10.

 西村先生と朝の打ち合わせをしていると、医局の電話が鳴り出した。近くに座っていた西村先生が取り、話しながら眉間に皺を寄せた。症状が激化した患者さんでも出たのかと身構えたが、そういう感じではない。

 電話を終えた西村先生は、急ぐ様子も無く、一つため息を吐いて見せた。

「どうしたのです?」

声を掛けると、口をへの字にして天井を仰ぎ見ている。黙って待っていると、肩こりを軽減するように首を回した後に面倒そうな表情を浮かべながら口を開いた。

「小林さんのお父様がいらっしゃったそうです」

外来の予約に心当たりが無かった僕は、一瞬何を言われているのか解らなかった。


 小林さんのお父様……心当たりがあるのは、一週間ほど前に病院を辞めた看護師だけだった。

「もしかして、辞めた看護師の小林さんですか?」

「そうです」

「そのお父様?」

「はい」

自分の表情が固まるのを感じた。


 病院としては、お父様を呼び出す用事などないし、西村先生と僕の所にアポイントメントが無かったことからすると、突然あちら様が乗り込んできたということだろう。

「これは……全然予想していませんでした」

「私もそうです。とは言っても、避けては通れませんから行くしかないでしょう。男性がいたほうが良いでしょうから、事情の分かっている神田先生も同席してくれませんか?」

「それは勿論行かせてもらいます」

 それから僕達は、五分程対策を練ってから父親の元へ向かった。


 空いているカウンセリングルームの前で、看護婦長が待っていた。僕らの顔を認めると、駆け寄って来て数枚の紙を手渡して来る。

「一応、誰かに説明する場合を考えて、資料は用意しておきました」

紙を見ると、小林の業務態度やミスなど、日付の入った文章が並んでいる。何と有能な看護婦長なのだろう。

「これは……素晴らしいですね」

素直に感嘆すると、婦長は笑顔を見せた。怖気づいている気配は無い。

「詳しいことは私が説明するということでよろしいでしょうか? 小林さんは、かなりミスが多かったですし、移動の理由は説明出来ると思います」

「お願いします」

西村先生が頭を下げると、婦長は力強く頷いて見せた。


 部屋に入ると、奥側に小林の父親だと思われる人物が座っていた。看護師だった小林本人や弁護士などは来ていないようである。

 眉間に皺を寄せた小林氏は、太い眉毛と大きな目が印象的で、達磨を連想させる。友好的に挨拶を交わす様子ではないので、僕達はすっかり部屋に入り、各々椅子を用意した。


 腰掛ける前に、婦長が口を開いた。

「小林さんのお父様ですね? はじめまして。私は娘さんが働いていた精神科の看護婦長です。娘さんの直接の上司でした。こちらは、精神科医の西村先生と、臨床心理士の神田先生です」

小林氏の眉毛が、ピクリと痙攣したように見えた。

 言葉を発しない小林氏に遠慮せず、僕らは軽く頭を下げてから腰を下ろした。


「娘さんの件でいらっしゃったそうですが、どのようなことを説明すればよろしいでしょうか」

婦長の発声は溌剌としていたが、好戦的では無く、揉めない様にという配慮が感じられた。

 西村先生や僕などは、患者さんへの態度を学習する過程で、溌剌とした口調はすっかりそぎ落とされてしまっている。穏やかな口調が第一なのだ。現在の状況では、婦長のような話し方の方が相手になめられなくて良いのだろう。


 小林氏のこちらを馬鹿にするような表情から、女性や若者を軽く見ているタイプの人間であろうことが伺える。先程眉毛が痙攣したのも、女や若造ばかりやって来て気に入らなかったのかもしれない。

 馬鹿にされているなりのメリットもあるだろう。相手が構えず油断しているのならば、こちらが会話の主導権を握ることも出来る。


「あんたらが、家の娘に酷いことをして病院を辞めさせたのかね」

小林氏はいかにも怒っているという表情をしているが、案外冷静に話を切り出した。

「娘さんにどのように聞いていらっしゃいますか?」

「うるさいっ、解ってんだろ! 自分の胸に聞いてみろ!」

婦長の言葉に怒鳴り返して来る。

 突然の大声に驚きはしたが、精神科で働いている者にとっては恐縮してしまう程のことではない。


 五秒ほど間を置いてから、婦長が口を開いた。

「我々は娘さんを辞めさせてはおりません。娘さんの勤務態度が精神科には向いておりませんでしたので、他の科へ移ってもらうことにしたのです。結局、娘さんの判断でお辞めになりましたが」

「あのなぁ、うちの娘は優しい子なんだよ。精神科に向いていない何てことは無いだろう。まともに新人も育てられない自分のことを棚に上げて、娘を追い詰めて辞めるように仕向けたんだろうが」

