11.

「橋田さん、迎えに来ましたよ」

「はい、神様」

橋田さんは統合失調症の患者さんで、閉鎖病棟に入院している。五十代の男性で、相変わらず僕を神様と呼んでいた。


 病棟の鍵を開けて、カウンセリングルームへ向かう。病棟を出ると、突然病院内が明るく綺麗になったように感じられる。閉鎖病棟の入っている建物が古いせいもあって、どうしても暗いイメージが定着しているのだろう。

 それでも、閉鎖病棟に入るような患者さんは、多少建物が汚かろうが気にはならない。心が疲れていると、そういう些事には目が向かなくなってしまう。


 カウンセリングルームに到着すると、橋田さんはいつもお行儀良く背筋を伸ばして着席する。

「気分はどうです?」

「いい気分です!」

元気な返事に、思わず笑みがこぼれた。

 僕は、小脇に抱えて来たファイルの中から、一枚の紙と鉛筆を取り出して机の上へ置いた。

「今日は橋田さんに、絵を描いてもらいたいのですが、いいですか?」

「はい! 描きます!」

抵抗なく受け入れてもらえて有り難いが、自分が学校の先生になったようで、少々居心地が悪い。


「それでは、この紙に『実のなる木』を描いて下さい」

「はい! 実のなる木を描きます! 絵は得意です!」

 紙を引き寄せた橋田さんは、早速鉛筆を手にした。


 橋田さんに行う検査は、『バウムテスト』というものだ。紙と鉛筆を用意して、実のなる木を描くように指示するという簡単に行える検査だ。その分、絵の分析には苦労させられるが、描く位置、枝や葉の様子、木以外の描写など、細かな指標があるので熟練者でなくともある程度の分析は出来る。

 統合失調症の患者さんには、バウムテストのような単純な検査が適している。知能検査なども出来ないことは無いが、答えているうちに次々と想像が広がっていってしまうようなので、どうしても正確な結果は得られない。


 バウムテストでも、一般の人々とは違った絵が完成することになる。

 橋田さんは、紙の真ん中に小さな木を描いた。一本の幹に、葡萄を逆にしたような丸い葉の茂みが積み重なっている。何枚か、葉も書き込まれていた。しかし、そこで完成ではないようである。強い筆圧で、木の下に四角い大きなものが描かれる。何を描いているのか様子を見ていると、やがてそれが植木鉢か花瓶のような物であることが解った。木の横には花が描かれ、更に細長い葉などが配置されていく。


 『実のなる木』は、すっかり植木鉢の中の一本になってしまった。

 左上に太陽らしき物を描き、植木鉢を斜めの線で塗りつぶした後、橋田さんは鉛筆を置いたのだった。


 僕は木のどの部分から描き始めるかとか、どんな線を用いているかなどという情報を書き留めながら、感動を持って描画を見つめていた。橋田さんが言った通り、絵は僕などよりずっと上手だ。僕の指示からはずっと外れた絵が出来上がったが、何か前衛的な芸術作品でも見ているようだった。


 実際のところ、描かれたものが『実のならない木』や『丸裸の木』であったとしても分析に支障は無い。全然別のものばかり描かれたのでは分析に困るが、何か他の物が付け足されているくらいならば、それら全てが分析の材料になる。人格診断は勿論、精神障害や知能障害などについても発見が可能だ。


「説明していいですか!」

絵を見つめていた僕へ、橋田さんが手を挙げて質問して来る。

「はい、素敵な絵が出来上がりましたね。教えてもらえますか?」

僕の言葉を聞くと、目を輝かせたまま口だけで笑みを作った。

「はい、絵は楽しいです! これは、花瓶です。僕は花が好きなので、ここに大きく描きました。こっちは地面です。後ろには海があると思います。お日様も必要なので、ここにあります。ちょっと色を塗りすぎたかなぁ。暗い絵になっちゃったけど、これで大丈夫ですか?」

指差しながら説明した後、お伺いを立てるように首を傾げた。


「大丈夫ですよ。賑やかで素敵な絵ですね」

「そうですか、良かった!」

そう言った橋田さんの笑顔は、目が大きく見開かれており、口ばかり横に広がっているのだった。

 これでもかなり自然な表情になったと思う。統合失調症の患者さんは、表情を喪失したようになっていることが多い。幻聴や幻覚が続くと、ずっと嫌な物、恐ろしいモノを見聞きしているような状態なのだから、自然な表情を無くしてしまうのだろう。


「もっと描きたいなぁ」

首を傾げてじっと僕を見つめるので、予備に持ってきた紙を机の上へ置いた。

「まだ時間もありますから、好きな物を描いていいですよ」

「やった!」

鉛筆を持つと、迷いなく線を引き始める。


 強い筆圧で、花を描いているようだった。どこかで見たことのある花だな、と思う。

 五十代の男性に絵を描きたいとせがまれて、描画する様子を黙って見ている。普通に考えればおかしな状況だが、何となく好ましい時間に思えた。

「これは、尾形光琳です。カキツバタです」

橋田さんに言われて、しばし考え込む。確か、金の屏風にカキツバタが沢山描いてあるものがあったような気がする。文化財とか国宝とか、有名なものだ。

「金の屏風にカキツバタが沢山描いてあるもののことですか? それが尾形光琳?」

「そうです。僕は好きだなぁ」

「そうですか、詳しいですね」

恥ずかしながら、芸術に疎い僕には知識が無かった。


 本当に絵が好きで、色々と知識があるのだろう。絵について語り合うには、僕では物足りないに違いない。こういう時は、一般教養として、もっと広く知識を得ておけばよかったなぁと後悔してしまう。


