21.

 美穂の訃報を聞いてから、三日程経つ。西村先生からは、『辛くなったらいつでも話を聞くから、お互いに色々と考えてみましょう』と言われていた。自分なりに足掻いてみろということなのだろう。


 今日は日曜日だ。普段なら由香と会っているところだが、仕事が溜まっているからと断ってしまった。メールのやり取りはしているものの、美穂のことは話せずにいた。何となく、今の状態で会うのは恥ずかしい。もう少し心の整理がついてから、説明したい気分だった。男として情けない姿は見せたくないという、彼氏としての意地なのかもしれない。

 とは言え、何もする気は起きないし、出掛ける気持ちにもなれない。遅めに起きて身支度を整えたものの、コーヒーを飲みながらテレビを眺めていた。

 狭いワンルームの空気が、僕の陰鬱とした気分で満たされているようで、せめて風でも通そうと窓を開ける。外から温かい空気が吹き込んで来る。そう言えば、もうすぐ衣替えなのではなかったか。


 ずっと、睡眠は十分ではなかった。美穂の夢を見てしまう。こんなにも同じような夢を見続けたことは無い。疲れが溜まっていたのか、心地良い風とテレビの雑音を感じながら、うつらうつらしていたようだ。

 予想外のチャイムの音に、心臓が跳ね上がる。

 来客など予定にないので、新聞の勧誘でも来たのだろう。無視しようかとも思ったが、泥棒が留守を確認していたら堪らないと思い、ノロノロと玄関へ向かう。ドアチェーンを掛けたまま扉を開くと、隙間から除いた顔に驚いて体を引いた。急いでチェーンを外す。

「由香、どうしたの?」

会う予定のなかった由香が、黙って玄関先に立っている。


 取り合えず中に入る様に促すと、黙ったまま靴を脱いで上がり込み、テーブルの前に腰を下ろした。様子がおかしい。挨拶すら交わしていないし、何かに怒っているように見える。どう対応したら良いものか混乱しつつ、コーヒーを入れて差し出した。受け取ってくれたことに安堵したが、眉間に寄った深い皺からプレッシャーを感じる。

「急に来るからびっくりしたよ。どうしたの? 何か怒ってる?」

解らないことは、潔く聞くしかないだろう。このまま黙っていられては、こちらの神経が持たない。

「雄一は、心当たり、無いの?」

無いから聞いているのだが……そんなことを言ったら、怒りが増幅されるのだろう。僕の少ない経験からすると、女性が怒っている時は、何を聞いても怒られる、黙っていても怒られる。

「ごめん。ちょっと解らないから、教えて欲しい」

余計なことを言って、逆鱗に触れたら大変だ。ひたすら潔くしていようと心に決める。


 しかし、沈黙が返って来るのだった。

 見るからに不機嫌そうな由香は、優し気な洋服を身に着けていた。淡い桜色のトップスは、透ける布地がひだになっていて、殺風景な部屋で鮮やかな存在感を放っている。こんなむさ苦しいところに閉じ込めていると、申し訳ない気分になってしまう。掃除も十分ではないので、綺麗な服が汚れてしまわないか心配になる。


「弘樹には話したのに、私には相談しないの? 私って雄一の彼女だよね?」

由香が口を開いた。

 そうか、そういうことか……。

 弘樹から、美穂のことを聞いたのだろう。彼女である由香に、僕が相談しなかったことを怒っているのか。ついでに、由香よりも弘樹に先に話したことも、怒りを増幅しているのだろう。

「えぇと……弘樹とは偶然会って、話したというか。由香には、もう少し心の整理がついてから話そうかと思っていたんだけど」

「私って頼りない?」

「いや、そういうことではなくて、あまり情けない自分を見せたくなかったというか」

「情けない姿でも見せられる相手が、恋人なんじゃないの? それが特別っていうことよ」

きっぱりとした口調で、もっともなことを言われてしまう。返す言葉が見つからない。


 都合が悪くなると黙る。そんな風に前の彼女にも責められたものだが、やはり僕は口を開けずにいた。

「情けない所を見ても、私は嫌ったりしないわよ。辛いことがあるなら、私だって力になりたいの。それなのに、話してくれないと何も解らない」

「……そうだね、ごめん。じゃあ、聞いてくれるかな?」

「……別に、無理に話さなくてもいいけど」

「いや、聞いて欲しい」

由香の表情が、少し和らいだように見えた。

 そこから僕は、由香に美穂の事件のことを説明した。弘樹に話した内容と同じだったと思う。自発的に話をした訳では無いので、言いたくないことを言わされているような違和感はあった。


