2.
「最後までされなかったのは、……せめて、……良かった」
白衣を着たドクターが、喉をつまらせたように言葉を発すると、横に腰掛けていた女性が頷いた。
このドクターは、僕が尊敬している精神科の西村早苗先生だ。五十歳は超えているのだろうが、女性なので年齢を尋ねたことは無い。時間が合えば、西村先生の診療に立ち会わせてもらっている。
今回は初診の患者さんで、二十歳女性、小さい頃に義父から性的虐待を受けた経験があり、現在は重いうつ病に苦しんでいるという。母親が付き添っており、無表情に語る患者さんとは対照的に、終始涙が途切れることは無かった。
「死んでしまいたいと思ったりします?」
「……死なない。まだ、死なない」
西村先生の優しい声に、女性は小さな声で答えた。
診察室の換気扇の音がうるさく感じられる。
患者さんは閉鎖病棟で治療を受けることになり、診察室を出て行った。
「やっぱり、酷い体験を聞いている間は緊張してしまいます」
溜め息を吐いた僕を見て、西村先生は呆れるような顔をして見せた。
「緊張して当然です、私だってそうですよ。緊張しなくなったらお終いです。不用意な一言や仕草で、患者さんの心は閉じてしまいます。そうなっては、治療も出来ませんからね」
「おっしゃる通りです……」
ガクリと肩を落とすと、バインダーで軽く頭を叩かれる。
厳しくも、愛情を持って指導してくれる良い先生だ。人柄に関しては、患者さんと接している様子を見ればよく分かる。
西村先生は、診察室で患者さんに共感する演技をしたりはしない。ただ、自分の心のままに真っ直ぐな言葉を投げるのだが、それがどれ程難しいことか、僕は臨床心理士になって痛感した。
確かに、カウンセリングの技法として支持されているものはある。例えば、相手の言ったことをオウム返しするとか、はい・いいえで答えられない質問をして発言を促すとか。しかし、いかにも演技をしている様子でそんなことをされたらどうだろう。誰が話をする気になってくれるだろうか。
結局のところ、己の人間性が重要になってくる。そうなると、心から人を助けたいと思っている人間が向いているように思われるが、その動機が本当に純粋であると自分で断言する者ほど怪しくなってきはしまいか。
つまり、自分は人に好かれたい、良く思われたいという利己的な動機が高じて、人助けのような仕事がしたいと考えているのではないかと。
救われる人がいるのならばそれでもいいかと思えるか……そう簡単では無い。なぜなら、関わった患者さんは自殺する可能性がある。自分が関わったことで人が死んだ時、思い浮かぶこと全てが言い訳にしか思えなかったとしたら、僕だったら生きてはいられないかもしれない。
こんな考え方をする人間はカウンセラーには向いていない?
こういうことで悩まない人間こそカウンセラーには向いていない?
どちらも正解に思える。
「西村先生……僕は、カウンセラーに向いていると思います?」
情けない声を出した僕を見て、西村先生は笑顔を見せた。
「カウンセラーに向いている人間などいないと思っています。私は精神科医ですが、同じことです。大いに悩んで、真剣に生きることで、心に厚みが出来ます。そうしてようやく、少しは他人の心に寄り添う余地も生まれて来るのではないでしょうか。私もまだまだですけれどね。勉強会で精神分析や認知療法を学ぶのは結構ですが、真面目に生きるのが第一ですよ」
「日々是精進、ですか?」
「そういうことです」
茶化すように人差し指を立てる仕草は、少女のようだった。こういう何気ない動作から、西村先生という人間の純粋さや温かみが感じられる。診察と論文作成をこなしながら、僕のような下っ端カウンセラーへの指導も引き受けてくれるのだから、本当に尊敬出来る人である。
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