7.

 カウンセリングルームの扉をノックすると、研修医の青年が顔を出した。僕の顔を見ると、ほっとしたような笑顔を浮かべて中へ招き入れてくれる。暴れたばかりの閉鎖病棟の患者と二人きりだったのは心細かったのだろう。僕がお礼を言って中へ入ると、そそくさと外へ出て行ってしまった。精神科医を目指しているのでは無いのかもしれない。


「美穂さん、待たせてごめんね」

いつも通りの奥の席に膝を抱えて座っている美穂は、興奮して疲れたせいか虚ろな目をしていた。


「疲れてしまったかな。どんな気分ですか?」

「……嫌な気分」

「そうだね」

あまり達者にやり取りは出来ないだろう。


 声を掛けずに待っていると、しばらくして美穂が口を開いた。

「何かさー、酷いよねー。あたしは辛い目に遭ってるのに。何でさー、病院で小林さんに責められるわけー?」

「うん」

しばらく口を閉ざして、殻に閉じこもってしまうのではないかと心配していたので、まずは少しずつでも語ってくれることに安堵した。


「辛いー、酷いよねー」

「辛くて、酷かったね」

「そうだよー、知らないって言ってるのに、色々言ってきてさー。小林さん酷いよね。私が悪いんじゃないのに。あの人さいてーだよ。最低の人間。怖いし、自分勝手。ゆうちゃんせんせーもそう思うでしょ」

「美穂さんの言っていることは解るよ」

「そうでしょー、鬼みたいだよ、小林。助けてよー」

「うん」


 それからしばらく美穂は小林の悪口を言い、僕は相槌を入れながら聞いていた。体を前後に揺らしながら話す姿は、反復運動でストレスを軽くしようと試みているようだ。


 三十分程すると、美穂は大分調子を取り戻してきたように見えた。

「やっぱりあたしって、女に嫌われやすいんだよね」

「そう感じているんだね」

声に明るさが戻って来た頃、扉をノックする音がした。美穂が体を縮めて硬くなる。

「西村です、いいですか?」

外から西村先生の声がすると、美穂の緊張が解けたようだった。

「どうぞ」

返事をすると、ゆっくりと扉が開いた。普段通りの西村先生の顔が見えると、僕も体の力が抜けたような感じがした。自覚していなかったけれど、緊張していたらしい。


「朝から大変でしたね」

西村先生が気軽な様子で話しかけると、美穂は笑顔を見せて頷いた。

 僕が立ち上がって席を譲ると、西村先生は会釈をしてから腰を下ろす。


「そうだよー、あたし、酷い目に遭ったんだよ」

「気分はどうですか?」

「ゆうちゃんせんせーに話したから、気分は良くなったよ」

「それは良かったです」

それから美穂は、どんどん上機嫌になって行った。


 普段は短時間しか相手をしてもらえない西村先生と、他の患者さんのカウンセリングも行っている僕を独占出来たことも嬉しかったのだろう。


 すっかり落ち着いた美穂を病棟へ送って行き、西村先生に連れられてナースステーションへと向かった。僕が去った時と変わらぬ様子で、小林が部屋の隅に座っていた。僕らの姿を見つけた婦長が近づいて来て、共に小林のもとへ向かう。


 小林は、僕らの誰とも視線を合わせずに、それでも何かを睨み付けている。誰かの言葉が届いているという印象では無い。

「さて、私は先程婦長さんに話を聞いて、すぐに神田先生の元へ向かったので、小林さんとは話をしていませんが。何か私に言いたいことはありますか?」

穏やかな西村先生の問いかけにも、小林はそっぽを向いたままだった。

「……どうせ解ってもらえませんから」

ここまでくれば、こういう答えが返って来るであろうことは予想出来ていた。怒りも湧いて来ず、ただ呆れるばかりだ。


「そうですか。婦長さんも私も神田先生も、常識を持ち合わせた一般的な人間です。我々は、あなたが言っていることは理解出来ます。しかし、その思考に同意出来ないと考えているのです。精神科の看護婦長と精神科医と臨床心理士に、解ってもらえないと感じているあなたの方に問題があるとは考えられませんか? 言っていることが解りますか?」

西村先生にしては、きつめの口調だった。


「……偉い人には、私の気持ちなんて解らないんです。教えてくれればちゃんと出来るのに」

西村先生が僕の方を向いたので、諦めようという意味を込めて首を振って見せると、同意するような頷きが返って来る。


 教えられれば出来ると言われても、美穂に話しかけるなという僕の指示はすっかり無視しているんだからどうしようもないだろう。

 すっかり諦めモードだった僕らの耳に、看護婦長が大きく息を吸い込む音が聞こえて来た。


「あなたは、精神科を甘く見ている! 壁があって偉い人には聞けないと言ったらしいわね。教えてもらえない、聞けない。そんな甘えた考えで勝手な行動をした結果がこれよ! たいしたことじゃないと考えているのかもしれないけれど、あなたの一言で患者さんが自殺することもあるの! 自分が理解されたいと思う前に、患者さんを理解しようと努めなさい。そうすれば偉い人に聞けないなんて言っていられないはずよ。いい加減に反省しなさい!」

