13.

「気分はどうですか?」

「元気でーす。雄ちゃん先生は?」

「僕も元気ですよ」

「良かったねー」

少しふざけた調子で笑った美穂は、声も表情も明るい。

 トレードマークのようになっていたグレーのスウェットも、薄いピンク色に変わっている。髪を右肩の前方に結んだ様子は、おしゃれに気を使っている普通の少女だった。些細なことに感じられるかもしれないが、これはかなり回復している証拠なのだ。


 精神が参ってしまうと、当たり前の簡単なことが出来なくなる。髪をとかして結んだり、着る服を選んだり。そういったことは、人に見られるという意識を持って社会と繋がっているからこそ有効なのだ。どうでもいい、何もかも嫌だと心を閉ざした人にとっては、行う必要の無い行為になるのだろう。


 努めて閉じているのでは無い。僕は、患者さんがシャボン玉の中に入っているようなイメージを持っている。

 心が疲れ切ると、発生するシャボン玉。

 中と外では、時間の流れも違っていて、円滑なコミュニケーションは行えない。ただ、膜を害するような刺激が加えられると、中の人間は猛烈に反発する。


「明るい色の服だね」

「そう、ママに持ってきてもらった。グレーばっかりじゃつまんないしねー」

「つまんない?」

「うん。何か、気分が上がんないっていうかねー」

「そうなんだね」

「うん。おしゃれ出来るわけじゃないし、せめて色ぐらいはねー」

「おしゃれ?」

「やっぱ私もピチピチだしさー、周りの目も考えないと。あんまりダサくしてると、周りに取り残されるっていうか。見た目ちゃんとしてないと、駄目な女って誤解されるでしょ。女は中身だー、とかっていう男も、本当は可愛い子に弱いんだよね。雄ちゃん先生だってそうでしょー」

「そんな風に見えるんだね」

「見える見えるー」


 美穂は両足を椅子の上へ上げて、体育座りをするように抱え込んだ。お行儀が悪いし、僕がなめられているように見えるかもしれないが、これはこれでいい。カウンセリングの時間というものは、患者さんが自分の為に使って良いものなのだ。極端な話、僕を無視してずっと時計を眺めていたって構わない。

 膝を抱えた美穂の行動は、僕に見られていることを意識しているのかもしれない。僕もそれなりに若い男なので、見られることが恥ずかしくて体を縮めているのか。回復するのは良いことだが、僕に特別な感情を持ってもらっては困る。


「それでは今回も、家に帰ったらどんな風にするか考えてみようか」

「うん、いいよー」


 鬱症状が改善した美穂は、退院を考えねばならない。両親がいて環境も整っているので、いつまでも病院にいるよりは外で生活した方が良い。とは言え、退院してすぐに自殺してしまう患者さんも少なからずいるので、出来る限りの心の準備はさせてあげたいところだ。


「えっとねー、西村先生に言われた通り、まずは規則正しく生活するんだー。朝起きて、夜寝る。そうすると辛くなることも少ないって言ってた。ほんとにそうかもって思う。あたしが辛くなるのって、夜が多いから。眠れないで起きてるときとか、やばい感じになる」

「やばい感じ?」

「そう。何か誰も解ってくれないっていうか、責められてるっていうか。ひとりぼっちだから、腕を切りたくなる。切って血が出ると、安心するんだよね」

「繰り返したね」

「そう。癖になってる。楽になるから」

「楽?」

「楽だよー。何か、辛い気持ちが無くなってく感じ」

「でも、また切っちゃうね」

「そう。癖だから」

「切れば楽になるけど、すぐまた辛くなっちゃうから繰り返すのかな」

「……そうかな。どうせ辛くなっちゃう」

声のトーンが落ちた。


「うん」

「……ほんとはね、切りたくない」

美穂は、僕に内緒話を聞かせるように、前のめりになって語り掛けた。秘密の話を告白するように。

「うん」


 切りたくないという言葉が自主的に出て来たことは進展であった。家族や医師にどれ程切るなと言われても、本人が望まなければ良い結果は得られない。美穂が言っているように、『辛い→切る→楽になる』という流れは、条件付けになっている。ボタンを押せば餌が出て来ることを知っている鳩が、ボタンを押すことと一緒なのだ。

