臨床心理士のアウトカム

オサメ

1.

少女は死んだそうだ。

それでも僕は、涙を流さない。




 臨床心理学会指定の大学院を卒業し、大学付属の病院で心理士として金を稼ぎつつ、臨床心理士の試験を受けて資格を取得する。間に紆余曲折を挟みつつ、正式な肩書を得たとき、僕は二十八歳になっていた。

 臨床心理士・神田雄一。僕が務める病院のネームプレートには、そう印刷されている。


「久しぶりだよね、三人で会うの。皆、臨床心理士の試験、受かって良かったよね」

大学院の同期、加藤由香が笑顔で肩をすくめた。

「そうだね」

同意した僕に向かって、二度頷いて見せる。こういう芝居がかった仕草は、彼女がカウンセリングで用いているものなのだろう。由香はスクールカウンセラーをしているようだから、子供を意識した態度を身に着けていると言うべきか。

 額をすっかり出して髪の毛をくくっている様は、仕事が出来る活発な女性に見えた。少し気が強そうな顔つきは、美人の部類に入るのだろう。耳たぶに光るティファニーのピアスは、スクールカウンセラーには似つかわしくない感じがした。

「全員、一回落ちているけどな」

そう言って鼻で笑って見せたのは、加藤弘樹。確か、二つのクリニックで、臨時職員を掛け持ちしていたはずだ。茶色に染めた長めの髪を無造作にセットして、色付きのシャツでおしゃれなスーツを着こなしている。院生時代からおしゃれでかっこいいと、女性には人気があった。


 由香も弘樹も今風のおしゃれな若者という感じで、清潔にしていれば問題無かろうという考えの僕とは、不似合いな感じがする。それでも、二人は平凡な僕とも仲良くしてくれたし、院でも外の遊びでも行動を共にしていた。

 心理療法の研究会で鉢合わせした僕らは、居酒屋に繰り出し、学生気分を思い出していた。あの教授のゼミは退屈だとか、論文の資料が見つからないとか、そんなことをぼやきながら酒を飲んでいた頃が懐かしい。授業と研修、研究会に論文作成と、今よりずっと忙しかったはずなのだが、楽しく酒を飲んでいた記憶はある。


「大学院は忙しかったよね。でもさ、酒を飲んでいた記憶は多いんだよ」

「それ、分かる。あんなに忙しかったのに、よく飲みに行く時間があったなって思う。若さかな。楽しかったよね」

大げさに同意する由香に、弘樹が口の端を持ち上げた。

「由香はよく泣いていたじゃねーか。もう無理~ってさ」

「それも楽しい思い出!」

 笑い合う二人を見ていると、自分が若返ったように感じて嬉しかった。


「で、面白い事例抱えてる?」

乾杯も終わって料理も並び始めた頃、弘樹が枝豆の殻を捨てながら聞いて来る。面白い事例とは、興味が持てるようなクライアントを抱えているか、ということだろう。僕らには守秘義務があるが、同業者同士、事例として意見を交換し合う機会は多い。勿論、個人情報は伏せるし、居酒屋で話題に出すようなことは滅多に無い。

「そうだなぁ……」

由香が左右を見て聞き耳を立てる。個室だが、どの程度声が響くのか確認しているのだろう。聞かれてまずい話ならしなければいいのだろうが、久々に同期の同業者に会ったのだ。突っ込んだ話をしたくなる気持ちも解る。


「実はさぁ、引きこもりの子がSっぽくてさ、難儀しているのよね」

「あぁ、面倒だな。病院紹介して終わりだろ」

「簡単に言うけど、病院に素直に行ってくれれば苦労しないわよ」

 

 Sというのは、統合失調症のことだ。主に、幻覚、幻聴が目立った症状として現れる。天井を棒で突っついたり、テレビで自分のことが流れていると訴えたりする人がいたとすれば、僕らは統合失調症か薬物の影響を疑う。カウンセリングだけで快方に向かうものでは無いので、病院を紹介して、投薬治療を受けてもらうしか無い。臨床心理士は、薬を処方することも出来ないし、医師抜きで心理療法を行うことも出来ないのだ。


「雄一のとこ、S病棟あったよな」

弘樹に話を振られて頷いた。

「あるよ。精神科としては大きいからね。弘樹も大学院時代に見学に来ただろ?」

「そうだよ。俺はあれで、精神科勤務は無理だって思ったね。閉鎖病棟とか、マジで嫌だ。裸でゴロゴロしてる年寄り見た時に、すげー虚しくなった」

酷い言いようだが、弘樹の気持ちも解らなくはない。老人が閉鎖病棟にいるということがどういうことか、僕達はカルテを見て知っているからだ。


 若い頃に統合失調症を発症して、病院の閉鎖病棟を転々とした末、老人になった今も閉鎖病棟にいるという人は少なくない。カルテに書かれた妄想の内容を見ると、恋人だと思っている人が、大昔のアメリカの映画女優だったりするのだ。

 弘樹の言葉は、ただの嫌悪感からくるものでは無いのだろう。


「あー、私も病院は嫌だなぁ。統合失調症にも興味無いし。人格障害とかも酷いのは無理。雄一君は、毎日過酷そうだよね」

「……そうだね、僕も毎日、思っていたよりも大変だなって実感しているよ」

「そうだろうな。お前は院生の実習からずっと大学病院にいられて、上手いことやったラッキーなやつだなって思ってたけど。仕事内容も学閥のあれこれも、苦労が多そうで俺には無理だわ」

僕の言葉に同意する二人を盗み見る。何も見透かされてはいないようだ。


 ここ数か月、僕は臨床心理士に向いていないのではないか、臨床心理士とは何だろうかという根源的なことで悩んでいる。同期の友人に気軽に話せない程に、その悩みは度々重いしこりとなって心を圧迫していた。

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