22.
弘樹と由香は、美穂のことで悩んでいた僕を慰めてくれていた。ついさっきまでそうだったのだ。僕を中心として、僕を気遣ってくれて……。
しかし今、二人は僕の目の前で睨み合っている。僕の知らないうちに、話題の中心はズレてしまったのだ。
「雄一に話しておきたいことがある。実は――」
弘樹が口を開くと、由香が弘樹に跳びかかった。突然のことに面食らってしまって、制止することも出来ない。
「黙ってよ! 言うな!」
目を剝いた由香は、弘樹の口を塞ごうとするように、手を伸ばしていた。右手を払われると左手も突き出して、必死で攻撃を繰り出しているように見える。
由香の手を押さえつけながら、弘樹は顔を逸らして言葉を続けようとしている。
「言うな! 言わないで――――! 雄一、聞かないで――――!」
由香が叫んで邪魔をする。
こんな状況を見せられて、それでは僕は帰りましょうとは言えなかった。僕としても、もう聞かずには済ませられない。
「こんな状態を見せられて、聞かずに帰ることは出来ないよ。兎に角、落ち着いて話してくれないかな? 僕にも関係あるんだろ?」
由香の叫びに負けないように、少し大きな声を出した。
由香の叫びと手が止まる。その隙を見逃すまいと、弘樹が口を開いた。
「院生時代、由香は俺の子供をおろしてるんだ」
弘樹の叫びは、正確に聞き取れたと思う。しかし、意味が解らない。
由香が地面に崩れ落ちた。
あぁ、由香の服が汚れてしまうと思いながらも、僕は動けずにいた。
院生時代、由香が、弘樹の、子供を、おろした……?
「由香と弘樹の子供?」
子供とは何だ? いや、解っている。どうやって子供を作るのかは知っている。
「由香と弘樹は、付き合っていたのか?」
僕が気付いていなかっただけ?
「……いや、付き合ってはいない。お互いに遊びのつもりで、気軽にセックスしていただけだ。それで、由香に子供が出来てしまって、おろした」
淡々と答えた弘樹に対して、どんな感情も湧いてこなかった。
「それは…馬鹿だな……」
僕の呟きに、弘樹は項垂れて、由香は一つ呻き声を上げた。
それ以上の感想があるだろうか。友達同士、遊びでセックスを繰り返して、妊娠して堕胎する――馬鹿者のすることだ。僕に隠していたのだから、二人は自分が馬鹿をしているという自覚があったのだろう。
気付かなかった僕も馬鹿か。よく考えれば、由香と弘樹の気安さは特別だったようにも思える。気が利いて他人に寛容な由香が、弘樹にはタバコを吸う事すら許さない。女の子には気を遣う弘樹が、平気で由香を貶すようなことを言う。
しかし、お互いの馬鹿は問題では無いのだろう。わざわざ弘樹が僕に告げたことに意味があるのだと思う。きっと、美穂のことがあった日も、このことを告げに来たのだ。僕が落ち込んでいたから、言えずに励ましてくれたのだろう。
「で、弘樹は何で僕に告げようと?」
以外にも、僕は落ち着いた気分だった。
「俺は……由香が雄一と付き合うことになったって聞いて。お前が知らずにいるのはフェアじゃないと思った。知った上で付き合うのは勝手だが、俺が由香の生涯の隠し事に巻き込まれるのは嫌だった。雄一は、俺にとっても大切な友達なんだ。騙すようなことは、俺が我慢出来ない。だから由香に、雄一に話せと言ったんだが、無かったことにするの一点張りで」
お前の為だと言わなかった弘樹には、好感が持てた。
僕の知らない所で、弘樹は由香を説得していたのだろう。
この話は、僕にどんな影響があるのだろうか……。事前に知っていたとしたら、僕は由香と付き合ったか? 解らない。いまいちぴんと来ない。
「知らなくても良いことって、あるじゃない!」
絞り出すような由香の声が響いた。
それはそうなのだろう。知らなくても良いことはある。例えば、影で誰かに酷い悪口を言われていたとしても、それを知らなければ平穏に過ごしていられるのだ。
しかし、知ってしまった僕が思うに、知らずに由香と結婚して家庭を持った姿など想像すると、少々嫌悪感も湧いて来る。その時に、何食わぬ顔で弘樹がマイホームを尋ねて来ていたりしたら……正直に言えば、気持ちの悪い話だ。由香の相手が知らない他人だったならば、それは受け入れることが出来ると思うが。
相手が弘樹なのが駄目だ。僕にとっても、弘樹は友達だ。自分の友達と彼女が、重大な秘密を共有して僕を欺くというのは許しがたい。