何とも返答しづらい主張だった。精神科の看護師の技量を「優しい」という一言で片づけられたのでは、本人達が聞いたら怒り出しそうだ。


 ここで婦長が机の上へ資料を置いて、小林氏の前へと滑らせた。

「これは娘さんが、精神科の看護師に向いていない理由です。娘さんがいつ、どんなミスをしたか記録されているものです」

「新人なんだから、ミスぐらいするだろう!」

大声を出した小林氏は、さも見る価値が無いと言うように紙を手で払って見せた。机の上を滑った紙は、迷惑にも僕の目の前で止まった。少々迷ったが、折角婦長が用意したものなので、小林氏の近くへと押し戻す。


「そうですね、新人はミスもするものです。私も先輩看護師も、それは心得た上で指導をしています。ただし、娘さんの場合は、ここに書かれたミスが全て同じような理由によるものなんです」

「何だそれは! 言ってみろ!」

「娘さんが、言われた通りにやらないということです。指示を忘れたとか、勘違いしたとかでは無く、自分の判断で指示に従わないのです」

「あ?」

「例えばですね、ある患者さんの所に、お薬を持って行くように指示した時のことです。いつまでも持って行く様子がないので訳を尋ねると、娘さんは、患者さんが取りに来た方がいいと思ったから持って行きませんでした、と答えたのです」

「あぁ? そんなの……」

そこで、小林氏は言葉を止めた。上手い反論が思いつかなかったのか、しばし考えている様子である。


「そんなの、指示がおかしいから、娘が自分で判断したってことだろ」

「患者さんへの理解については、娘さんより婦長の私の方が深いと思います。新人の娘さんが勝手に判断して私の指示に従わないことは、患者さんの命に関わります」

「……あんたが無能だから、娘が自分で判断するんだろう」

「新人よりも無能な看護婦長であれば、解雇されていますよ。その紙、ご覧になって下さい。娘さんの主張も書いてありますから」

 小林氏が黙り込んで婦長を睨み付けながら、机上の紙を引っ手繰る様に手にした。


 あの娘と比べると、この父親は案外話が通じる相手のように思える。怒鳴ったりはするが、こちらの話を聞いていない訳ではなさそうだ。

 沈黙が訪れると、今居る場所が使い慣れたカウンセリングルームであることを思い出した。余りにも僕の日常とかけ離れた目的で使われているので、知らない場所に居る様な感覚になっていた。

 小林氏の足が、貧乏ゆすりを始める。成人した我が子が職場でどんな働きをしているか、具体的に知っている親は少ないことだろう。会社から通知表などは渡されはしないのだから。

 娘が不当に扱われたと怒る親心は理解できるが、娘の主張が正当であるかどうかは別の話だ。


「これは……娘は本当にこういうことを言ったのか? 嘘を書いているんじゃないのか?」

「きちんと記録が残っています。嘘ではありません。お父様には申し上げにくいのですが、娘さんは一度も謝ったことはありませんよ。新人が誰にも一度も謝らずにすむ職場などありますでしょうか?」

婦長の言葉を聞いて、小林氏は再び口を結んで紙を睨み付けた。


 婦長の資料には詳しく目を通さなかったが、小林は美穂とのトラブルが起きる前から色々と注目を集めていたようだ。看護師の間では、注意して見張られていたのかもしれない。

「確かに今回、私は娘さんを厳しい口調で叱りつけましたが、事前に紙に書かれたような問題行動があった上です。今回は、娘さんの言葉で患者さんがパニックに陥ったこともあり、穏やかに注意するだけでは済みませんでした」

婦長が口を開いても、小林氏は顔を上げなかった。

 何を考えているのかは解らないが、怒鳴り散らそうと言う気迫は無くなっているように感じた。


「今回のことは、私から説明しましょうか」

西村先生の穏やかな声が響くと、婦長は黙って頭を下げた。言いたいことを言って満足しているように見える。

 小林氏は一瞬顔を上げたが、何の返事もせずに再び手元を見つめている。西村先生は構わずに口を開いた。

「娘さんが勤務していたのは精神科ですから、患者さんとの接し方については充分注意してもらわなければなりません。病院の中でも精神科は人が死ななくて楽だ、などと言う人もおりますが、それは間違いなのです。精神科の患者さんは、不用意な一言で自殺してしまったり、暴れて大怪我を負ってしまうことがあります。娘さんには、それが理解出来ていなかったように思います」

ここで西村先生は言葉を切り、じっと小林氏の顔を見つめた。


 感情を読み取る手掛かりでも探しているのだろうか……僕には、少し目の開きが小さくなったことぐらいしか見て取れなかった。


 西村先生が再び口を開いた。

「娘さんに掛けられた言葉で、ある患者さんが娘さんの事を嫌いました。その時点で我々は、娘さんにその患者さんに話し掛けないようにと指示を出しました。しかし娘さんは、その患者さんに話しかけ、なぜ自分を嫌ったのか、あなたのせいで私が怒られたと責めるようなことを言ったのです」

