12.

 土曜日の夜、僕は由香と二人で居酒屋に来ていた。明日は二人とも休みなので、セーブしないで酒を飲もうという算段である。

「かんぱーい」

「乾杯」

由香の明るい声に釣られて、慌ててグラスを持ち上げた。

 空腹の所へ冷たいビールを流し込むと、胃袋が収縮するような感覚になる。由香が広げているメニュー表を覗き込むと、向きを変えて僕にも見えるようにしてくれる。今日は鳥専門の居酒屋なので、引け目を感じずにゆったり出来そうだ。馴染み深い、派手でペラペラなプラスッチックのメニュー表に安心感を覚えた。


「串焼き食べるよね? 雄一は何がいい?」

「そうだな……砂肝に軟骨かな」

「私は、ネギマがいいな。全部二本ずつ頼もうね」

「うん。鳥刺しと唐揚げも食べたい」

「いいわね! 頼もう」

由香のような女性と一緒だと、ただメニューを選んでいるだけでも楽しい。


 店内は美味そうな油の香りで満たされ、柔らかい電灯の下で談笑する皆が幸せそうに見えた。時折聞こえる威勢のいい店員の声も小気味良い。

「で、この前話してた看護師のことはすっきりしたの?」

目を開いてじっと見つめて来る様子は、何らかのトラブルを期待しているように見えた。

「うーん。実はその看護師の父親が病院に乗り込んで来たんだ。娘をいじめて辞めさせただろってね」

僕の言葉を聞いた由香は、今度は口を大きく開けて驚きを表現した。

「マジで? やだー。揉めたの?」

話題としては大立ち回りを演じたぐらいのほうが面白いのだろうが、実際はそんなに派手では無い。

「いや、父親は誠実で真面目な人っぽくてさ、看護婦長の説明を聞いて帰ってくれたよ」

「えぇー」

つまらない、と続きそうだったが、言葉にはしなかったようだ。


 僕としては、帰って行く父親の背中を思い出してしまい、どうしても口が重くなってしまう。あれ以来、父親は病院にやって来ていない。弁護士などに相談していて時間が掛かっているというよりは、娘とひと悶着あったのではないかと思われる。そうだとすると、今頃相当参っていることだろう。


「由香のほうはどうなの? 学校との関係は?」

「相変わらずよ。私立の常勤になれたのは幸運だったけど、辞めた方が良さそうだわ。あの学校は、スクールカウンセラーのことを、子供と内緒話をする要注意人物だと思っているのよ。私に接触する子供の事を監視しているみたいだし。

 意識を変えてもらうにも、私じゃ力不足だわ。今の所にしがみ付くよりも、公立学校を何校か掛け持ちした方が自分の勉強にもなると思う」


 スクールカウンセラーの役割と扱いについては、それぞれの学校の方針ごとに違っている。重宝される場所もあれば、煙たがられることもある。あれこれ口を出して改善を願うという手もあるが、経験の浅い僕達には荷が重いだろう。


「そうだね。そういう所は、ベテランに頑張ってもらうのが良いのかもしれないね」

子供達の為にも、カウンセラーが有効に活用できる場が整ってくれるといいのだが。

 目を伏せた由香が、テーブルのおしぼりをぎゅっと握りしめている。何かあったのか。


「少し勢いがないね。何かあった?」

「うん……」

「お待たせしました! 鳥刺し、串焼きです!」

「あ、どうも」


 少々タイミング悪く注文品が運ばれて来る。店員に軽く頭を下げると、笑顔で立ち去って行った。二十歳ぐらいの若い男性で、いかにも楽しくバイトをしている風だった。店員同士仲良く声を掛け合っている姿は、この店の雰囲気の良さを象徴しているように見える。


「食べようか」

「そうね、美味しそう!」

由香が醤油を持ち、僕の皿にも注いでくれた。


 楽しそうな大学生の姿を見ると、自分が社会に出たことを実感してしまう。彼らには僕達がどんな風に見えているのだろうか。羨望やら尊敬の眼差しを向けられていないことは確かだろう。僕のほうも、楽しい盛りにいる彼らは輝いて見えるが、それでも羨ましいとは思わない。

