8.

 小林は結局、病院を辞めた。看護師の間でも評判は悪かったらしく、その後の状況を知る者はいなかった。親しい者に慰めてもらっているか、既に次の病院をさがしているか。いずれにせよ、もう関わるつもりはない。


 佐藤美穂はというと、すっかり状態も安定して来て、小林との騒動が大事になることはなかった。両親は看護師と揉めたという話を聞かされたものの、またいつものあれか、という調子でまともに取り合うことはなかった。

 これに関しては、少々心苦しいところもある。というのも、騒動の後に、ある看護師に耳打ちされたのだ。


『小林さんは美穂さんに、若いんだから、もっと明るい色の服を着なさいよ。そうすれば可愛いのにって言っていたんです。本人は年下と親しく話している調子で言ったんでしょうけど、やっぱりちょっとまずいですよね』

それを聞いて、苦笑いするしかなかった。


 自分を特別な美人だと考えてる美穂にすれば、「可愛くない、服の色を変えれば若いからマシになるかも」そう言われたように感じたことだろう。たとえそれを指摘したとしても、小林ならば、自分はそういう意味で言っていない、解って下さいと睨み付けて来るのだろうが。


 誰かに愚痴りたい。

『私は、嘆くだけでは終わらないからね!』

威勢のいい由香の声が思い出された。

 早速メールで夕飯に誘うと、すぐに了承の返事があった。これで少しはやる気が出て来た。今日も美穂とのカウンセリングがあるので、助かった。


 美穂とカウンセリングルームへ入り、今までのように十分程話をしたところで、僕は紙と鉛筆を机の上へ置いた。西村先生と事前に打ち合わせをして、そろそろ治療的な段階に入っても良かろうということになっていたのだ。


「これ、どうすんの?」

いつもと違う展開に、美穂が首を傾げて紙を指差した。

「今回は美穂さんに書いてもらいながら、話をしてみようと思ってね。僕は字が下手だから丁度いい」

「そうだね、美穂の方が上手いと思うー」

そう言って笑う姿を見て、抵抗されなかったことに一安心した。

「まずは書く前に、美穂さんがどんな時に辛くなったり悲しくなったりするか教えて欲しいな」

「うーん、そうだなー」

鉛筆の尻で机をトントン叩きながら思案している様子を見せた。黙って待つと、閃いたというように音を出すのを止めた。


「誰かに悪口言われたり、嫌われたりすると辛い。後、責められるのも辛いかな。悲しくなる」

「うん。それは辛くて悲しいよね。そういう時、どんなことを考えるかな?」


僕の質問に、再び美穂が鉛筆で調子を取り出した。偶然だが、鉛筆が良い働きをしてくれたものだと感心する。


「うーんと、あたしは悪くないのになって思うかな。何でこんな酷い目に遭うのかなって。嫌われたくないって思う」

「そうだね。それじゃあ、一つずつ考えてみようか。まず、私は悪くないのになって紙に書いてみよう」

「りょうかーい」

紙の上の方に、丸い小さな文字で「あたしは悪くない」と書き込まれた。


「美穂さんは、『私は悪くない』って考えると、どんどん辛くなってしまうわけだよね。それじゃあ、『私は悪くない』って考えが浮かんだら、それを別の考えに変えてしまえないかな」

「わかんない、どういうこと?」

「そうだよね。例えば、『私のことを悪いと思う人もいる』って考えてみるのはどうだろう。『私は悪くない』って書いた下に、『私のことを悪いと思う人もいる』って書いてみて」