 描き終わった橋田さんは、紙を手に持ち、僕の方へ絵を誇らしげに向けた。

 紙の真ん中に、何本かのカキツバタが描かれていた。太い線で重なり合った葉、黒く塗りつぶされた花びら。

「これは、芸術的な絵が出来上がりましたね」

「芸術ですか」

「はい。すごく素敵な絵です」

「上手く描けました。ほら、花びら、紫色で綺麗でしょう!」

「えぇ、綺麗ですね」

僕の言葉に、ははは、と声を出して笑い、満足げに頷いた。


 紫色の綺麗な花びら。黒い鉛筆で描いた絵には、色など付いてはいない。しかし橋田さんには、黒く塗りつぶした花びらが紫色に見えているのだろう。

 同じ人間でありながら、見えている光景が違う。橋田さんの見ているカキツバタを、僕も見てみたいと思った。



 医局に戻ると、西村先生がコーヒーを飲んでいた。

「橋田さんのバウムテスト、どうでした?」

「芸術的ですよ。すごく絵が上手いんです」

絵を渡すと、感嘆の声が響いてくる。

「これはまぁ、素晴らしいですね。色々描いてあって、分析は大変そうですけど」

「そうですね、報告書の提出は、来週にして頂けると……」

「いいですよ」

来週でも少々きついが、やるしかないだろう。毎日の仕事もあるし、先延ばしにすると自分がきつくなる。学生の頃は、期限が長い程に安心したものだが、社会人になってからはそうはいかなくなった。


「もう一枚、橋田さんがカキツバタを描いたものがあります。神様のところで飾って下さいというので、もらって来ました」

「これは見事ですね。尾形光琳のよう」

西村先生は、尾形光琳を知っていたようだ。

 橋田さんも尾形光琳のカキツバタだと言っていたと伝えると、興味深そうに何度も頷いている。カルテを思い返してみても、橋田さんが絵に興味をもっていそうだという情報は無かったように思う。


「やはり、症状が安定している患者さんには、心理検査を行うようにしましょう。バウムテストは検査用紙などを購入する必要もありませんから、事務方からも文句は言われないでしょう。むしろ、保険点数が高いので喜ばれるかもしれません」

「……分析は大変ですけどね」

「そこは神田先生に頑張ってもらって」

ふふふ、と優しそうに笑ってはいても、容赦なく心理検査の指示を出して来るのだろう。覚悟して、文献でも探した方が良さそうだ。


「ロールシャッハもやって欲しいな」

西村先生の言葉に、僕は慌てて首を振った。少しのけ反ったので、椅子の背もたれが軋んだ音を立てる。

「ロールシャッハは勘弁して下さい! 僕のレベルでは、いくら頑張っても月に一件がやっとです」

「じゃあ、月に一件ぐらい入れていきましょうか」

ふた月に一件と言っておけば良かった……。


 ロールシャッハ・テストとは、心理検査の中で最も被験者の情報が得られるものである。テストを行うこと自体は難しくない。左右対称のインクのシミが付いたカードを被験者に見せて、何に見えるか問うだけだ。

 しかし、その後の分析と、報告書の作成が難しい。被験者の答えをマニュアルに沿って分類していくのだが、それが難解だ。それも当然だろう。何に見えるかと問われて出て来る答えは、人の数だけ存在しそうである。

 同じ図版では似たような答えが返って来ることも多いのだが、中には、独特の答えを返して来る人もいる。そういう場合、この反応は何に分類されるのかと、長い時間悩むことになる。


 ロールシャッハ・テストが得意だという臨床家は、仕事に困ることは無いだろう。それでも、実際に職場で行っているカウンセラーは少ない。僕も当然、大学院で習ったのだが、とても授業だけでは学びきれないのだ。外部で開催されている三日間の講習会にも参加したが、その程度では自信など付くはずもない。

 とは言え、臨床家にとってはプラスになる技能なので魅力的ではある。由香と弘樹にも声を掛けて、勉強会などに参加してみようか……。


「やってみてはどうでしょう。今は病院に、ロールシャッハが得意な人はいないのです。神田先生なら出来ると思います。報告書がおかしくても、多少は目をつぶりますから」

「多少ですか」

「はい」

 通常の業務に加え、バウムテストにロールシャッハ・テスト……どれだけ忙しくなるのか、考えるだけでも恐ろしい。

 それでも、患者さんが心理テストを受けられる機会が出来るのは、プラスになるだろう。それぞれの患者さんのパーソナリティ構造がカルテに付いていたら、病院のスタッフも便利だし、患者さん本人も質の良い対応を受けられる。

 それに、尊敬している先生に『あなたなら出来ると思う』と言われてしまうと、どうしても嬉しく感じてしまう。大変なことでも、ちょっとやってみようかなと思えてしまうのだ。そんな僕の考えを見越した上での言葉なのかもしれないが、それでもやる気が湧いて来る。

 楽しそうに絵を描いていた橋田さんの顔も浮かんできて、これはやるしかないだろうという気持ちになった。


 西村先生が立ち上がり、コーヒーを入れ始めた。スプーンがカップに当たる規則的な音が響くと、突然、ここはもの凄く居心地が良い場所であると感じた。院生時代の実習期間も含めると、二年以上通っているのだが、これが初めての感覚だった。


 僕の目の前にコーヒーが差し出される。

「あっ、僕のを入れてくれていたんですか。ありがとうございます」

「いえいえ、これから頑張って下さいね」

笑顔で僕の肩を叩く西村先生を見て、手のひらの上で転がされているのかもしれないなぁと感じた。

 それでもいいか……大変だけど、居心地がいい。これが、やり甲斐があるということなのかもしれない。

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