 仕事をこなすこと、職場でのトラブルを受け止めること、上司に褒められること。一つ一つは些細なことだが、確実に自信に繋がっている。学生の頃の僕より成長したという実感があった。


「学校でさー」

由香が、鳥刺しを醤油の中で転がしながら口を開いた。相槌を打って黙っていると、鳥刺しをそのままにしてビールを一口飲んだ後に話し始める。

「いじめに遭った女の子がいてさ……家で手首を切ったらしいの。ちょっと血が出るくらいだったんだけどね」

「うん」

「その子、私の所に来てカウンセリングの予約を取ったんだけど、養護教員がそれを見ていたらしくて……後で保健室に引っ張り込んで、なぜカウンセリングを受けるのかってその子に色々尋ねたみたいなのよ。その時に手首の怪我を見つけたもんだから、更に質問攻めにして叱った風で」

「そんな……」

「そう、酷いよね。私は全然気が付かなくって。女の子が私の所へ来て、大泣きしながら教えてくれたんだ」


 想像しがたい事態である。養護教員も子供を心配しているのだろうが、やり方がまずかった。質問攻めにしてしまっては、子供にマイナスの影響を与えたことだろう。精神的に安定している大人だって、どうしてなんでと質問され続けるのは苦痛なのだから。


「それだけじゃないの」

「え?」

「養護教員がね、女の子のカウンセリングは保健室で、私のいる前でするようにって言うのよ。それは駄目だって説明しても、まるで取り合ってくれなくて。他の先生方も校長も養護教員の味方だから、結局言いなりになるしかなかった」

「うん」

頭を垂れた由香は、口元に歪んだ笑みを浮かべている。自分を恥じているようだった。


 患者さんに対するカウンセリングだったならば、『それは辛いですね』と声を掛けるところだが、友達相手に言うのは憚られた。同じ臨床家同士なのに、僕にそんな態度を取られたら傷付いてしまうのではないか。


「結局、養護教員の前でカウンセリングしたんだけど……女の子は一時間黙ったままだったわ。その後、養護教員が何て言ったと思う? カウンセリングって効果があるとは思えないわって言ったのよ」

「そうか、そんなことが……」

声を震わせている由香が痛々しい。


 本当ならば、辛い目に遭った子供のことを心配するべきなのだろうが、今の僕には目の前にいる由香の気持ちの方が重要に思われた。


「私が辛がってちゃ駄目よね。あの子を心配してあげなくちゃ」

「そんなことないよ。今は、目の前にいる由香の方が心配だ。辛がったっていいんだよ」

素直な気持ちを口に出すと、由香は顔を上げて僕を見る。

 奇妙に歪んだ口元と、眉間に寄せた皺。小さく痙攣した目から涙が零れ落ちた。


「辛い目に遭ったね」

「……そうよね、そうよね、うん」

そう呟くと、おしぼりを目に当てて俯いてしまう。

 何も言わずに、時折肩を震わせる由香を見つめた。しゃくりあげるのを我慢しているのか、喉を鳴らしている。ここが居酒屋ではなかったら、抱き締めてあげることも出来るだろう。

 いや……。

 僕は由香の横に移動すると、そっと肩に手を回した。

 喉のつかえが取れたように、小さな唸り声が漏れ始める。我慢せずに泣いて欲しいと思う。


 僕は由香の力になりたいし、辛い気持ちを癒してあげたい。でもそれは、仕事で患者さんに行っているカウンセリングとは違った方法なのだろう。

 患者さん相手には、安易に僕の気持ちを話して同調したりはしない。まして、肩に手を回すことなどありえない。『支えてあげたい、それが僕の幸せである』などというおこがましいことも考えてはいない。僕はただ、患者さんのほんの一瞬に関わり、人生の質を上げるお手伝いをするだけなのだ。勿論、全力で取り組んではいるが、患者さんの人生に寄り添っているのは家族や友人なのだから、あくまでも僕は知識を持った第三者として、慎ましさを忘れてはならない。患者さんの症状が良くなれば喜びを感じはするが、それは胸の奥底にそっとしまって、謙虚に自信へと変換するべきだろう。