僕の方から提案するのは良いことでは無いが、美穂にいきなり思考の転換を考えろと言っても無理だろう。


「あー、そういうことかー。何だっけ?」

「私のことを悪いと思う人もいる、だよ」

「そうそう、それ」

言われた通りに、声に出しながら紙に書き込んでいる。終わると顔を上げて僕を見るので、覗き込んで頷いて見せた。

「ちゃんと書けているね。字も僕より上手い」

「でしょ」

嬉しそうな笑顔を浮かべる様子は、幼く感じられた。


「それじゃあ、『私のことを悪いと思う人もいる』って考え方、どう思う?」

「うーん、そうだよねって思うよ。あたしは悪くなくても、あたしが悪いヤツだって思う人がいるんだよ」

「そうだね。色んな人がいるからね」

「そう。あたしはみんなと仲良くしたいんだけど、あたしのこと嫌うヤツがいるからね」

「うん。美穂ちゃんが思う事と、美穂ちゃんを嫌っている人が思うことは、全然別のことだね」

「そう。あたしは仲良くしたい、相手はあたしにムカついてる」

「だったらさ、美穂ちゃんと全然別の事を考えてる人のことで、美穂ちゃんが辛くなるのはもったいないんじゃないかな」

「もったいない?」

噛み砕いた表現で伝えようと思っても、中々上手い言葉は浮かんでこないものである。熱心に僕の言っていることを理解しようと耳を傾ける美穂に、励まされる思いで口を開いた。


「うん。辛くなっちゃうと、何も出来ないでしょ? その間、やりたいことが何も出来なくなってしまうのはもったいないよね」

「あー、うん、分かる。酷いことされて落ち込んで、チケット買ったライブに行けなかったのもったいなかった」

「それは残念だったね。それじゃあさ、これからは『私は悪くない』って感じて辛くなったら、『私のことを悪いと思う人もいる』って考えたらどうだろう。落ち込んでライブに行けなくなったりしないように、自分と別の事を考える人もいるんだって思っちゃえばいいんじゃないかな?」

美穂が、じっと紙を見つめて考え込む様子を見せる。


「……気にしないってこと?」

「そうだね。『私のことを悪いと思う人もいる』の下に、『気にしない』って書いてみようか」

言われた通りに書き込んだ美穂は、紙に書かれた文字を小さな声で順番に読んでいる。いささか強引な誘導になってしまったが、美穂の症状を考えるとこれが限界だろう。


 同じような手順で、美穂が言った残り二つの思考『なぜこんなに酷い目に遭うのか』『嫌われたくない』についても感情を転換させるような言葉を書き出した。


「辛くなったら、この紙を見るようにしてみようか」

「うん、いいかもね。無くさない」

本音かどうかは怪しい所だが、帰りに自主的に紙を持って立ち上がったので、実践されることもあるだろう。


 人格障害については、これによって何かが好転するわけではない。精神的に追い詰められたときに、鬱にどっぷり入り込んでしまうことが軽減されればいいと考えている。

 何より、自傷行為を止めさせなければならない。本人は死のうと思って切ったわけではないとしても、結果的に命を落とすこともあるのだ。


 自傷行為は、自殺をするために行われるものばかりではない。親の気を引きたい、自分に罰を与えたい、痛みを感じて生きている実感を得たい。そういった理由を語る者も多い。

 最近は自傷行為に関する論文も増えてきたが、そもそもの言葉の定義、分類を致しましょうなどどいうものも多い。現場で患者さんと接している身としては、もっと実践的な資料が欲しいところではある。

 自分の肉に刃物を入れる行為は、正常な者から見れば受け入れがたいものである。腕に残る無数の傷など見てしまえば、嫌悪感が湧くだろう。


 僕も最初に見た時は、体中が緊張で固まってしまった。痛覚が刺激されている感じがして、背中の産毛がぴりぴりと立ち上がったのを覚えている。腕や腹、太ももを傷つける人もいた。

 慣れて嫌悪感が和らいだ今では、傷の一つ一つが苦しみの跡なのだと理解することにしている。


 とは言え、美穂に自傷行為を止めさせるには、後何回かセッションを重ねなければならないだろう。それで止めたとしても、一時的なものになる可能性は高いが。

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