 ではなぜ、自傷行為というボタンが出来てしまったのか。誰かの真似をして始まったのか、怪我をした時に優しくされたことが思い出されたのか、それを的確に探るのは難しいし、解ってもあまり治療の足しにはならない。ボタンが出来た理由よりも、ボタンを押したくないと思えることが重要だろう。


「切るとさ、跡になるし。人に見られたら引かれるし。駄目なことだって思う」

「駄目?」

「やっちゃいけないことだからね。ママも泣くし、死んじゃったりするから。あたし、死にたいわけじゃないんだー。パパの言う通り、予備校に行ったりすれば、楽しいこともありそうだし。辛いことがあったって、切らないで我慢しなきゃ駄目なんだって分かってる。こんなんじゃ、嫌われちゃうしねー」

 予備校の話は初耳だった。母親が面会に来ていたので、そんな話をしたのだろうか。気になるが、ここで尋ねて流れを変えたくない。カウンセリングでは、患者さんが自分の言葉で長く話してくれる程、得られる情報も多くなる。良い流れが出来れば、それを途切れさせるような質問は後回しにしたい。


「嫌われちゃう?」

「嫌われる。好きな人にも、どうでもいい人にも、嫌われる。でもさー、あたしは切っちゃたりするけど、ほんとはそんな子じゃないんだよ。辛いから切っちゃうだけで、変なこと考えてる人間とかじゃない。ちょっと弱いのかな。そう、弱いから、すぐ辛くなるんだよ。傷付きやすいって感じ。そういうこと分かってもらえれば、いいのになー」

「分かってもらうって、どんな感じかな?」

「ちゃんと、ほんとのあたしを知るっていうか。傷付きやすいこととか分かってもらって、酷いことしないでもらえる的な? 嫌われたり悪く言われない感じ。ほんとのあたしをちゃんと分かって、見てもらえる」

「さっき、ほんとは切りたくないって言ってたね」

「うん、言った。切りたくないのがほんとのあたし。弱くて傷付きやすい。変な子ってわけじゃない」

「切ってもすぐまた辛くなっちゃうって言ってたもんね」

ここで美穂はいったん顔を伏せて、何事か思案している様子を見せた。


「そう。どうせまた辛くなる。雄ちゃん先生、どうやったら切らなくても大丈夫かな。あたしだって良い子でいたいし」

「そうだね、一緒に考えてみようね」


 僕は、美穂の「良い子でいたい」という言葉が引っかかっていた。この表現は、今までのセッションでは見られなかったように思う。自傷行為を止める話に持って行くか、「良い子」について聞くべきか判断に迷う。

 美穂の様子を伺うと、小首を傾げて、僕の言葉を待っているようだ。その姿が、やけに幼く見えた。病的な程ではなかったから注目していなかったが、幼児退行の原因に何か問題が隠れているとしたらどうだろう。