 今の僕の状況では、目の前の由香が大切で、何が正しいとかどう分析するかとか、そういったことはどうでも良いように思えた。今まで実感したことはなかったが、身近な者を励ますときの僕は、こういうものなのだろう。上手くカウンセリングをして癒そうなんてことは出来そうもないし、するべきでは無いと思えた。『支えてあげたい、由香の苦しみが減るのなら、それは僕の喜びだ』と盛大に主張出来るのが、友人への当然の在り方なのだと思う。


 仕事とプライベートの差を、自然と悟ることが出来た瞬間だ。最近は患者さんを第一に考えて過ごしていたが、プライベートで人を大切にする素晴らしさを再認識させてもらえた。今この瞬間、僕の存在が由香にとって支えになれているのだとしたら、それだけで僕は温かい気持ちになれる。


 臨床家としての『寄り添う』と、友人としての『寄り添う』は違うのだ。


 ひとしきり泣いた由香は、もう涙は出ないとばかりにおしぼりを机へ放り投げた。すっかり氷の溶けた水を口に運んだので、僕は店員を呼んで熱いお茶を注文する。放心したように一点を見つめる由香から体を放すと、小さく笑ったように見えた。

「どうしたの?」

声を掛けると、ふふっと口から息が漏れる音が聞こえてくる。

「串焼き、来てたんだね。冷めちゃってもったいない」

「冷たくてもいいよ。ちょっと硬くなった肉も、僕は好きだ」

「…………私、あの子に酷いことしちゃった。ちゃんと守ってあげられなかった」

「うん」

そんなことは無いと否定してあげても、何の助けにもならないだろう。取り返しのつかないことや、自覚して向き合った方が負担が少ないこともある。

 由香も臨床家だ。女の子のことはしっかり考えて、最善のケアをしなければならない責任があるのだから。


 由香が顔を上げ、横にいる僕を見る。ようやく視線が合わさった。笑って見せると、人見知りの子供のような笑みが返ってきた。

「……ねぇ、食べましょうよ!」

「そうだね」

名残惜しかったが、僕は自分の席へと戻った。


 明るい声を出した由香は、まだ無理をしているに違いない。しかし、そうやって自分を鼓舞する人もいるのだろう。『嘆くだけでは終わらない』、そんなかっこいいセリフをはく女性なのだから。

 滲んだマスカラで目の下をうっすら黒くしながら、無理して明るく振る舞う由香は綺麗だった。美しさにも色々あるものだ。



 大げさにはしゃぐ由香と楽しい時間を過ごし、駅で別れて電車に乗った。辛い気持ちを抱えている由香には申し訳ないが、僕は満たされたような気持ちで電車に揺られている。空席もチラホラ見掛けられたが、何となく座る気にはなれなかった。

『雄一に話して良かった。ありがとう』

別れ際の言葉が何度も思い出されて、いつまでも僕を高揚させている。


 ポケットの中の携帯電話が震え出し、前にもこんなことがあったなと思い出す。恐らく、由香からのメールだろう。想像通りの送信者名を見て笑みがこぼれたが、文章に目を走らせるうち、頬の筋肉が張り詰めて突っ張っていくのを感じた。


『雄一のこと好きだな。私達、付き合えないかな?』


肩や腕に力が入ってしまい、顔に血が集まって来る。

 電車が大きく揺れて、慌てて手摺につかまった。

 告白された? 僕が由香に? 何か見間違ったかな?

 何度も画面を見直して、やはり告白されていると確認する。鼓動が速いのは酒のせいでは無いだろう。こんな気恥ずかしく胸が熱い思いをしたのは、高校生の頃が最後だったような気がする。


 由香とは大学院時代、友人として二年間を過ごした。冴えない僕からしたら、由香は高根の花だった。飛び切りの美人ではないが、長い髪を揺らし、首元や耳たぶにアクセサリーを付けた気の強そうな横顔は、決して自分のような者が特別に得られるものでは無いのだと自覚していた。


 しかし今、由香は僕を好きだと言う。

 僕だって、由香が好きだ。自信に溢れた姿、嘆くことを良しとしない清々しさ。ずっと、僕には無いものに憧れていた。


『僕だって由香が好きだ。付き合おう』


 メールを打つ指先が震えていて、我ながら情けなく思う。それでも、にやけてくる顔を引き締めるので精一杯だった。

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