「キチガイの言う事を信じるのか」

ようやく開いた小林氏の口からは、言葉の内容とは裏腹に力の無い声が漏れてきた。

 キチガイとは、看過出来ない言葉である。西村先生はどのような反応を示すのだろう。


「娘さんも患者さんをキチガイと言っていたのですか?」

「それはっ……そんなことは」

西村先生の言葉に、小林氏は慌てて口を開いた。小林氏の眼球が細かく揺れている。咄嗟に嘘を吐ける人間は少ない。

 それにしても、西村先生の質問には舌を巻いた。まさかここで、娘もそう言っているのかと尋ねるとは思わなかった。


「我々はプロです。患者さんの言葉に踊らされている訳ではありませんよ」

「娘は、あんたらに理解してもらえないと言っていた。ちゃんと教えてもらえれば出来るってな」

「我々も娘さんにそう主張されましたが、婦長の資料の通り、ちゃんと指示しても言う通りにしてもらえないのでは、教えようがありません。取りあえず今日の所は、お父様はその紙を持って帰って娘さんにお見せになってみてはいかがでしょう? 娘さんにじっくり説明を受けてから、もう一度お話をしませんか?」


 ややしばらく黙り込んだ末に、小林氏は西村先生の提案を受け入れたのだった。少し前まで椅子にふんぞり返っていた小林氏は、猫背の背中を晒しながら足早に立ち去って行った。


 小林氏を送り出すと、僕達はため息を吐きながら再び椅子に腰掛けた。全然出番が無かった僕が疲れるのもおかしいが、一様は気を張っていのだ。

 一番の功労者である婦長が、気の抜けたような声を出した。

「思っていたより常識的な感じでしたね。何も要求されませんでしたし」

「僕が思うに、それは婦長さんが作った資料のおかげでしょう。あれが出て来たから、調子が狂って要求が出せなくなったんじゃないかな」

西村先生が頷いた。

「そうですね。あの資料を見て、少し冷静になってくれて助かりました。大抵の人は、あれを読めばおかしいと感じるでしょうからね」


 看護婦長が口にした薬の話も、かなり理解し難いものだった。患者さんに薬を持って行けと言われて指示に従わないばかりか、患者さんが取りに来ればいいと思ったというのは訳が解らない。もしかしたら、自分が薬を持って行くのを忘れていた言い訳に、そういう言葉が出て来るのかもしれない。自分が謝らずに済む言い訳を探して口に出すうちに、それが自分の中での正しい理由になってしまうのだ。

 そうなると、小林にとっては、言い訳などというものは存在しないことになる。己は言い訳などしない崇高な人間であると錯覚さえしているのかもしれない。だからこそ、自信満々に己を解ってくれと主張出来るのか。


「恐らく、お父様はもう来ないでしょう」

西村先生の言葉に、僕と婦長は顔を見合わせた。

「なぜです?」

尋ねた僕に、西村先生はちょっと笑って見せた。

「お父様は、娘さんにあの紙を見せるでしょう。きっと娘さんは、あの紙の内容を否定しませんよ。自分の主張は書いてある通りで間違いないと、自信を持って言うでしょう。そうすれば、お父様は娘さんが少々ずれていることに気が付きます」

婦長が首を傾げながら口を開く。

「娘さんは否定して嘘を吐いたりしないでしょうか」

「しないでしょうね。娘さんにしてみれば、あの紙に書かれた言い訳は、自分が捻りだした最高傑作でしょうから。誇りこそすれ、否定はしませんよ」


 僕としては、反論は浮かんでこないが、半信半疑という所だ。小林が何とかして、父親を言いくるめる可能性もあるだろう。どちらにせよ、小林にはどこかでカウンセリングを受けて欲しいと願わずにはいられない。


「神田先生、あのお父様の見立てはどうです?」

西村先生が、クイズを出すように人差し指を立てて見せた。

「えーと、真面目で誠実な人なんじゃないかと思います」

「どういうところからそう思ったのですか?」

「怒っていても、婦長の話をちゃんと聞いていた所と、キチガイ発言の反応からです。恐らく、娘は家で患者さんのことをキチガイと言っていたのでしょう。咄嗟に否定出来なかったところから、簡単に嘘を吐けないのであろうことが伺えました」

「そうですね」

僕に同意した西村先生は、付け足すように口を開いた。


「お父様にも、心当たりがあったのかもしれませんね。娘が指示に従わないとか、謝らないで言い訳をするとか。そう考えてしまったから、どんどん勢いが無くなってしまった」

頷きあった僕と西村先生を見て、婦長が呆れる様な溜め息を吐いた。

「先生方は、患者さん以外も分析していたんじゃ、気苦労が多いでしょうねぇ。私には、娘を甘やかして育てた馬鹿な親にしか見えませんでしたよ」

そう言われてしまうと、身も蓋もない。


 娘への愛情ゆえに病院へ乗り込んできた父親は、己の誠実さゆえに大人しく退散していったのだ。自分に出来ることは無さそうだが、少し心が痛んだ。

 

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