 患者さんへの影響を考えて、声は抑えているようだった。それでも、看護婦長の怒りが十分伝わって来る口調だ。もの凄い気迫だったので、少々面食らってしまう。


 小林は何も言い返さなかった。目が潤んでいるようだったが、表情を見れば、何も伝わっていないことが伺える。これは少々まずいかもしれない。小林は、看護婦長にパワハラを受けたと言い出しかねない。何か言った方が良かろうと口を開きかけたが、先に西村先生が言葉を発していた。

「美穂さんからどのようにご両親に伝わるか解りませんが、小林さんに謝罪を要求するかもしれません。もしかすると、損害賠償を請求されるかもしれませんね。病院も、私も、神田先生も、婦長さんも、そうならないように努力することになります。何にせよ、あなたが起こした騒動を収めるのは我々です。それに対してもあなたの謝罪や感謝の言葉が無いのは残念なことです」


 美穂の様子からすると、そんなに大事にはならないだろう。西村先生はそれを理解した上で、損害賠償の話を持ち出したのだ。恐らく、僕と同じようなことを考えたのだろう。大事の後処理をさせた看護婦長を、パワハラだと弾劾するような馬鹿な真似はするまいという機転だ。

 どの程度効力があるかは解らないが、パワハラで上に訴えられても、西村先生が付いていれば看護婦長は処分されないだろう。僕だって、他の看護師だって力になれる。


 西村先生と僕は、医局でコーヒーを飲んでひと息ついた。

 小林は家に帰されることになり、上に報告に行く前に一休みしたいと言う西村先生と一緒に医局へ退散し、ようやく人心地付いたところである。珍しく疲れた表情をした西村先生は、コーヒーをちびちび飲みながら口を開いた。

「同僚というのはやっかいですね。小林さんが家族や友人、患者さんだったならば、受け入れて力になろうとすることも出来るのですが、同僚は駄目ですね。

 どんな仕事でも、自分以外を第一にするべき時があるものです。それが出来ない人とは仕事は出来ません」


 仕事とプライベートを分ける。よく聞く言葉だが、そう簡単なことではないのだろう。休みの日に仕事の電話を受けないとか、家庭で仕事の話をしないとか、行動を実践すれば割り切れるということではない。

 小林のように、私生活で自分を理解しろと主張し、自己愛を満たしてくれる者達とだけ関わっていたとしても、職場の人間にもそれを求めることは間違っている。極端な話、職場では自分など誰にも相手にされていないと思っているぐらいで丁度良いのではないだろうか。


 仕事をすることが第一なのだから、仕事を円滑に進めるための人間関係を築くことが必要なのであって、自己主張をして理解しろと体当たりするような真似は相応しくない。


「社会は厳しいということでしょうか。僕達は、心を病んだ人のケアをする仕事についてはいても、人が精神を病むきっかけを与える側に回ることもあるんですよね。まぁ、小林さんについては、病院を辞めて心を病むとは限りませんが」

溜め息を吐いた僕を見て、西村先生は眩しいモノでも見るように目を細めた。


「精神科医も臨床心理士も、年がら年中他人の心を思いやることは出来ませんよ。生きていれば、感情的な判断を下すこともある。しかし、患者さん相手のように大らかになれないからといって、自分が粗末な人間であると思い込むことはありません。

 大事なのは、真剣に悩むことです。自分を卑下することなく、自分の行動の理由と向き合っていかなければならないのだと思います」

「やはり、日々是精進ですか」

「そういうことです」

いつかと同じ結論に至った僕達は、顔を見合わせて笑った。


 西村先生が去ると、僕は椅子にだらしなく腰掛けたまま窓の外の空を見ていた。嫌なことがあった後は、腰が重くなるものだ。

 僕は、西村先生の言葉をきちんと理解出来ているのだろうか。


 初対面の人に職業を聞かれた時、僕は臨床心理士であると言うことに抵抗がある。聞いた相手には、性格を見透かされるのではないかと警戒されるし、人助けが好きな優しい人のように思われることも多い。


 人助けなど……そういう驕った気持ちは僕には無いのだ。どちらかと言えば、「私は人が好きで、人を助ける仕事がしたい」などど公言して憚らない人間は好きではない。


 良き臨床家とは、どんな人間か。西村先生はお手本となってくれる尊敬すべき人だ。それでは僕は、先生といれば目指すものになれるのだろうか。そもそも、何を目指しているのだろう。


 認知療法、行動療法、論理療法、精神分析。面白い、学びたいという欲求はある。しかしそれを実際の人間相手に生かそうと思う時、僕はどんな心づもりでいればいいのだろう。

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