9.
僕から夕飯に誘った由香との待ち合わせ場所へ向かうと、由香の隣に弘樹が立っていた。
「あぁ、弘樹も来たんだね」
「偶然、別件で由香にメールしたんだよ。俺も誘えよな」
「結局揃ったんだし、いいじゃないか」
「いいじゃないか、じゃねーよ」
そろそろ桜が咲き始める季節だが、外で立ち話するにはまだ早い。店は由香が決めておいたと言うので、挨拶もそこそこに移動することにした。
由香が選んだ店は、男だけでは入りづらいようなアジアンレストランだった。エスニックな雰囲気のおしゃれな内装に、少々気後れしてしまう。薄暗い照明の中を案内され、個室に通された。
木製の長椅子に、複雑な刺繍を施されたクッションが置いてある。果たして、背中に敷いて良いものなのか、尻を乗せても怒られないのか……こういうおしゃれな場所に来た時には、いつも下らない事に悩まされる。
由香や弘樹は堂々としていて、何も気にしていない様子だった。
みんなで分けて食べるのが基本のようなので、注文はおしゃれな二人に任せることにした。僕が聞き取れたのは、トムヤムクン、生春巻き、フォーぐらいだった。それぐらいは、僕だって食べたことがある。
「しかし、雄一から誘うのって珍しいよな。何かあった?」
弘樹を誘ったつもりはないが、邪魔だと思っているわけではない。話を聞いてくれるのならば有り難いと思うべきだろう。
「実はさ、ちょっと特殊な看護師さんがいてさ、嫌な気分になったんだ」
二人に小林との騒動のことを説明する。臨床心理士二人を相手にしているので、適度な相槌を入れてもらえて説明もしやすかった。
「うわー、すごいね、その看護師。意味不明」
由香の第一声は、厳しいものだった。お手拭きをいじりながら、小林への文句を言い続けている。
「完全に人格障害だろ、その看護師」
弘樹が眉間に皺を寄せた時、ビールが運ばれて来た。見慣れたジョッキではなく、おしゃれなグラスに注がれている。
いったん話を切って、乾杯をした。
臨床心理士仲間で会うと、それはボーダーっぽいだの強迫神経症っぽいだのと、不謹慎な評価をしがちであるが、そういった性質は、多かれ少なかれ誰しも持っているものである。
ただ、その性質ゆえに社会に適応できないということになれば、そこで初めて診断が下されるのだ。とは言え、小林と比べると、患者の美穂とのほうが会話は成り立っていたような気がする。
「正直、人格障害っぽかったね。何よりさ、同僚に話が通じない人がいたってことが驚きだったんだ。これは僕の勝手な思い込みだけど、医師や看護師、臨床心理士には、話が通じるのが普通だと思っていたから」
僕の言葉に、由香が大げさに首を左右に振って見せた。
「思い込みじゃないから! そこまで酷いのは、この業界以外にだって中々いないでしょ。ナースには人格障害っぽいの多いイメージだけど、職場でそこまで話が通じない人はいないって!」
ナースの件は由香の勝手な思い込みだろうが、少なくとも、由香や弘樹の職場には小林ほどの人間はいないということだろう。
「俺だったら怒鳴りつけるわ。それで泣かれて、パワハラとか言われるんだろうけど。めんどくせー。忘れろ忘れろ、蚊に刺されたようなもんだ。お前は何も悪くないんだし」
弘樹だったら、本当に怒鳴り付けそうだ。
すっきり忘れてしまえたら楽なのだろうが、どうしても心のどこかに引っかかりがある。
「その通りなんだけどさ。ちょっと引っかかってしまって。彼女は、学校生活までは何とかやってきたわけでしょ? 看護師になったんだから。それで、社会に出て来た所でつまずいたわけだよ。それに僕が関わっている。
つまり、臨床心理士の僕が、人格障害の患者さんを生み出してしまったかもしれないって考えると、もやもやしちゃって」
上手く説明出来た自信は無かった。
首を傾げた由香が、僕の心を推し量る様に上目遣いで見つめて来る。
「えーと、雄一が彼女に対処出来なかったせいで、彼女が看護師を辞めてそのまま引きこもって社会に適応できなくなったかもしれないって悩んでるの? 臨床心理士としてそれはまずいんじゃないかって?」
「うーん、まぁ、そんな感じかな」
僕の返事を聞いて、弘樹が大声で笑い出した。
「お前、そんなこと言ってたら、誰ともしゃべれなくなるぞ! 考えすぎ!」
弘樹が言っていることも、笑われてる訳も理解出来る。それは最もなことなのだが、考えすぎだと言われて考えなくなれるのならば苦労はしないのだ。
