6.

 小林に対する西村先生の判断は、迅速だった。しかし、小林の行動力はその先を行っていたようである。小林を飛ばすことを決めた二日後、出勤早々、病棟が大騒ぎだから手を貸して欲しいと呼び出されてしまった。

 慌てて駆けつけると、閉鎖病棟に聞き慣れた金切り声が響いていた。


「うるせーうるせーうるせーうるせー、死ねよ、お前、あっち行けよ、クソ女、ブス、どっか行け――――――!」

美穂の声だ。

 すっかり安定していたはずなのに、信じられない思いで人だかりをかき分けた。


 廊下の隅に座り込んで、両腕を振り回して叫んでいる美穂が見えた。

「美穂さん、美穂さん! 僕が解りますか?」

腕を掴んで大声で語り掛けると、嫌がる様に身を捩って金切り声を出した。

「やーめーろー、あっち行け――――」

「美穂さん、神田です。解りますか!」

諦めずに何度も語り掛けると、やがて僕の顔を見て、声を出すのを止めた。


「嫌なことがあったのかな? 西村先生が来るまで、僕とお話しましょうか?」

頷いた美穂を見て、様子を伺っていた看護師たちが散って行く。見物をしていた患者達を落ち着かせて部屋へ戻すのだろう。どこの部屋からか、いくつか喚き声が聞こえて来る。騒ぎに触発されてしまったのだろう。


 未だ廊下に佇んでいる者がいる。不審に思って目を向けると、それは看護師の小林だった。悔しそうに唇を噛んで俯いている様から、この騒ぎの元凶であろうことが予想された。

 騒ぎを聞きつけた研修医が駆けつけて来たので、先に美穂をカウンセリングルームへ連れて行って、僕が行くまで付き添っていてくれるようにお願いした。美穂から話を聞く前に、小林から話を聞いておいた方が良さそうだ。


 美穂が去るのを見届けてから、小林に近づく。口を開こうとするので、ナースステーションを指差して歩き始める。ここで言い合いになってしまったら、また患者さんに迷惑が掛かるのだ。


 小林を伴ってナースステーションに入ると、間もなく二名の看護師が戻って来た。僕達の姿を認めると、眉間に皺を寄せて溜め息を吐いて見せる。芝居がかっているが、その気持ちも解る。

「どちらか、騒動を始めから見ていませんでしたか?」

「私、見てました」

ベテランの中村という看護師が手を挙げたので、心底ほっとした。これで正確な情報が得られるだろう。

 部屋の隅に椅子を持ち寄って、三人で向かい合った。

「正確に知りたいので、中村さんが見たまま教えて下さい」

頷いた中村は、ちらりと小林の様子を伺ってから口を開いた。


「廊下にいた佐藤美穂さんの所へ、小林さんが近づいて行った所から見ていました。後は二人が会話していて、最終的に美穂さんが大声を上げて座り込んだ感じです。会話の内容は、

 『私、美穂ちゃんに嫌われるようなことしたかな?』

 『はぁ、何言ってるの?』

 『何って、私のこと嫌いなんでしょ?』

 『あんたなんか知らないし』

 『美穂ちゃんに何かしたんじゃないかって、私が疑われているんだよ?』

 『知らないよ』

そんな風なことをしゃべっていたと思います」

頷きながら、最悪だ! と叫び出したい気持ちを抑えた。


 ここまで小林が考え無しだとは思わなかった。きちんと説得しきれなかった僕と西村先生の責任になるのだろう。しかし、責任どうこうはどうでも良いのだ。問題は、美穂がまた不安定になってしまったということだろう。


「小林さん、中村さんの言ったことで合っているかな」

溜め息を押し殺して小林に目を向けると、細めた目でこちらを睨みつけていた。

「合ってますけど。でも、私ははっきりさせようと思っただけで、間違ったことはしていません。本当のことを確認して、私が謝るべきならそうしようと思っただけです」


 いい加減、僕も我慢の限界だった。僕の三回のカウンセリングも、西村先生の投薬計画も、不用意な小林の行動によって一瞬で無駄になってしまったのだから。


「あのね、小林さん。君は自分が間違っていないと主張するけれど、患者さんである佐藤美穂さんが、君の行動のせいで錯乱状態になってしまったんだ。それは、君が病院のスタッフとして間違ったことをしたという証拠だよ。友達相手になら、君の行動は当然のことなのかもしれないけれど、相手は患者さんなんです。君が間違っています」

声を荒げないようにするので精一杯だった。これでも、気を使って話せたと思う。小林がどう感じようが知ったことでは無い。これ以上突っかかって来られても面倒は見切れない。


「私は新人だし、先生とか婦長には壁を感じてしまって、色々聞けないんです。どうすればいいかちゃんと考えて行動しました。先生達に壁を感じて質問出来ないってことは解って欲しいです」

小林の言葉は、全く理解出来なかった。


 患者さんの言葉だったならば、分析して理解することも有効だろう。しかし、相手は看護師なのだ。何を言っても、自分は悪く無い、解ってほしいと訴えて他人のせいにしようとする者と話をするのは不毛だ。


 仕事とはこういうものなのだろうか……身内に足を引っ張られ、積み上げた仕事も台無しにされる。新人教育が必要だとは言っても、聞く気の無い、話の通じない者相手に、パワハラだと騒がれないように声を荒げることも出来ない。そもそも、看護師の教育は、臨床心理士の仕事では無いだろう。


「すいませんでした!」

腕を組んで小林を睨み付けていた所で、頭の上から威勢の良い声が振って来る。見上げると、看護婦長が深々と頭を下げていた。

「私の監督不行き届きです。神田先生がいて下さって良かった。美穂さんを拘束せずに済みました。良かった」

僕よりずっと年上で、キャリアも長い看護婦長は、再び頭を下げるのだった。


 何と潔い人だろう。しかも、美穂のことを心配している。小林のことでささくれだった心が、すっと澄んでいくような気がした。


「小林さん、婦長さんが君のミスのせいで、僕のような下っ端に頭を下げてくれているのが解りますか? 君を責めもせず、真っ先に僕に頭を下げて、美穂さんの心配をしている。素晴らしい婦長さんじゃないですか。

 君がミスをしたのは、婦長さんや僕が君に壁を感じさせたせいですか? 今の婦長さんの姿を見ても、君は心底そう思っているのですか?」

小林は太ももの上で手をぎゅっと握り込みながら、相変わらず僕を睨み付けていた。


「どうしても壁があるんです。それは解って下さい」

小林の返事を聞いて、僕は立ち上がった。限度というものがある。美穂も待たせていることだし、これ以上話しても無駄だろう。後は、婦長に任せるしかない。

「婦長さん、僕は美穂さんの所へ行きますので、話は中村さんのほうから聞いて下さい。後は、西村先生が来たら、状況を伝えてもらえませんか?」

「解りました」

婦長の心強い返事に励まされる思いで、ナースステーションを後にした。

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