「そっか。雄一も辛かったね」

話を聞き終わった由香は、そう言った。

 小説のようだとか、美穂の親に対する怒りとか、そういった感想は述べない。僕に気を使っているのだろうか。

 確かに、怒りや感想をぶつけられても、それに応えるのは面倒だ。今の僕には、人の気持ちまで受け止める元気は無い。

「まぁ、そうだね。辛かった」

「臨床心理士、辞めたいって思った?」

「いや、そこまでは考えて無かった」

「そっか」

由香は微動だにしなかった。深刻な話を聞いて、緊張しているように見える。


 ここ数日、夢の中でまで美穂のことばかり考えていた。流石に少し疲れてしまっていて、弘樹の時の様には話を出来そうに無い。このままでいては息が詰まってしまう気がして、外にでも出ようと思い立つ。

「由香、近くの公園にでも行こうか。ちょっと外を歩きたい」

「……うん、いいけど」

由香は、少し躊躇うような素振りを見せた。もっとゆっくり、二人きりで話したかったのかもしれない。



 外に出て、近くのコーヒーショップで持ち帰りのコーヒーを調達する。由香は、生クリームの塊のような、やたら甘そうなものを受け取っていた。

「それは、飲み物なの? ケーキなの?」

恐る恐る尋ねると、冷たい目を向けられる。

「ストローが刺さっているんだから、飲み物に決まっているでしょ」

「まぁ、女の子らしくて可愛いけどね」

何気なく言った言葉に、ぷいっと顔を背けられてしまう。照れているのを隠しているようで、やはり可愛く見えた。


 深刻に話すのが面倒で外へ逃げて来たのだが、日の光を浴びて他愛の無い会話をするのは悪く無い気分だ。出て来て正解だった。

 由香の歩調に合わせて、ゆっくりと公園へ向かう。自分のことで精一杯になっていたが、こんな風に他人に合せることだって出来るのだ。由香が会いに来てくれて良かったのかもしれない。狭い部屋で一人きりのつもりでいた僕は、自分の悲劇に酔っているような所があったようだ。

「公園って、あれ?」

由香が指さした先に、明るい緑の塔がそびえ立っている。公園のシンボルになっている、大きな銀杏いちょうの木だ。三角に尖ったような樹形は、絵本に出て来る木のようだった。

「そうだよ。端のほうにベンチもあるから、日向ぼっこに丁度良い」

「ふーん、気持ち良さそうだね」

あまり乗り気でないように見えたが、公園に着いた由香は、目を輝かせて銀杏を見上げていた。大きな木は、人を圧倒するものだろう。ただ存在を見上げるだけで、自然の力を感じた気分になるものだ。僕もよく、この公園で銀杏を見上げる。明るい葉が芽吹く春と、金色に輝く秋がお気に入りだった。


 ベンチに腰掛けると、美穂が溜め息を吐いた。

「何か、思ったより元気そうで安心した」

そう言って、僕に笑顔を見せる。

「そう?」

「そうだよ」

心配させてしまったのだろう。そう思うと、無理にでも元気な姿を見せたくなる。女の子に心配してもらったり、優しくしてもらえるのは、それだけで嬉しいものだ。だからこそ、僕も強くあらねばならないのだと思える。


 人と関わっている、彼女がいてくれる。そういう現実で生きているのだから、孤立して自分のことばかり考えているのは間違いなのだろう。確かに今、僕は辛い思いを抱えているが、自分の大切な人のことまで思いやれなくなってしまっては駄目だ。それでは、自分を情けなく思うばかりなのだ。こんな時でも、由香を笑わせたり喜ばせたりしてやれるのだったら、それは自分の自信になりはしまいか。


「あのね、今、雄一はすごく辛いと思う。でも、雄一は立ち向かっていける人だと思うんだ。沢山考えて、頑張れる人だと思う。この経験をバネにして、臨床心理士として成長して行けるよ」

「うん、ありがとう」

正直、由香の言葉は、あまり心に響かなかった。どうしても重みに欠ける部分があって、説得力が無い。

 しかし、僕の為に必死で励ましの言葉を考えた結果であろうことは予想出来る。どう言ったら僕が元気になるか……色々と悩んだのだろう。僕のことだけを思って時間を使ってくれた由香が愛しく思えたし、気持ちが嬉しかった。


「僕も、嘆いてばかりはいられないしね」

「うん、そうそう」

由香の得意なセリフを引用すると、嬉しそうに何度も頷いている。

 僕が元気になると喜ぶ人がいる。単純なようだが、こういう事実は気持ちを明るくしてくれる。由香にとって僕が少しでも価値のある人間ならば、僕だって自分のことを捨てたもんじゃ無いと思える。

