5.

 統合失調症の閉鎖病棟に足を運ぶと、昼食の配膳が始まる所だった。

「あっ、神様だ。神様―」

中年の男性が僕の腕を軽く叩いた。橋田さんと言う、五十四歳の統合失調症の患者さんである。


 以前、橋田さんの心理テストを行った折り、性格の傾向などを簡単にフィードバックしたのだが、それが当たっていたようで、それ以来僕のことを神様と呼ぶようになった。否定しても治らないし、本当の神様とは思っていないようなので、そのままにしている。


「橋田さん、調子はどうですか?」

「はい、良いです! 僕は神様みたいにスリムになりたいんですが、このご飯は食べてもいいんでしょうか?」

「食べた方がいいですね。痩せるのも健康第一ですよ」

「そうですか、良かった!」

はきはきとした受け答えは、調子が良い証拠だ。橋田さんは幻聴に悩まされているので、症状が酷くなるとベッドで震えていることが多い。


 幻聴というものは、想像しがたいものがある。聞いたことの無い僕には、どんなものなのかさっぱり実感が湧かないのだ。

 橋田さんの幻覚・幻聴については、話を聞いたことがある。


『耳の中に住んでいる妖精が、しゃべっているんです。外に出て来て、中には便所が無いって言っています』

そんな風に僕に語ってくれた。


 突拍子も無い話だが、橋田さんにとっては現実なのだ。微笑ましいファンタジーのように感じてしまうが、妖精は便所が無いことを嘆くばかりではない。


『監視されてるぞ。あそこのヤツがお前の悪口を言っている。死ね死ね死ね』

そんなことも囁くので、声が聞こえる橋田さんが社会生活を送るのは困難なのだ。


 ナースステーションに西村先生の姿が見えた。話しておきたいことがあったので、足早に近づくと、僕に気付いた西村先生が手を挙げて笑った。

「神田先生、昨日の佐藤美穂さんのカウンセリングはどうでした?」

先に聞かれてしまったが、僕が話したかったのもそのことだった。

「実は、看護師の小林さんを敵視しているようなんです」

小林の件も含めて、カウンセリングの様子を簡単に説明すると、西村先生は天井に顔を向けて考える素振りを見せた。

「そうですね……美穂さんが神田先生に依存するようでは困りますが、今の段階ではそんなところでしょう。小林さんのことは、看護婦長と本人に報告しておきましょうか」

 二人で連れ立って、婦長の元へと向う。小林の件を話すと、現在勤務中とのことなので、すぐに呼び出してもらえることとなった。


「なんでしょうかー」

すぐに姿を見せた小林は、十代にも見えそうな若い容姿をしていた。茶色の髪を後ろで結んで、胸のポケットには可愛らしいマスコットの付いたボールペンを刺している。薄く整えた眉毛はしっかりとペンシルが引かれており、いかにもおしゃれな若い女性ですという雰囲気だ。


「小林さん、ボーダーの佐藤美穂さんなのですが、あなたに陰口を言われていると言っていますので、巻き込まれないように気を付けて下さい」

西村先生が完結に説明すると、意味が解らないというように首を傾げた。


「私、何もしてません」

その言葉を聞いて、西村先生と僕は顔を見合わせた。


 話が伝わっていないのだろう。新人のようなので、ボーダーの患者さんがどんなものなのか理解していないのかもしれない。僕達の様子をどう取ったものか、小林は目を細めてこちらを睨んでいる。


「ボーダーの患者さんは、周りを操ろうとして嘘を吐きます。佐藤美穂さんは、あなたを敵視していて、あなたを陥れるような嘘を吹聴して回るかもしれませんが、それをまともに取り合って惑わされることの無いようにして下さいね、と言っているのです」

穏やかに説明した西村先生に、僕は改めて尊敬の念を抱く。「精神科の看護師なのだから、このくらい勉強しておけ」と怒鳴るほうが簡単だろうに、優しく丁寧に説明してくれるとは頭が下がる。


「だから、私は何もしていません」

小林の返答は、僕の予想の逆を行っていた。


 僕と西村先生を交互に睨み付ける小林の態度は、お世辞にも良いとは言い難いものだ。看護婦長はどこかに行ってしまっているし、この新人をどう扱ったものか途方にくれる。話が通じなくても普通だと思えるのは、患者さん相手の場合だけだ。


「あなたが何をしようがすまいが、今は関係無いのです。あなたを責めているのではなく、佐藤美穂さんという患者さんが、あなたを良く思っていないけれど、あなたは気に病んだりしないで下さい。だたし、佐藤さんと接触するときは注意して下さいね、と言っているのです。解りますか?」

 茫然としていた僕と違って、西村先生は穏やかに説明を繰り返した。随分噛み砕いて言っているのだから、そろそろ通じても良い頃だろう。


「私は、佐藤さんに嫌われるようなことはしていません。それだけは解って下さい」

小林の返事を聞いた西村先生は、僕に無表情な顔を向けた。態度には現さないけれど、内心では頭に来ているのかもしれない。先生にばかり説明させて申し訳なかったが、最初の説明が通じなかった時点で、僕はかなり驚いてしまっていたのだ。

 聞く気が無いのか、理解力がないのか、これで看護師をしているというのだから驚いてしまう。とは言え、西村先生にばかり相手をさせるのは失礼であろうから、今度は僕が口を開いた。


「あのね、小林さん。あなたが佐藤美穂さんに何もしていないことは解っていますよ。でもね、佐藤美穂さんは境界性人格障害で入院している患者さんです。あなたに何もされていなくても、自分より容姿が良いとか、自分より他の人に好かれているとか、そういう理不尽な理由で攻撃的になる可能性があるんです。ここまでで、解らないことがありますか?」

西村先生に習って、僕も穏やかに話すことを心がける。若い子なので泣かれても困るし、パワハラだのなんだのと騒がれたら堪らない。


「私が容姿に気を使ってるから悪いってことですか? 髪は染めていますけど、婦長にも注意はされていません」

小林の返しを聞いて、僕はお手上げだと放り出したくなった。正直、患者さんとしゃべっているような気がしてきていた。


 小林は、自分が批判されているという思い込みから抜け出せないでいるようだ。それ以外のことは、全て聞き流してしまっている。自己愛が強いのだろうか。

「僕も西村先生も、あなたが悪いとは思っていませんよ。お仕事も頑張っているそうじゃありませんか。患者さんに理不尽な理由で嫌われるのは辛いことです。それであなたが嫌な思いなどしないように、力になりたいと思っているんです。

 いきなり僕達におかしなことを言われて、驚いてしまいましたよね。困ったことがあったら、仲の良い先輩にでもいいので、相談して下さい。後は、美穂さんと接触しないようにして下さい。話し掛けたりしないようにね」

そう言って西村先生の方を見ると、黙って頷いていた。先生としても、これ以上話すのは得策では無いと判断したのだろう。

「小林さん、お時間取らせましたね。西村先生、行きましょう」

小林に食って掛かられたら堪らない。何か返事が来る前に、僕と先生はナースステーションを後にした。


 誰もいない医局で、西村先生と二人で昼食を取ることにした。コンビニ弁当の僕と違って、西村先生は手作りのお弁当を広げている。

「小林さんには驚きました。最後の神田先生の対応は、患者さんに話し掛けているようでしたね」

綺麗な黄色い卵焼きを箸でつまみながら、西村先生がいたずらっぽく笑った。

「そうです、僕は患者さんを相手にしている体で話しました。腹を立てるのも馬鹿らしくて」

「看護師に人格障害に近い人がいたのでは、患者さんに悪い影響を与えます。小林さんはもしかしたら、佐藤美穂さんに不用意な一言を発したのかもしれませんね」

西村先生の言葉を聞いて、美穂の吐いた嘘について思い出してみる。


 どうせ嘘なのだからと深く考えてはいなかったが、こうなってくると、美穂が小林を嫌った理由があったとしてもおかしくはないだろう。

「しかし、小林さんは、自分の発言のどれが悪かったか解らないでしょうから、調べようがありませんね。美穂さんに聞いてしまっては、小林さんへの悪意を肯定していると思われてしまうかもしれない……」

考え込んで西村先生を見ると、口をモグモグさせながら黙って天井を見ている。やがて何事か思いついたようで、口の中身を飲み込むと、お茶を飲んでから口を開いた。


「患者さん優先です。小林さんには、別の科へ移ってもらいましょう。申し訳ないけれど、小林さんは患者さんの害になりかねないです」

思い切った決断に驚きはしたが、異論は無かった。

「そうですね……何かあってからじゃ遅いと思います」


美穂が敵意を持っているのは明らかなので、それに対して小林が適切な判断を下せない限り、大きなトラブルに発展する可能性がある。病棟で言い合いでもされようものなら、他の患者さんにも悪影響を与えてしまう。

 男性の研修医や先生からは、若い看護師を飛ばしたと文句が上がりそうだが、西村先生の判断となれば、文句を言う者はいないだろう。

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