確かに、小林が実際どうしているかは解らないし、僕が気に病んでも仕方がないのだろう。
「雄一がそんな風に悩むこと無いわよ。だって、看護師の彼女は、雄一の患者さんだったわけじゃないんだから」
そうなのだ。由香が言うのもその通りだ。
二人のように、きっぱりと割り切れないのはもどかしい。僕が自分に自信が無いせいもあるのかもしれない。患者の美穂には思考の転換を推奨するくせに、自分でやるのはやはり難しいものだ。
「由香と弘樹はさ、似たようなことで悩んだことある?」
「無い。俺は、プライベートで良い人やる気は無いから」
こういうことを言い切れる弘樹は、かっこいい人間だと思う。
「私はそういうこと、考えたことなかったな。弘樹と違って、仕事とプライベートをきっちり分けるように意識しているわけじゃないけど。単純に、考える機会が無かったのかもしれないけど、あんまり悩むようなことじゃないわね」
由香の言葉を聞いて、何か腑に落ちるものがあった。
『考える機会』、正に今がその時なのではないだろうか。
丁度良く料理が運ばれてきて、会話が中断される。トムヤムクンを取り分ける由香と、チャーハンのようなものをよそう弘樹を見つめながら、僕は西村先生の言葉を思い出していた。
『大いに悩んで、真剣に生きることで、心に厚みが出来ます』
悩むという行為は、何も結論を出す為だけにあるのでは無いのだろう。だから、真剣に大いに悩んでみればいい。すぐに納得のいく結論が出ないのは、苦しいし、周りから見たらうじうじしてカッコ悪いことかもしれない。
でも僕は、自分なりの方法を見つけるしかない。悩むべき時に、いくらでも悩み続ければいいのだ。それが辛いことならば、負けずに抱えていられる精神力を鍛えていると思えばいい。
どうせ僕は、弘樹のようにも由香のようにもなれないのだから。それと同じく、いくら学んでも、偉大な先人、フロイトやロジャーズになれるわけでもない。僕には僕のやり方があるはずだ。西村先生のような素晴らしい師もいるのだから、大いに悩みをぶつけながら成長していけるのかもしれない。
「あんまり悩まない方がいいわよ」
由香が僕にトムヤムクンを渡しながら気の毒そうな顔を向けて来る。
「うん。でも、大いに真剣に悩んでみることにするよ。辞めた看護師さんへの罪悪感も、臨床心理士としての自分への幻滅も」
「そうなの? まぁ、雄一がそれでいいなら頑張ってとしか言いようがないけど」
由香は、呆れるように溜め息を吐いた。
さぞ弘樹も呆れていることだろうと顔を向けて見ると、意外にも真面目な顔で腕を組んでいた。
「俺さ、院の同期に自分がカウンセリングを受けるとしたら誰がいいだろう、って考えたことあるんだけど。そん時も今も、やっぱ雄一がいいなって思えるわ」
想像もしなかった弘樹の言葉に、僕と由香は顔を見合わせた。
「突然変な事言うなよ」
気恥ずかしさもあって手元のおしぼりを投げ付けると、弘樹はそれをキャッチして不敵な笑みを浮かべた。
「何よそれー、同期なら、私でもいいじゃない!」
拗ねたように言う由香へ、今度は弘樹がおしぼりを投げ付ける。上手く反応出来なかった由香の顔面におしぼりがヒットした。
「由香は駄目だな。お断りだ」
「腹立つー!」
由香の怒りの矛先がこちらへ向かないように、僕は気配を消していよう。
それにしても、弘樹はなぜあんなことを言ったのだろうか。僕のことを少しは認めてくれているようだが。
「ちょっと、雄一、弘樹を何とかして!」
黙っていても火の子は飛んでくるようだ。
大して酒も飲まなかった割に、賑やかな時間を過ごせたと思う。名残惜しい気持ちになりながら、僕達は帰路に就いた。
二人と別れて電車に乗り込むと、上手い具合に座席を確保することが出来た。知らない者同士が、狭い箱に閉じこもっている。体温や吐息は一つとなって、電車の窓を曇らせるけれど、この中にも集団に属することに悩みを抱えている人はいるのだろう。
心地よい振動を邪魔するように、携帯電話がポケットで震え出す。見ると、由香からメールが届いていた。
『今度は、弘樹抜きで会おうね』
思わず笑みがこぼれる。
とても心地よい夜の締めくくりに思えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます