3.
午後には、入院患者さん用のレクリエーションの時間がある。医師の指示により、病状の良い人達が参加することが出来るものだ。僕が担当している精神科の閉鎖病棟の患者さん達は、ボールを使った簡単な体操を行うことが多い。しかし、行う作業が簡単だからと言って、職員も気を抜いていられるわけではない。患者さん同士のトラブルや、自傷行為、見張っていなければならない理由はいくつでもあるのだ。
院生時代に一時期研修生をしていた田舎の病院では、トイレで患者さん同士がセックスしていたことがあった。入り口のドアは安全面から設置されていないのだが、うまいこと看護師の隙をついたようだった。申し訳ない気もするが、発見し次第、引き離されることとなる。
「わーい、雄ちゃんだー、こんにちはー」
若々しく明るい声に振り返ると、髪の長い少女がグレーのスウェット姿でやって来るのが見えた。僕がカウンセリングを担当している、佐藤美穂という十八歳の女の子である。
「雄ちゃんじゃないでしょ。神田先生ね」
「はーい。神田雄ちゃんせんせー」
そう言って笑う姿は、普通の少女のようだった。しかし、スウェットで隠れた腕の内側には、肘から手首まで、沢山の自傷行為の跡があるのだ。
美穂が、辺りを見回すような仕草をした後、僕に寄り添って来る。
「雄ちゃんせんせー。ナースの小林さんが、美穂の悪口言ってるみたいなんだよねー。美穂が雄ちゃんせんせーと仲良くしてるから、それが嫌みたい」
小声で僕に訴えると、頬を膨らませて困ったような顔を見せた。
「そっか。もうすぐレクが始まるから、今日のカウンセリングの時に話そうね」
「そうしよー」
同意して部屋に入って行く姿を見つめながら、僕は心の中で溜め息を吐いた。
美穂が言っていることは嘘なのだ。境界性人格障害。僕らは、ボーダーと略すことが多い。詳しく診断すると症状は細かく分類されるが、簡単に言えば、ボーダーの人は嘘を吐く者が多い。自分が特別だという思いがあり、人に好かれたいという欲求も強い。自分の思い通りに人を動かしたがるので、その手段として嘘を吐く。さらに、意のままにならないと判断した相手には、攻撃的になったりするのだ。
一般社会でそんな人物がいれば、初めは集団に受け入れられるとしても、次第に孤立してゆくことになる。嘘吐きだとばれて、居場所が無くなってしまうのだ。その頃には、全体の人間関係がめちゃくちゃになっていることが多い。
先程僕に耳打ちしたような嘘を振りまくのだから、それをまともに受け取った人間同士、関係は最悪になる。勿論、看護師や医師がボーダーの患者さんの嘘をまともに受け取ることはないし、振り回されたりもしない。
「雄ちゃんせんせー、ボール行ったよー」
美穂の声とともに、柔らかいボールが頭の上で跳ねる。患者さん六人に、看護師一名、精神科の研修医一名、心理士一名と僕が交じってボール遊びをしている。
「あれ? ちょっと油断していたよ」
僕の失敗に、笑顔を見せる患者さんもいた。
一番笑っていたのは美穂だった。年齢よりも幼く感じられる言動は、無邪気という言葉を連想させる。しかし、彼女は嘘を吐いて人を操るし、自傷行為をしたりする。鬱になれば、一日中自分の爪をいじっていたりもする。僕は、そんな人間がいる場所で働いているのだ。
レクの後に、美穂とカウンセリングルームへ入る。密室で二人きりになるので、臨床心理士は扉に近い方へ座ることになっている。良好な関係を築けている患者さん相手でも、暴力を受ける可能性は無いとは言い切れない。これは、患者さんを信用していないわけではなく、己の身を守る為の義務なのだと思う。突発的に暴れて僕を傷つけるようなことがあれば、患者さんの病状は悪化して、治療の段階も後退してしまうことになるからだ。
美穂とは三度目のカウンセリングになる。閉鎖病棟に入院したての頃は、押し黙っているか不満を喚き散らしているかのどちらかだった。家庭で手に負えなくなった両親に連れられて来たのだが、腕の傷の何本かからは、血が滲んでいた。本人に死ぬ気は無いらしいが、リストカットを始めたのは一年前だと言う。
投薬で精神が落ち着いた頃に、西村先生の指示でカウンセリングを行うことになった。
「レクの時、ゆうちゃんせんせー、面白かったね。ボールが当たって鈍くさかった」
片膝を立てて椅子に座り、すっかり僕とのカウンセリングに慣れているといった様子である。
「そうだね。美穂さんは楽しそうにしていたけれど、最近はどうだい?」
「うーん、結構、楽かな」
「楽?」
「うん。ムカついたり、悲しくなったり、そんなにしない」
「そうか、それは良かった」
バインダーのメモ帳に、美穂の言葉を書き留めた。
「今、何書いたの?」
「美穂さんの言ったことを書いたんだよ。ムカついたり悲しくなったりしなくなったのはこの頃だって、忘れてしまわないように」
「ふーん。見たい」
「ほら」
机の上にバインダーを置くと、顔を寄せた美穂が笑い声を上げる。
「うわーあははは、字が汚い。大人のくせにうける」
「そうなんだよ。僕も、人に見せるのは恥ずかしくてね」
ため息を吐きながらバインダーを引き寄せて手元に戻すと、心の中でほっと息を吐いた。
治療の進行を考えれば、メモはしておきたい所である。特徴的な表現などがあれば、正確に覚えておきたい。しかし、精神科医が診察中にメモをすることと、臨床心理士がカウンセリング中にメモするのとでは、患者さんの反応も違ってくる。
患者さんは『お医者さんは治す人で、臨床心理士は話を聞いてくれる人』と認識している人が大多数だろう。それが悪いわけではないし、間違ってもいないのだろうが、話を聞いてくれる相手にメモを取られることを気にする人は多いのだ。統合失調症の患者さんに、突然バインダーを引っ手繰られたこともあった。
僕としては、出来ることならメモは見られたくはない。それでも、変に誤魔化して隠すのは逆効果だろう。色々と経験した挙句、書き込み方に注意し、見たがる人には見せる。拒否反応を示しそうな患者さん相手にはメモをしない。今のところは、そういう対応で落ち着いている。
「さっき言ったことだけど、あたし、女の人に嫌われやすいからー、ナースに陰口言われてるっぽいよー」
「そう言っていたね」
「そうなの。私がさ、若くて可愛いから、雄ちゃんせんせーに気に入られていい気になってるって陰口たたいてるんだよ。小林さんって若い新米ナースだから、自分が気に入られたいんじゃないの?」
小林という看護師は、確かに若い新人のナースだ。しかし、美穂の言うような陰口はたたいていないだろう。若い新米ナースはおしゃれに気を使った可愛らしい見た目をしているので、美穂のほうで小林を敵視しているのだ。
「そう考えているんだね。美穂さんはどんな感じ?」
「あたしはー、そういうの慣れてるし、平気かな。嫌な気分にはなるけど、そんなのに負けていられないっていうかー、そんな感じ。雄ちゃんせんせーはどう? 小林さんのことどう思う?」
「僕は、どうということは無いよ。看護師さんは看護師さん。一緒に仕事をする人達だから、誰かを特別に思っていたりしないね」
「ふーん。そんなだから、彼女が出来ないんだよ。小林さんみたいなのはお勧め出来ないけどねー」
意味の無い会話だと思われるかもしれないが、例え美穂の言っていることが嘘だとしても、読み取れることは多いのだ。ここまで気軽に話をしてくれるようになっただけでも、カウンセリングは前進していると思う。
ただし、看護師の小林には話をしておく必要があるだろう。美穂のターゲットになっているとすれば、振り回されないように心に留めて置く必要がある。
「僕に彼女が出来ない心配までしてくれなくて良いよ。今は、美穂さんの心の回復の時間だからね。君の話を聞かせてくれなくちゃ」
「えー、あたし、心配しちゃうな。雄ちゃんせんせー、結婚出来るかな。早くしないと、おじいちゃんになっちゃうよー」
「心配と言うわりに、楽しそうだね」
「楽しいよー。雄ちゃんせんせーは、話を聞いてくれるし。パパもママもさ、誰もお前のことをそんな風に思ってないよって言ってさぁ、聞く気がないって感じだし。あの人達は、あたしが誰かに嫌われるって思ってないんだよね。可愛い良い子だって、嫌われることがあるわけじゃん。それが解ってないっていうか。
あたしだってさ、みんなと仲良くやりたいじゃん。でもさ、あたしの方が可愛いとか、あたしの方が人気があるって理由で嫌われるのって、どうしようも無いじゃん。
折角友達が出来ても、そうやって逆恨みみたいなことしてくるヤツのせいで、はぶられるようになっちゃってさ。そういう時って、やっぱり落ち込む。
あたし、どうしても目立っちゃうからなぁ」
黙って頷いて見せると、美穂は再び口を開いて、同じようなことを話し続けるのだった。
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