「知らなくても良いことはあるかもしれない。でも、知らずに由香と幸せに過ごす自分を想像すると、嫌悪感があるのも確かだ。由香は僕に黙っていても平気なの? 知らずにいる僕の前で、弘樹と仲良く出来るのか?」
厳しい口調にはならなかったと思う。怒りは湧いてこないし、単純に不思議だという気持ちが強かった。
「……昔のことよ。今の私と雄一には関係の無いことだわ」
地面に座り込んだままの由香が、顔を上げずにくぐもった声を返して来る。
「これ程の大騒ぎになったことだ。僕に関係が無いとは思えない」
僕の言葉を聞いて、由香は顔を上げて目の前の弘樹を睨み付けている。
「あんたが言うから……最低よ……私に何の恨みがあるわけ?」
由香に責められた弘樹は、一つ舌打ちをした。
「俺だってな、お前の相手が雄一じゃなかったら黙ってたよ。一生黙ってるつもりだった。お前が俺とのことを隠して、雄一と結婚なんてことになったら…俺には耐えられない。それで子供が出来ないなんて言われてみろ…平気なお前が信じられねぇよ」
「何よ! あんたは辛い思いなんてしてないじゃない。子供をおろしたのは私よ? 女ばっかり損をするのよ。それなのに、私の邪魔をするなんて!」
言い合いが始まりそうだったので、僕は二人に聞こえるように溜め息を吐いた。
僕には、弘樹の言っていることはよく理解出来た。性別による感覚の違いというものもあるのかもしれない。由香の言っていることは、確かに女性であるが故に大きな負担を背負ったと思えるところもある。だが、二人で招いたことだ。由香ばかり辛い思いをすることになったとしても、それは由香自身が招いたことでもある。それを盾にして、弘樹を責めるのは酷だろう。まして、だから僕に黙っているくらいのことは協力しろというのは、僕に対しても失礼な話だ。
「それにしても、結婚して産もうって話にはならなかったの?」
素朴な疑問を口に出してみる。院の何年の時だったのかは知らないが、二人とも二十五歳に近い年齢だっただろう。結婚するには早すぎるという齢でもない。現に、大学院には既婚者も何人かいた。大学を卒業してから職に就いていたものや、専業主婦だった人もいた。そんな中で院生同士が結婚ということになっても、糾弾する者はいなかっただろう。
「ならなかった」
簡潔に答えた弘樹に、益々疑問が湧いて来る。
「何で? 由香なら、結婚したっていいじゃないか?」
由香は、外見も中身も魅力的な女性だと思う。結婚することに不都合があるだろうか。
「よくねーよ。俺と由香は、結婚しても上手くいかねーよ。お互いの嫌な所が解るからな」
「そうかな?」
「そうだよ。こんなことになってるのに、由香の事を良く言えるお前が不思議だよ。そんなお前だから、由香が俺とのことを内緒にしたのが許せねーんだ」
ずっと感じていたことだが、僕よりも弘樹の方が怒っている。もしくは、僕は自分のことなのに怒りを感じられないでいる。気が動転しているのでもないし、取るに足らない話だと思っているわけでもない。ただ、あまりにも由香と弘樹が熱くなっているので、引いてしまっている自分がいた。
「弘樹だって、私の事悪く言えんの? 雄一は今、精神的に大変な時なのに。自分の罪悪感を何とかしたいからって、こんな時に言う話じゃないじゃん」
由香が立ち上がると、グレーの七分丈のズボンは土で汚れてしまっていた。話を聞く前の僕ならば、駆け寄って掃っていただろう。
「だからこそ、今日言ったんだよ! お前に支えられて、雄一が立ち直ったらどうすんだ。お前の事が大切になればなる程、傷が深くなるじゃねーか!」
なるほど……。
二人共、それなりに言い分はあるようだ。僕の事を考えてくれている。しかし、どちらも愚かであることに違いは無いだろう。
「あんた何様なの? 何、その上から目線。雄一の傷が深くなる? あんたが余計なこと言って傷つけてるんじゃん。自己満足なら、他でやってよ」
「余計なことじゃねーだろ。お前こそ、言ったら嫌われるって解ってたから、内緒にしてたんだろーが!」
これは、どこまでも言い合いが続くのだろうか。
もしかして、僕が何か言わないと終わらないのか? このまま黙っていても、いずれ、お前はどう思っているんだ、どうするんだと詰め寄られるのだろうか。僕も当事者ではあるので、当然そうなるのだろう。
