだから、そうしてみたらどうか。会社の若い子から、人気の所を聞いて来た。そんな風に言ってみたらどうでしょう」

「あぁ……紹介、して下さい」

小林氏は、頭を下げた。その額は、机に付いてしまっている。

西村先生の提案は悪知恵のようなものだが、プライドが高い小林には有効であるように思えた。


 小林がカウンセリングに通い続けるかどうかは解らない。自分で問題を感じて通い始める訳ではないので、途中で嫌になることもあるだろう。それでも、より良い未来に繋がると信じたい。親にとっても、娘にとっても。



 医局へ戻ると、思わず大きな溜め息を漏らしてしまう。小林氏の気持ちを思うと不謹慎かもしれないが、もうこれで終わったと思いたい。

「大変でしたね、神田先生。ひとまずはこれで大丈夫でしょう」

「そうでしょうか」

「どうでしょう」

西村先生が、悪戯っぽく首を傾げて見せる。

「まぁ、何が起こるかは解りませんもんね。刃物持参で待ち伏せされることがあるぐらいですから」

正直な感想だ。

 まさか、看護師に注意喚起するというごく当然なことから、刃物を携えた女性に罵倒されることになるなんて。どんなに慎重に行動しても、予想外の事態に巻き込まれることはあるのだろう。

「神田先生、今回のこと、ご両親に話しました?」

「え? いいえ。一人暮らしですし、滅多に電話もしませんから」

「そうですか」

西村先生は、少し困ったような顔をした。


 成人した男性など、そんなものだろう。用が無ければ親に電話など掛けないし、余裕がなければ里帰りもしない。親も実家も好きだが、それ程気に掛けたことはない。社会人になって、母の日に花を贈ったことはある。すぐに父親から電話が来て、『母の日ばっかりずるいぞ!』と怒鳴られたことは記憶に新しい。疎遠でも、バカげた連絡を気軽に交わせる程度には仲の良い家族だ。


「ご両親が聞いたら、きっと心配しますよ。刃物で待ち伏せだなんて。息子が遠くでそんな目に遭ったと知ったら、辛いでしょうね」

「……そうだと思います」

西村先生に言われるまで、そんなことは考えてもみなかった。

 話せないな、と思う。いつか笑い話に出来る時が来たら、話すのもいいかもしれない。

「私にも息子がいますからね。神田先生の話を聞いた時は、恐ろしかった」

息子さんがいるとは初耳だった。沢山話をしているように思われるが、仕事に関する話題ばかりだったのだろう。お互いの家族の話など、するのは初めてかもしれない。


「息子さんがいるんですね。何歳なんですか?」

「二十歳の馬鹿者ですよ。本当に、馬鹿。楽して目立って儲けたいとか言って、バンドでギターをやっています。大学をサボってライブをしたり、どうしようもないのです。もう、馬鹿息子」

顔を顰めている様子は、息子の姿を思い浮かべているせいか。しかし、独特な息子さんだ。きっと、言葉通りの馬鹿息子なのではないだろう。西村先生が育てたのだから、エネルギッシュで一本筋の通った、面白くて優しい息子というところか。

 西村先生の息子としては、それ程以外には感じられない。西村先生も、エネルギッシュで面白くて優しい。母親に似たのではないだろうか。

「西村先生に似ているんですか?」

「どういう意味です!」

「他意はありません、すいません」

額をペチリと叩かれる。

 もしかしたら、僕も他所で『馬鹿弟子』と呼ばれているのかもしれない。それはそれで嬉しい気がした。きっと、馬鹿と言われている息子さんも、笑って聞き流していることだろう。



 家に帰ってひと息つくと、今日のことが思い出された。一件落着とは行かないまでも、するべきことはしたという思いはあった。

 部屋の隅にあるゴミ箱に目をやる。何の変哲もない、丸くて黒い代物だが、付き合いが長いので愛着はあった。東京の大学に合格した僕は、アパートを決め、田舎から引っ越して来た。両親も手伝いに来て、その時に、母がこのゴミ箱を買ったのだった。

『ゴミ箱くらい置かないと、あんたはそこいらに放り出しそうだし』

そんな風に言われて、はいはい、と聞き流したことを覚えている。

 確かに、何かを放り出したりもするが、大人として適度に掃除はしている。もしかしたら、このゴミ箱を通して、母からのプレッシャーを感じているのかもしれない。


 親の事を思い出すのは、やはり小林氏の言葉のせいだろう。可愛かった、自分の娘だ、女の子だぞ、そんな風に声を絞り出していた様は、切なかった。自分の親が、どこかで自分のせいでこんな声を出していたとしたら――それは考えるだけでも、胸が痛む。

 ちょっと親の声が聴きたくなった。小林のことを告げるつもりは無いが、随分連絡をしていないし、話してみるのもいいだろう。早速、携帯から実家へ電話を掛ける。今の時間ならば、両親揃って居間でテレビでも見ているはずだ。数回のコールで、聞き慣れた母の声が響いて来た。


『はい、神田です』

「もしもし、俺だけど」

『あら、雄一? ちょっと待てよ……オレオレ詐欺じゃないわよね?』

「声で解るだろ」

『解らないわよ。さて、雄一は何の仕事をしているでしょうか?』


勘弁してくれ、無駄に陽気なのだ。とぼけた感じは、少し西村先生と近いものがある。それは、西村先生に失礼か……。


「臨床心理士をしている、あなたの息子の神田雄一ですよ。お金は要求しません」

『あら、そう。元気にしてた? あんたは電話も寄越さないから、ちょっとは心配してたのよ? 生きてるかなーって』


死んでいたら、別の所から連絡が行くだろうに。戯言に突っ込んでいては、ほとんど会話など出来ないので、適度に聞き流すことにする。


「元気だよ。仕事は大変だけどね」

『そうよね、何か、難しそうな仕事だもんね』


息子の仕事に興味は無いのだろう。難しそうな漢字が五文字の仕事くらいにしか認識していない。このお気楽さは、プレッシャーを感じない点では有り難い。


『雄一か!』

父親の声が聞こえて来る。やはり居間に二人でいて、母から電話を分捕ったのだろう。

「そうだよ、元気? 毎日、ビールばっかり飲んでるんじゃないの?」

『おぉ、元気だ。プリン体オフのビールにしたし』

「あぁ、そう」

一応体に気を使っているのだろうか。いっそ量も減らせばいいのに。

『そんなことより、お前、給料上がったか?』


 予想通りの、中身の無い会話の応酬が続くのだろう。ちょっとうんざりするところもあるが、居間で笑っている二人を想像すると、気持ちが明るくなってくる。


 受話器のコードは、引っ張られて伸びていることだろう。きっと、笑い声と一緒に揺れているのだ。

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