「良い子でいたいって言っていたね。良い子って、どんな感じかな」

美穂が黙って体を揺らした。促すように笑んで見せると、顔を上向けて笑みを返して来る。

 子供が親を下から見上げてるように見えなくもない。だとすれば、僕に父親を投影しているのかもしれない。


「美穂は良い子だと思うんだけどなー」

「うん」

「良い子なんだよ?」

「うん」

「良い子にはね、ご褒美があるんだよー」

 美穂の様子が、どんどん幼くなって行く。ますます体を縮ませて、親に甘えるような口調になっている。


「ご褒美?」

「水族館に行った」

「いつかな?」

「小学校四年生」

 小学校四年生という答え方をするのは、特徴的なのではないだろうか。小学校の記憶を、学年ごとに整理して記憶している者は少ないだろう。


「他にもご褒美あったかな?」

「あった。おっきなクマさんもらった」

「いつかな?」

「小学校四年生」

「小学校四年生のとき、どんなだった?」

「楽しかった」

「うん」

また、小学校四年生か……。

 判断を間違えたかもしれない。「良い子」については、次回のセッションに回せば良かった。

 何か問題がありそうだが、今日は時間が足りない。しかも、このように幼児退行してしまうのでは、先に主治医の西村先生の指示を仰いだ方が良さそうだ。


 会話の質が落ちてしまったので、これ以上単発の質問を続けては、何か支障が出かねない。

「そういえば、今日はレクリエーションに出るんだっけ? 何をして過ごすんだったかな」

少々強引だが、良い子の反応を打ち切ってもらうことにする。


 黙って美穂を見つめていると、体を左右に揺らしながら天井を見つめている。

 五分程黙ったままで観察していると、徐々に体の揺れが小さくなってきた。


「今日のレク、楽しみだね。美穂さんはいつも元気に参加しているもんなぁ」

僕の声を聞いて、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。

「だねー、雄ちゃん先生はドジで面白いよねー」

普段の様子に近くなった姿を見て、心の中でほっとした。



 医局で、西村先生と一緒に昼食を取る。ゆっくり食べたいところだが、一刻も早く、美穂のカウンセリングのことを相談したかった。

「美穂さんのカウンセリングのことなのですが」

西村先生が、コロッケのようなものを箸でつまみながら顔を上げた。

「何かありました?」

頷いた僕を見て、どうぞ話しなさいというように左手を差し出される。

「実は、美穂さんが『良い子でいたい』という言葉を使ったんです。これまで出てこなかった言い回しだったので、拾って尋ねたのですが、そこからかなり幼児退行してしまって。僕の見立てでは、美穂さんは僕に父親を投影している可能性があるかと」

 西村先生は、口をもぐもぐさせながら上を向いて思案している。飲み込むまでに少しかかりそうなので、自分のパンにかじりつきながら待っていた。


「そうですか、うん。それで、神田先生は何か問題がありそうだと感じたのですね?」

「はい。良い子にしているご褒美に水族館へ行ったと言うので、それはいつだったのか尋ねたのです。そうしたら、小学校四年生だと答えた。他のご褒美について聞いてみても、いつだか聞いたら小学校四年生なのです」

「なるほど。ちょっと、神田先生のメモを見せてもらえます?」

字が汚くて恥ずかしかったが、メモを挟んだバインダーを手渡した。

 西村先生は、右手の箸にはしっかりコロッケを挟んだまま、左手でバインダーを持っている。メモに目を落とすと、すぐに首を傾げた。もう何か、気になることを見つけたのだろうか。

「字が汚いです」

「はい、すいません」

 こうきっぱり言われては、謝るしかないだろう。正直さに嫌味が無いので、逆に羞恥心が消えたほどだった。僕もこんな風になれたらいいのに、と羨ましく感じてしまう。


「幼児退行は戻りましたか?」

「カウンセリング終了までには何とか」

西村先生は、鋭い目で汚い字を追っている。あまり真剣になりすぎたせいか、箸からコロッケが滑り落ちて、メモの上へと落下した。

「……あらまぁ」

ソースのハンコが押されたことだろう。

 思わず吹き出すと、それを見た西村先生が、コロッケを拾って僕の口の中へ放り込んだ。

「……美味いです」

「噛みながら口を開かない」

「はい」

 可愛がって頂くのは有り難いが、完全に子ども扱いである。どちらかと言うと、子供っぽいところがあるのは西村先生のほうだと思う。精神科医としてはかなり名の知られた人なのに、全く権威を感じさせない。それが元々のものなのか、精神科医に必要だとして習得したものなのかは解らないが、ごく自然に見えるので好感が持てることだけは確かだ。


「確かに、私も何か問題が隠れている気がします。しかし、迷いますね。セッション中ずっと幼児退行されたのでは、症状として固定してしまうかもしれない」

「ですよね……」

「ちょっと考えさせて下さい。神田先生もどうしたら良いか考えておくように」

「はい」

 非常に悩ましいところだ。無視は出来ないが、掘り返せば何が飛び出すか、どんなことになるか解らない。これまでの治療を、一瞬で無駄にしてしまうかもしれない。


 幼児退行が固定してしまえば、記憶障害なども起こりかねないだろう。そうなると、回復にはかなり時間が掛かってしまう。見過ごす訳には行かないとしても、何とか幼児退行させずに話を聞きだせないものか。

 それとも、いっそ回復のプロセスとして、幼児退行させてしまうか。そうなると、西村先生にしっかり指示をもらいながらでないと動けないだろう。


「神田先生」

「はい」

「ここ、漢字が間違っています」

「はい、すいません」

新たな指摘をされる前に、西村先生の手からソース印のメモを取り上げた。

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