だが、面倒だ。目の前でぎゃーぎゃー騒がれるのは、気持ちの良いものではない。兎に角、僕が発言することで二人が黙るのならば、口を開くべきだろう。
「二人共……」
睨み合っている二人の肩が揺れる。こちらを向く気は無いようだが、構わずに言葉を続けた。
「今ここでこうしているまでが、二人で招いた結果なんじゃないかな。弘樹にとっては、僕にばらすまで。由香にとっては、僕にばらされるまで。この瞬間は、二人で招いたものだろ? お互いを責め合うのはおかしいと思うけど」
言ってしまうと、心底、二人の諍いがどうでもいいことのように思えた。溜め息を吐いてベンチに腰を下ろす。背もたれに寄りかかって空を見上げると、風に揺れる銀杏の葉が見えた。
葉っぱの振動でも数えていた方がマシだ。
「そう、だな……」
弘樹の声に、力は無かった。
「弘樹は帰って。雄一と二人で、ちゃんと話がしたいの」
由香が、静かな口調で懇願するように言った。僕の方へ顔を向けた姿を目の端に捉えたが、視線を合わせる気にはなれなかった。
「ごめん。今すぐには、ちゃんと話をする気にはなれないよ。ここ最近、考えていることが多かったから、少し疲れているんだ。しばらくしたら話し合おう。連絡するから」
僕はこれまで、これ程一方的に人を突き放したことなど無かった。
疲れているのも、話し合う気分になれないのも本当だ。目も合わせずに、本当のことを言い捨てる。酷い仕打ちのようだが、目の前で本音をぶちまける二人を見せられたのだから、僕にだってこのぐらいは許されるだろう。
「……解った」
由香のかすれた声と、地面が擦れる音。
由香は、立ち去るのだろう。
空から視線を下ろすと、由香の後姿が見える。泣いているかもしれないと思うと、少し心が痛んだ。それでも、追い掛けて行って抱き寄せる気にはなれない。由香を軽蔑したとか、怒りが込み上げるとか、そういうことでは無い。ただ、面倒なのだ。
弘樹が動いて、僕の隣に腰掛けた。
「騒いで悪かった……」
「そうだな……うるさかったよ」
気の抜けたような声で返すと、弘樹が鼻で笑う。
弘樹がしゃべり出す気配は無い。帰るタイミングを無くしたのか、脱力して休んでいるのか。
「もう若くないのに全力疾走して、足でも痛くした?」
「してねーよ。まだ若いし」
由香と同様に、弘樹にも軽蔑や怒りは湧いてこない。感情が麻痺しているのだろうか。美穂の事件と併せて、僕が抱え込める限界を超えてしまったのかもしれない。
「なぁ、弘樹……僕達は、未熟で卑怯で愚かだなぁ」
「……あぁ、そうだな」
それは、僕の悩みだった。しかし、僕からしたら自信に溢れて輝いていた友人二人も、充分に愚かな人間だったようだ。
知らなかった。ちゃんと見ようとしなかっただけなのかもしれないが。
悩みが全て消えてしまったように、頭の中がからっぽだった。愚かな者同士、打ち明けられることがあるような気がする。
「僕はさ、患者さんが亡くなって……最初に自分の責任について考えたんだ。僕が対応を誤ったのだろうかってね。あとは、自分が泣かなかったことに動揺した」
弘樹には内緒にしていた本当の気持ちだった。
「それは……だせーな」
弘樹はそう言って、ベンチに背中を寄り掛ける。空を見上げて、葉っぱの振動でも眺めているのだろう。
「だよな。しかも西村先生に、『僕は今どんな顔をしていますか』って言ったんだ」
「マジかよ。すげー恥ずかしいな」
「だよな」
つまらない映画の感想を言い合っている気分だ。
弘樹が、ため息交じりに口を開く。
「今日の俺も、ださくて恥ずかしかったな」
「かなりね」
肯定してやると、徐々に体を揺らし始めた。
弘樹から笑い声が漏れ始める。釣られるように、僕も笑い声を上げていた。
心底、自分達を馬鹿馬鹿しく感じていた。
当初、睨み合う由香と弘樹を見た時には、美穂のことで余裕を無くしている僕が、更に追い込まれるのではないかと恐れていたのだが……この清々しい程の馬鹿馬鹿しさは何だろう。それは、己を憐れむような虚しさとも違っていて、心の澱に何かが吹き込んで来たような気分だった。
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