 由香が立ち上がって口を開いた。

「ちょっと、あっちのコンビニでトイレに行ってくるね。ついでに食べ物を買って来るよ。雄一は何がいい?」

「あぁ、僕も行くよ」

「いいよ、すぐ近くだし。雄一はゆっくり日向ぼっこしてて!」

 睡眠不足のせいかベンチから離れ難くなっていたので、由香の提案に甘えることにする。食べ物などは何でも良かった。ただ、僕の為に選んだものを抱えた由香が、嬉しそうに帰って来る所を想像すると幸せな気分になる。


 一人になると、公園の音や匂いに支配されるようになった。さっきまで由香に集中していた感覚が、木の葉が風に擦れる音や、土の匂い、遠くで遊ぶ子供の声を拾っている。何を考えるでもなく心地良さに呆けていると、胸ポケットの携帯が喧しい音を立て始めた。騒音を止めようと、慌てて手を伸ばす。見ると、弘樹からの着信だった。

「はい、弘樹? どうし、」

『雄一、家にいないのか? 由香が来ただろ? どこだ?』

「え? 家の近くの公園だけど?」

電話が切れる。恐らく、電波が途切れたのではなくて弘樹が切ったのだ。

 電話の様子だと、僕の家へ来ている感じだったが、由香を探しているのか? 何か緊急の用事があるのだろうか。ここに来る? 訳が解らずに、立ち上がって途方にくれた。


 弘樹に電話してみようかと思い始めた頃、公園の入り口に走り込んで来る人影が見えた。遠くて顔は解らないが、弘樹であろうと当たりを付けて大きく手を挙げて振ってみる。僕の姿を見つけると、こちらへ駆け出したようだ。

「よ、よう」

僕の目の前へやって来たのは、確かに弘樹だった。苦しそうに荒い呼吸を繰り返している。

「そんなに走らなくても……ほら、そっちに水道があるよ」

しばらくしゃがみ込んで息を整えた弘樹は、黙ったまま水道へ向かった。

 これ程急いで、何の用事があるのだろう。顔を洗って水を飲んでいるらしき姿を遠目に見ながら、弘樹がここへ来た理由を考えてみるが、心当たりは無い。院生の頃ならまだしも、社会人になってからは急に家に尋ねて来るようなことは無かったのに。


 本人に尋ねれば済むことなので、ベンチに腰を下ろして待つことにした。公園の入り口に目をやると、由香の姿が見える。良いタイミングだ。弘樹が由香に緊急の用事があるのならば、待たせずに済みそうだ。

 由香が歩く姿は、自信に溢れていて美しい。いかにも仕事の出来る女性が闊歩しているといった風情なので、見ているこちらも気持ちが良かった。それが自分の彼女なのだから、少々誇らしい気持ちになってしまう。

 近くまで来た由香は、笑顔でこちらに手を振った。手を振り返すと、ぴたりと歩みを止める。一瞬で、由香の表情が消えた。

「由香、どうしたの?」

この反応は何だろう。何か、恐ろしいものでも見つけたような……虫でもいるのだろうか。周囲を見回すが、毛虫や蜂などの気配は無い。

 どこを見ている? 由香の視線の先には、水道から戻って来る弘樹の姿があった。

「あぁ、弘樹も来たばかりなんだけど、急な用事があるみたいで……」

何となく、尋常じゃ無い気配を感じる。由香は眉間に皺を寄せて弘樹を睨み付けているし、それに気付いているであろう弘樹も、同じような顔で視線を受け止めている。


 ケンカしているのか? それも、本気で。

 弘樹に居場所をばらしたのは、まずかったのだろうか。しかし、僕にはさっぱり事情が分からない。

「ちょっと、二人ともどうしたの? ケンカしてるの?」

二人とも黙ったままで、こちらに視線すら寄越さない。何にせよ、二人の問題だということなのだろう。でしゃばるのも気が引けるし、巻き込まれるのは面倒だ。

「僕は、席をはずそうか?」

僕のいない所で、大人同士、冷静に話し合ってもらうしかないだろう。どちらかに味方すれば、こじれてしまいそうだ。

「申し訳ないけど、そうしてちょうだい」

由香にそう言われて、一歩足を踏み出した。

「雄一もここにいろ。お前にも関係がある話だ」

弘樹の鋭い声が飛んできて、僕は動きを止めた。


「弘樹は黙ってなさいよ。あんたには関係ないでしょ? 帰ってよ!」

「関係無いわけねーだろ! それが勝手だって言ってんだよ!」

二人の怒鳴り声を聞いて、鼓動が早くなる。自分が怒鳴られた訳では無さそうだが、僕にも関係があると言った弘樹の言葉に狼狽してしまう。

 こんな険悪な空気を作り出すような事に関係した覚えはない。美穂のことを弘樹に先に話した件だろうか。いやいや、それでここまで険悪なことになるか?

 何かあるのだ……友達同士が怒鳴り合うようなことが。それはきっと、美穂のことで余裕を無くしている僕を、更に追い込むに違いない。

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